第19話

 ――西暦二〇四四年九月一日。ガラス部屋にベッドが一つ追加された。アオイのものの隣に私のものが置かれたのだ。私も彼女のようにその身をボロボロに消費してしまっていた。たった一つの違いは、彼女は朝に死の淵へ立ち、夜にはその崖際から遠く離れた花畑まで戻ることができる。しかし私はその眼下に見える深淵を見つめながら、いつこの足元が崩れ落ちるのか怯える事しかできない。


「彼女に会わせてくれ」


「二人共も限界に近い。そっとしておいてくれないか」


 ガラス向こうの会話がうっすらと聞こえる。ベッドの上でゆっくり寝返りを打ち、そちらへ視線を移す。透明な防壁のあちら側で誰かが揉めている。ナルミとディックだ。

 なるほど、アオイの気持ちがよくわかる。確かにあんな透明の壁であっても、とてもリアルがあるとは思えない。どこか遠くにある知らない風景のように、何の情景も感じられない。

 きっと人は、体温だとか吐息だとか、物質的な実感が無ければ現実を認識出来ない。例えばバーチャルな世界しか知らない人がいたとしたら、世界はきっと平たくて無機質なものだと誤認しながら生きていくだろう。それは健全といえるのか、最適化の過程と呼べるのか。


「頼む、会わせてくれ」


 頑として譲らないディックに観念し、ナルミは扉を開いた。ディックはゆっくりと私達の元へと歩み寄った。

 点滴を打たれた私は手足が棒切れみたいになっていて、目元は黒ずんでしまっているだろう。

 同情の眼差しなんて必要としないけれど、そうせざるを得ない見た目なのだから仕方ない。


「フカセ、急にすまない」


 ナルミの声色は穏やかだった。ああやっぱり、貴方は優しさを持って私を見てくれる。壊れた人形のように粗雑に扱った方が遥かに気が楽だろうに、貴方は私の隠し持つ人間性を見出してしまう。隠れたものにこそ光を見出す。私には貴方が神にすら見えるよ。


「久しぶりだな。私のことを覚えているだろうか」


 こくり、と小さく頷いた。忘れるわけがない。私の世界にはアオイ以外に貴方達二人くらいしか存在しないのだから。

 ディックは明らかに狼狽していた。次の一言を探して視線を右往左往させ、長い沈黙が広がっていた。やがて意を決したように、彼はその場に跪いた。

 私の手を取り、掠れた声で言葉を絞り出す。


「すまなかった……私は、もっと上手くできたはずなのに」


 彼は懺悔した。目元には透明な雫がゆらゆらと漂っている。それを零してしまわぬよう賢明に眉を寄せて、彼は私の手を握った。


「貴方のせいじゃない」


 そう言うのは酷く簡単だが、しかし彼はそんな言葉を望んでいるだろうか。何を持って彼に寄り添うことが正解なのか。私は考えた。けれどボロボロになった私の前頭葉では、都合の良い金言名句は思い浮かばない。


「君達には辛い思いをさせてしまった。私の力不足だ」 


 ディックは水面下で私達を守り続けていた。アークライツの運用について何も話さなかったのも、独断でアオイを外に連れ出したのも、彼なりの気遣いだった。ぎりぎりになってアオイのトワイライト生成計画を明かしたのもその一環だったが、それは逆効果になってしまった。

 その負い目を感じて身を引いていたのだが、自責の念に耐えられなくなり私に会いに来た。そうして今に至る。

 彼の話で私達が人知れず護られていた事に気づいたのだった。


「許してくれとは言わない。しかし君達の苦しみを私も共に背負いたい」


「嬉しいけれど……どうしてそこまでして……?」


 彼はアオイの手を取り、初めて彼女の顔をしっかりと視認した。


「エクリプスに就職してすぐ、娘を病で亡くした。まだ十代だというのに、この世界の素晴らしさの半分も知らないまま逝ってしまった。彼女を……アオイを見ていると、その時の哀しさを思い出してしまうんだ。けれど同時に……アークライツが発展すれば、娘も帰ってくるんじゃないかと期待してしまう」


 アークライツの発展により、死した人間の復元も可能なのではないか。彼はそこに希望を見出していた。復元されたとしても、それは彼自身が知る理想で出来た虚像でしか無いけれど、そこに込められた過去、大切な物語があるからこそ彼は救われる。そういう救済があっても良いだろう。

 自らが救われる為には、他者の不幸との共存も避けられない。


「エクリプスに辿り着いた者は、大なり小なり喪失を埋める為に従事している。君達もそうだろう」

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