第18話
私は爪の隙間に潜り込む肉片を見ながら、『不思議の国のアリス』を思い出す。アオイと私とを繋いだ初めての物語。
アリスのお姉さんは、妹の語る不思議な世界に魅了されて自らも空想の海に浸ることにした。目を開けてしまえばつまらない現実に戻ると分かっていたけれど、しかし瞼を下ろせばそこには他愛ない悲しみや無邪気な喜びがあったのだ。
物語があればこそ、私達は生の綱渡りを歩いて行ける。今の私を辛うじて繋ぎ止めているのは、私とアオイ、ナルミで築き上げた過去という物語だけだ。
けれど不意に、脳内の河童が囁いてくる。お前は産まれることを望んでいたのか。
がりがり、がりっ。
「フカセ様、出血が確認されています。今すぐ医療班を――」
オービットが警告を発する。
「うるさい、黙れっ」
だから耳を塞いでその場にうずくまる。
うるさい。うるさいよ。オービットもナルミもこの世界に渦巻くノイズも何もかもうるさい。
お前はお前の幸せを優先しろだなんて。ナルミの優しさが痛くそして辛い。
私は自らの意思でエクリプスにやってきた。自らの意思でここに住み着いた。自らの意思でアオイに寄り添った。自らの意思でその身を傷つけた。
私の選択に口出しするな。こうでもしなければ私は生きていけないんだ。
私。私。私。私の連鎖。結局は自己満足の延長にあり、いつかは終わるとどこかで信じてしまっている。このままアオイの生成を見続けていたら、いつか彼女が壊れてしまって開放されるかもしれない。そう考えてしまっている。
人間は、何かを始めるときに必ずその終わりを想像する。明日の自分は未来の断片。もしも明日が未来なら、想像力なんてなんの役にも立たないというのに。
「トワイライト回収班です」
研究室の扉が開けられ、ガラス向こうのナルミが立ち上がり、研究員を中に招き入れる。
彼らがこの部屋に入ってきたら。アオイを奪われ、数十分間の孤独を味わい、戻ってきた彼女はまた物言えぬ人形になっている。苦しいはずなのに、しかめっ面ひとつ見せることなく。だからこそ何よりも哀しい。
「NT215500研究員、A01から離れて下さい」
シワひとつない白衣をまとった男が優しく私の肩に触れる。
「やめて、彼女を連れて行かないで!」
「毎日の事でしょう。大丈夫、すぐに戻ってきますから」
「アオイは毎日苦しんでいるの……お願い、赦して」
「そうはいきませんよ。五年で千八百体分のトワイライトが生成できましたが、アークライツはまだまだ必要になる。今は発掘分のトワイライトで賄えますが時間の問題です。貯金はあればあるほど良い」
「連れて行かないで、アオイは壊れているの、そう壊れたの。もうトワイライトは作れません」
アオイは血の滲む私の腕を触り、癒そうとするかのように何度も撫でた。傷痕がちくりと痛むけれどどうでも良い。
「やれやれ……FF83225研究員、お願いします」
ガラス向こうのナルミがモニタに指を伸ばす。
その表情がこちらからはよく見えない。視線が交わらない。そうお願い、どうか感情を殺して。私なんかに思い悩まないで。
「お願い、私を――」
唐突にぶつんと何かが切れる音がした。ナルミは己の職務を貫いてくれた。それで良いの。苦しむのは私達だけで良い。
五年間で世界は変わった。
それと同じように私も変わった。
今、私の体には一本の管が装着されている。アオイと同じように、常に何かを供給できるように。
強制的な睡眠。私がアオイを匿ってしまわないように。
ああ、誰もが私達に残酷だ。
天使なんてどこにもいやしない。
「私を……独りにしないで……」
次に目覚めた時、すでにアオイは次の疑似トワイライトを与えられた後だった。
吐けるものが胃に残っているのなら全部吐き出したい気分になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます