3121話

 研究者の男は、止めるオイゲンの言葉を振り切って自分の助手と、近くにいた冒険者を半ば無理矢理引き連れて、レイを追った。

 その理由は、当然のように少しでも多くの穢れの情報を集める為だ。

 穢れの研究をする以上、その対象は少しでも多い方がいい。

 そう思っての行動だった。

 オイゲンは研究者達を纏めている人物だが、絶対的な命令権を持っている訳ではない。

 オイゲンの言葉を無視するような真似をすれば、後々不味いことになるのは間違いないだろう。

 しかし、それを知った上でもこうして行動に出たのは、穢れについて少しでも多くの情報を欲したというのが大きい。

 あるいは湖の側で炎獄によって捕らえた黒い円球とは別の穢れを見ることが出来るかもしれないと思ったのも大きかった。

 実際、この研究者の考えは決して間違ってはいない。

 ここでレイが魔法を使って倒したのは、湖で捕らえた黒い円球ではなく黒いサイコロだったのだから。

 だが……研究者がこの場所に到着した時、既に黒いサイコロはレイの魔法によって焼滅させられていた。

 オイゲンの言葉を無視してここまでやって来たのに、その穢れは既にレイによって倒されていた。

 そのことに研究者がショックを受けるのは当然だろう。


「何でだ……? 何で俺が来るのを待ってくれなかったんだ?」

「無茶を言うな。お前が何を考えてここにやって来たのかは理解出来るけど、そもそもお前がここに来るとは分からなかったし、何よりも炎獄が動かせない以上、ここで穢れを捕らえても意味がないだろ」


 炎獄は、あくまでもレイの魔力によって構成されている。

 そうである以上、レイの魔力がなくなれば炎獄は消滅するのだ。

 レイが近くにいない状況で炎獄が消滅した場合、黒いサイコロは自由に動けて、周囲に大きな被害を与えることになってしまう。

 そのようなことになって死人が出たりした場合、それがレイのせいでとなると、レイにとっては非常に面白くないことになってしまうだろう。

 特にこの辺りは、樵達がいたのを見ればわかるように、木の伐採が行われている場所なのだから、炎獄を使ってそれが解除された場合、周囲に大きな被害が出る可能性は高かった。

 例えば炎獄が穢れを捕らえたまま移動出来るのなら、レイもここで捕らえるといった選択肢を選んだ可能性はある。

 だが、生憎と炎獄は一度使ってしまえばそれを移動することは出来ない。

 ……この辺りは、レイが魔法を開発する際にイメージ不足によってそのような性能になってしまったのだが。

 何しろ炎獄はレイにとってかなりイメージしにくい魔法だった。

 それでも魔法を研究している男との会話で気分転換出来たこともあり、それによって最終的には何とか炎獄を開発することが出来たのだ。

 そういう意味では、移動出来ないといった欠点くらいは仕方がない。

 レイとしてはそう思うが、それはあくまでもレイの認識だ。

 実際に穢れの研究を任された研究者にしてみれば、とてもではないがあっさりとそんなレイの主張を受け入れる訳にはいかなかった。


「なら、炎獄を開発する時に動かせるようにすれば……」

「ちょっと、黙って聞いてれば何様のつもり!?」


 研究者にそう食って掛かったのは、ニールセン。

 元々ニールセンは研究者を好んではいなかった。

 そんな研究者が、自分の都合だけでレイに不満を言ってるのだ。

 とてもではないが、ニールセンには研究者の言葉を許容が出来なかったのだろう。


「ぐ……」


 研究者も、まさかレイではなくニールセンに反論されるとは思っていなかったのか、突然の行動に何も言えなくなる。

 そんな研究者に対し、次に口を開いたのは、その研究者の護衛として連れて来られた冒険者の男だった。


「俺もニールセンの意見には賛成だな。そもそも、俺を引っ張ってくるのもかなり無理矢理だったし」

「それは……だが、一応お前も納得しただろう?」

「そうだな。けど、もし俺が納得しなかったら、恐らくあんたは護衛もなしでトレントの森を移動していただろう? そっちの助手はそれなりの腕はあるようだが、それでもトレントの森の中でモンスターに遭遇した場合、危険だ」


 その言葉は周囲で話を聞いていた者達……樵の護衛達や、レイを納得させるには十分だった。

 現在、このトレントの森は多くのモンスターや動物が自分の縄張りを決める為に争っている。

 ましてや、エレーナが使った竜言語魔法によって森の一部が消滅し、それによって縄張り争いはより混沌とした有様となっていた。

 運が良ければゴブリンを始めとした低ランクモンスターと遭遇する程度かもしれないが、運が悪ければ高ランクモンスターと遭遇するかもしれない。

 実際、レイは妖精郷からそう離れていない場所で推定だがランクBモンスターと思われる、翼を持つ豹と遭遇している。

 もし多少腕に覚えがあるといった程度の助手を連れている研究者が、翼を持つ豹と遭遇するようなことになれば、間違いなく死ぬ。

 研究者もその言葉にようやく自分がどれだけの危険を冒したのかを理解し、小さく息を呑む。

 移動している最中は穢れのことだけを考えていたので、その辺りについては全く想像もしていなかったのだろう。

 護衛をしていた冒険者にしてみれば、そのくらいは考えて欲しいと思っただろうが。


「どうやら分かったみたいだな。あんたがいるのは、辺境だ。いつどこで高ランクモンスターが出て来てもおかしくはない。今回の件はもう終わったことだから、俺からは何とも言わない。けど、次に何かあった時は、しっかりと考えてから行動するんだな」

「ぬぅ……」


 研究者は危険を覚悟の上での行動だった。

 しかし、それでもまさか高ランクモンスターと遭遇するかもということは全く考えていなかったのだ。

 ただ、穢れについて少しでも情報を欲しての行動。

 それだけに、改めて冒険者に危険だったと言われれば、反論が出来ない。


「それで、この話はもう終わったと思ってもいいのか? なら、俺はそろそろ野営地に戻りたいんだが。いつまでもここにいても、樵達の邪魔をするだけだし。……なぁ?」

「いや、別にこっちは黒いサイコロを倒してくれたのなら、問題はないと思う。ただ、樵達が木を伐採して倒れる時に危険かもしれないけど」


 レイに声を掛けられた樵達の護衛の一人はそう言う。

 しかし、レイとしては素直にその言葉に従う訳にもいかなかった。

 いや、正確にはレイではなく、研究者の護衛として連れてこられた冒険者が、というのが正しい。

 半ば無理矢理連れて来られた冒険者だが、それでも護衛である以上は研究者をいつ木が倒れてくるのか分からないような場所に置いてはおけない。

 これがレイなら、倒れてきた木をデスサイズで斬り飛ばすなり、セトの一撃で吹き飛ばすなり……あるいは、それこそレイが素手の一撃で吹き飛ばすなりといったような真似をする必要があった。

 しかし、そのような真似が出来るのは冒険者の中でもレイを含めてほんの一部だけだ。

 そして護衛の冒険者はその一部には入っていない。


「なら、さっさと戻った方がいい。……お前も、オイゲンに無断で出て来たのなら、早く謝った方がいいだろうし」

「それは……」


 研究者は、レイに対して何か言い返そうとするも、結局何も言えない。

 研究者がここに到着した時点で、まだ黒いサイコロが倒されておらず、レイを説得することによって黒いサイコロを炎獄で捕らえることが出来ていれば、あるいはもう少しやる気を見せたかもしれない。

 だが実際には、研究者達がここに到着した時点で既に黒いサイコロは焼滅させられていた。

 研究者にしてみれば、オイゲンの言葉を無視してまでここにやって来たのに、それが完全に意味がなかったのだ。

 そうである以上、今の自分の状況に色々と思うところがあるのは当然の話だった。

 だからといって、現状について誰かを責めるような真似も出来ないのだが。

 もし責めるとすればレイだったし、実際にここに来た時に少しレイを責めてもいる。

 しかし、研究者も少し頭が冷えれば、実際にはレイを責めるといったことをするのは間違っていると思えてしまう。


「そうだな。いつまでもここにいても意味がないし……野営地に戻るよ。色々と言い掛かりをつけて悪かったな」


 そう言う研究者に、レイは気にするなと首を横に振る。

 これでまだレイのせいだと、レイが黒いサイコロを殺したのが悪いと言い張るような相手なら、レイも相応の態度をとっただろう。

 だがこうして素直に謝った以上、レイとしては研究者を責めるといったようなことをするつもりはない。

 そもそも最初に責められた時点でそこまで気にしていなかった、というのも大きいのだが。


「じゃあ、俺はこの人達を野営地まで連れていくから。……出来ればレイにも一緒に来て欲しいんだが、そういう訳にもいかないか」

「そうなるな。いつ新たに穢れが現れるか分からないし」


 実際には穢れが現れるという情報はニールセンが長から知らせて貰えるのだから、必ずしもレイが野営地にいなければならない訳ではない。

 だが、何かあった時に他の面々と相談をしたりすることを考えると、やはりレイにとって最善の選択肢は野営地で待機することだった。


(それに、穢れは人のいる場所に姿を現す。それはつまり、野営地に姿を現しやすい……と思う)


 穢れが人のいる場所に姿を現すのは、今までの経験から明らかだ。

 しかし、人の数が多ければ多い程に穢れが現れやすいかと言えば、それは否でもある。

 事実、アブエロから侵入してきた数人の冒険者達のいる場所にも穢れが姿を現したことがあるのだから。

 その辺りのことを考えると、レイがどうしても野営地で待機していなければならないという訳ではない。

 それでも万が一のことを考えると、やはりそうした方がいいだろうというのがレイの考えだ。


「じゃあ、俺は先に野営地に向かうから。……セト、ニールセン」

「グルゥ!」

「ちょっと待ちなさいよね」


 レイの言葉にセトとニールセンがそれぞれ答える。

 セトは身を屈めてレイが自分の背中に乗りやすいようにし、ニールセンはレイの左肩に着地する。

 移動する準備を整え、セトに合図をすると、セトはすぐに数歩走って翼を羽ばたかせて空に駆け上がっていく。

 そんなレイの様子を眺めていた研究者だったが、やがて不承不承といった様子で野営地に戻ることを承知するのだった。






「すまない、レイ。こちらの勝手で迷惑を掛けてしまった」


 野営地に戻って湖に向かうと、すぐにオイゲンはそう言って謝罪の言葉を口にしてくる。

 オイゲンにしてみれば、自分が指示をしている他の研究者が勝手に活動をしたのだ。

 レイに向かって謝るのは当然だろう。

 だが、そんなオイゲンにレイは気にするなと首を横に振る。


「お前が本当の意味で野営地にいる研究者を従えている訳でもないだろう? きちんと指揮系統があって、それで研究者が暴走したのなら、お前が謝るのも理解は出来るけど。それに……暴走は暴走だったが、その暴走も穢れについてもっとしっかりと調べようとしてだったし」


 レイが半ば研究者を庇うような言葉を口にするには、あの研究者がそこまで悪い相手ではないと理解出来ていたからだ。

 少なくても、自分の権勢欲を満足させる為に穢れの研究をしているような相手ではないというのは十分に理解出来た。

 もしあの研究者がその手のタイプであった場合、レイはこうして庇うような真似はしなかっただろうし、場合によっては自分で研究者を排除していただろう。

 そのようなことにはならなかったというだけで、レイはそれなりにあの研究者を認めていたのだ。

 もっとも、レイと知り合ってまだ短いオイゲンにそこまで察しろという方が無理だろうが。


「けどまぁ……そうだな。その辺を気にするのなら、次からはあまり気を付けるような真似をしないでくれると助かる」

「うむ。そうしよう」


 オイゲンもまた、出来れば樵達の方に出た穢れはどうにかして捕らえて欲しいと思ってはいた。

 しかし、それを出発前にレイが拒絶したことで、渋々ではあるが納得したのだ。

 そういう意味では、今回暴走した研究者の気持ちも分からないではなかった。

 レイが怒りを我慢出来ない様子なら、何らかの処分をしなければならなかったかもしれないが、今の様子を見る限りではそのようなことも必要ない。

 勿論、何の処分もしないという訳にはいかなかったが、それも軽い注意程度でどうにかなると思える。


「それで、こっちの穢れを見ていて何か分かったか?」


 尋ねるレイに、オイゲンは少し悔しそうにしながらも首を横に振るのだった。

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