Chapter 3: Unfold
第17話
――西暦二〇四四年一月。
毎日が未来であるならば、想像力なんて何の役にも立たない。なぜなら私の日々は崩壊しているからだ。
午前五時。シャワーを浴びることも、毎朝の義務である心理診断を行うこともない。
私がやるべきことはごく僅か。
素敵な天使は今日も生きていられるのか。
素敵な明日の為にその身を捧げてしまうのか。
私は椅子にかけたままのダボついた白衣に袖を通す。ロンググローブは付けていない。もはやこの傷を晒す相手も殆どいない。
「おはようございます。今日も一日研究に励みましょう」
オービットは私の心理状態を把握しつつも、普段と変わらない独り言を五年間休まず私に送り続けている。
私はもう居住区へ戻ることはせず、このガラス部屋で共に生活する事にした。ベッドは彼女のためにあるので、床に寝そべったり椅子に座ったまま、一日一時間寝たかどうか、という生活を五年間続けた。
体重は減り続けるし、目元は青黒く染まり、体中から骨が浮かび上がってきている。
しかし研究室にはナルミしか来ない。彼は何度も私を止めたけれど、それでもとアオイにしがみつく姿を見て心が折れたらしい。
今はガラスの向こうでアオイの管理をしてくれている。私に声をかけることはない。そこに私はいないものとして扱ってくれていい。その想いを彼は汲んでくれたのだ。
ディックはもう長いこと此処へ来ていない。アオイが軌道に乗った以上、業務での接点はほぼ無くなった。私達はやるべき事だけを見続けるべきなのだろう。
「おはようアオイ、体調はどう?」
毎日八時ごろに素体の入れ替えが行われる。朝には変換が完了しているので、トワイライトの回収が来るまでの数時間でしか、私とアオイはまともに会話が出来ない。
「おはようございます、フカセ。私は元気ですよ」
優しく微笑む彼女の手を握り、私は散らかった感情を整理する。誰かに当たり散らしたり、すべてを投げ出して遠くへ行きたいと考えたことは何度もあった。
けれどあらゆるエネルギーが有限であるように、感情にもまた限界値が存在する。いつしか私は怒ることも悲しむことも少なくなり、ただただ毎日、死んでは生まれ変わり、快復し、また壊れてしまう彼女を見送り続けた。
終わらない葬儀。永遠に続く追想。それは考え得る限り最悪の地獄で、けれど地獄が無ければ健やかな日常は成り立たない。
私が壊れてしまう事で、アオイが朽ちてしまうことで、五年かけたアークライツ量産計画が台無しになってしまう。
現在アークライツは一億体を突破した。殆どの国に最低一体は存在すると言われている。介護施設から災害時の救援部隊、治安維持まで。様々な形で彼らは奉仕している。
そして彼らを動かす思考回路はアオイのものをベースとしている。需要に合わせてカスタマイズはされているが、人間性を支える重厚な思考は私とアオイ、そしてナルミの三人で築き上げたあの日々が元になっている。
だから無駄ではなかった。私達の努力は実を結んでいる。けれどその果てに与えられたのは、生きているだけで肺が押しつぶされるような、軽やかで不愉快な末路だった。
生成計画も順調に進んでいて、もう間もなく百体ほどの生成用個体がアオイのように運用されるらしい。こういう時ばかり、彼らは迅速に動けない。この五年間、共通の被害者を待ち続けてアオイ一人が苦しんできたと言うのに。
がりがり。最近、私は自傷行為が増えてきた。左腕の傷痕をなぞり、そして爪を立てる。このままどうか血管が露出してしまい、うっかりそれを切り裂いてしまえないだろうか。そんな素敵な妄想を奏でながら私は自らを掻きむしる。
どこまでもどこまでも、赤黒く青黒く仄暗く、醜い血潮を撒き散らしたいと願っていた。
けれど私には死を選ぶ勇気がない。
もしもガラスを打ち破る力があるのなら、手を振り上げたかった。
ここではない何処かまで走れる脚があるのなら、擦り切れるまで逃げ続けたかった。
この心臓を止める勇気があるのなら、今すぐにでも絶やしたかった。
それで貴方が幸せになるのなら。
けれどそれでは誰も幸せになれない。ちっぽけな命が一つ、トワイライトの原料の仲間入りをするだけだ。それでは駄目だ。アオイに生まれてきた意味を与えること、それを継続させることが私に残された使命だ。
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