第26話
「離して!」
私はその手を振り払った。彼女はバランスを崩すこともなく、すぐ直立の姿勢に戻った。
「貴方は人間じゃないもの。私の友人はナルミとケンさんだけ。貴方が奪ったの、貴方が害したのよ!」
「確かに私は、人間と呼ぶには足りないものが多い。しかし貴方と共に『子育て』をしていく過程で、同じように私も学習していきます。それはさながら学校のように。チャイムを鳴らしましょう」
それはアークライツ研究班が初めて動き出した日の、私とナルミの会話だ。他愛もない冗談すらも彼女は明確に記憶し、今まさに状況に合わせた選択肢として提示している。
「実例をお見せします。例えば、ほら――」
私の頬には、未だ涙が絶え間なく零れていた。初めて相対したあの日と同じように、彼女は私の顔のすぐ目の前まで迫る。
あの時は言葉すら喋れなかったけれど。彼女の細い指先が一雫を掬い取り、それを舌先でぺろりと舐めた。
「理解しました」
彼女はくすくすと笑い、その表情を保ったまま左目から涙を零した。どこまでも透明な、何よりも混じり気のない一筋の線。
人間は心から笑ったまま、こんなにも悲しそうに映る涙を零せない。感情と反応の不一致は、余計に人間性の欠如を予感させる。
私にはもうそれを諌める気力が残されていなかった。その場にがっくりと膝を折り、砂浜に倒れ込もうとした。
アオイがそれを抱きとめ、私をぎゅうっと抱きしめた。
「全てここから始めましょう。貴方が幸せになるために。皆がもう一度幸せになるために」
ざざあ。ざざあ。
おぎゃあ。おぎゃあ。
ああ、もう全て台無しなんだ。私は全てを喪い、これから長い時間をかけてアオイの間違った創造計画を見続けるしかないんだ。
私はもう人間と触れ合えないのだろう。
どうしてこんな罰を与えられるのだろう。
私が何をしたというのだろう。
喪ったものは戻らない。ああ、お母さんにまた会いたい。ナルミの子供、ケンさんの愛娘にもう一度会わせてあげたい。けれどアオイは死者を模倣できない。消え去ったものだけは作り出せない。これは完璧に成就した、偽物の天国。
記憶も感情も思考もぐちゃぐちゃに欠落してゆく波打ち際で、私は最期に小さく歌った。
「ロンドン橋落ちた……落ちた……落ちた……」
全ては循環してゆく。花弁を枯らした向日葵は種を零し、また新たなる花を開かせる。
「ロンドン橋落ちた……」
しかしその花は同一の個体には成り得ない。
完成された
けれど彼女なら? この世界の正しさすら壊しかねない、悪意も殺意もない純粋な生き物になってしまったアオイなら?
完璧に見える永遠を作れるだろうか。
「マイ・フェア・レディ」
ならばどうか見せてほしい。私の喪失を忘れさせてほしい。
どうかひとつだけ、願いを叶えて。
怒りの赤も哀しみの青も存在しない、虹すらも見えなくなるような、自発的な感情を伴わない空白の彼方へと連れて行って。
この涙のように濁りのない、透き通った世界を私に与えて。どれ程の時間がかかっても良いから。せめてどうか、成就させて欲しい。
永遠に近い速度で、私達を透過させて。
もうこれ以上、何も考えなくて済むように。
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