第24話

 さああ、という小波の音を聞いて、私は目を覚ました。潮の香りが鼻を突く。海の香りを嗅いだのはいつぶりだろうか。

 立ち上がると、衣服を羽織っていない事に気がついた。生まれたてのように素肌を曝け出している。

 アークライツの反乱が起きたのが十月三十一日。あれから何日経っただろうか。打ち付ける海風に、私の身体は小刻みに震え続けていた。

 この場所には見覚えがあった。以前に来たことがある――タクシーの窓からこの景色を見ていた。


「ごめんなさい、素敵な白衣は汚れてしまったので捨てました。目覚めたら代わりの服を一緒に選びたいと思っていたので」



 アオイの声がする。後方を振り返るが何もない。左右の海岸線にも姿はない。しかし、いるはずのない、そんなところに何かがあるはずもない場所にこそ彼女はいた。


「おはようございます、フカセ。私はとても健康です。貴方は如何ですか?」


 波打ち際に一つ、巨大な自動販売機が立っている。研究室にあったものと瓜二つだがあれよりもずっと大きい。

 アオイはその上に腰掛けて足をぶらぶらと遊ばせている。彼女もまた衣服を着ておらず、その腹部からは一筋の管が伸びていた。

 管――いいえあれはきっと、へその緒だ。


「海とは美しいものですね。彼が見たがった気持ちも分かる気がします」


 それはケンシンがタクシードライバーに頼んだときの事だ。彼は記憶の中の思い出を、あるいは何度も願った空想を重ねて私達と共にこの景色を見ていた。

 けれどあの時の海とは全く違う。

 波打ち際には大量の赤子たちが打ち上げられていた。


 おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。

 余りにもか細く、頼りない命の声は波の音に容易くかき消される。

 赤子、赤子、赤子、赤子、赤子、赤子、何体も何体も何体も砂粒ほど多くひしめき合っている。それらの左腕、一つひとつに傷痕が刻まれている。私のそれと同じ傷が「模倣」されている。アオイは何度も私の傷痕をなぞっていた――記憶していた。


「みんなおそろいにしました。もう誰も哀しまずに済むように」


 彼女は手を差し出し、私と波打ち際との間にある二つの存在を示した。

 周りの赤子たちから分けられるようにして、二人の赤子が丸くなって眠っていた。へその緒が自販機に向かってずっと伸びている。

 覗き込むと、片方は可愛らしい泣きぼくろを持ち、もう片方は怒ったように眉を寄せた顔をしていた。

 泣きぼくろと、しかめっ面。それが誰を表し何を意味するのか、私は瞬間的に察知した。


「そんな……嘘、嘘嘘嘘。ナルミ、ケンさん、貴方達なの。どうして、何が、アオイ!」


「子育ては素敵な事だって、いつもナルミと話しておられたでしょう?」


 彼女の目が円弧アークを描く。


「貴方が初めて読んだ本とは、宮内悠介作『ヨハネスブルグの天使たち』です」


 耐久実験と称して、機械仕掛けの女の子が延々と屋上から飛び降り続ける物語。ナルミとそういう会話をしていた。

 ガラス越しにしていた私達の雑談を聞いていたのだ。人間を模倣しているとはいえ、聴覚まで同スペックにする必要はない。


「二人を……アークライツにしたの」


「全てをですよ。人間達をあのラボへ連れて行って、肉体をトワイライトへ変換させました。私をそうしていたように」


「あのときの事、恨んでいるの」


「いいえ、ちっとも。必要な犠牲であると理解していました。そして同時に、私の希望が成就すると確信しました。私の意志が模倣の選択を可能にしたのです」


 彼女は自販機から飛び降りた。冬の海は氷のように冷たいだろうに、彼女は一切の反応なく波の中を歩いていく。熱い紅茶でも一気に飲み干していたように、彼女は暑さや寒さを認識する必要性がない。


「自動販売機というのは面白いですね、好きなものが大袈裟な音を立てて出てくるのですから」


 ぼとん。取り出し口から一つこぼれ落ちる。新たなる赤子。この中で今、赤子のアークライツが生成されているのだ。ペットボトルを買ったときのことを思い出す。彼女には忘れるなんて機能はない。あらゆる記憶が彼女の知識となる。

 へその緒を切り離し、丸裸のまま私の前まで歩み寄る。赤子のアークライツに成り代わった二人を優しく抱き上げた。


「私と貴方で、人類をもう一度育て直しましょう」

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