第20話

 ナルミは椅子を引っ張ってきて、静かに座った。足を組んで、真っ白い壁だけを見つめながらつぶやく。唇の隙間から、彼の苦しみが漏れ出してゆく。


「……流産があったんだ。初めての子供を楽しみにしていたけれど、その願いは叶えられなくなった。アオイを見たとき、いつか俺達の為に子供を作って欲しいと思ったんだ」


 以前、彼は「パパはどんな仕事をしているの?」と聞かれたらどうしよう、なんて笑っていた。今になって思えば、彼は視線を逸していた。そういう癖がある。

 私は左腕を動かし、シーツをどかして傷口を顕にした。


「これは母が遺してくれた。私を置いて逝ったけれど、そうでなければ私はここにいられなかったかもしれない」


 私は生い立ちについて初めて話した。母が逝った事で私は優先的にリコネクターズに選ばれ、雇用促進の一環でエクリプスに就職できた。

 喪失によって獲得の道が開かれた。満たされず飢えた日々だけれど、母のいる生活。母はいないけれど、同僚と共にアオイを育てる生活。私は多分、もう一度選び直せると言われても今の生活を選ぶだろう。

 私は望んで母を見捨てたと言えるのかもしれない。河童が脳内で囁いた。


「お前は産まれることを望んでいたのか」


 答えはきっと、もう答えられない程遠くに置いてきてしまった。余りに複雑な道を歩き過ぎたから。振り返れどもその轍は内臓のように入り乱れてしまった。

 私達三人は同じように何かを喪失し、アオイによって穴を埋めようと戦っていた。もっと早く知りたかったけれど、ここまで堕ちてしまわなければ話す勇気も持てなかっただろう。

 私はナルミとディックの手を取り、出来る限りの笑顔を浮かべた。くすくす。ちゃんと笑えているだろうか。


「管理官、ファーストネームを教えて下さい。これから沢山、貴方の名前を呼びます。新たな友人として」


「私は……私の名はケンシン。堅い芯と書いてケンシンだ」


「素敵な名前」


 私とナルミ、そしてディック改めケンシン。三人のちいさな同盟が実を結んだ。

 アオイは隣でその光景をじっと見ていた。瞬きもせずにただじっと。

 そして白しか無いこの部屋の天井に目を向けて、私にだけ辛うじて聞こえる程の声量で呟いた。


「きらきら光るコウモリさん、一体きみは何してる……この世を遥か下に見て、お盆のように空を飛ぶ」


 『不思議の国のアリス』に登場する一節を諳んじた。

 コウモリさんとはいわば、私達をこんな目に遭わせたエクリプス全体を指しているのだろうか。あるいは人知れぬ犠牲を知らぬまま、アークライツという利便性だけを信奉し求め続ける社会を指しているのだろうか。それともただ、混濁した意識が可愛らしい詩を拾い上げただけだろうか。

 その答えはすぐに明らかとなる。考え得る限り最悪の形で。

 

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