Chapter 2: yesworld

第10話

 しばらくの月日が経ち、アオイの言語能力は眼を見張るほどの進化を遂げた。人間を遥かに凌ぐ量の文章を読み込み、私と会話を繰り返す。最初はケーキと私しかいなかったマインドマップは、蜘蛛の巣よりも精巧できめ細かなものにまで広がっていた。

 「私」から広がる線を指で辿っていくと、驚くほどの分岐を構築している。受け答えだけなら既存のAIアシスタントとそう変わらないだろう。そうだ、そもそもアオイを作る際にアシスタントの言語機能を付与することは出来なかったのだろうか。


「脳への書き込み方が分からないからな。脳だけデバイス化する方法もあっただろうが、上はトワイライトの模倣能力を使って出来るだけ製造コストを抑えたかったんだろう」


 確かにコストが機械ではなく人間ならば都合が良いだろう。私達は歯車という名前の奴隷だ。


「まあ良いじゃないか、こうしてのんびりスローライフを許されているんだから」


「確かにそうね。一日何杯コーヒー飲んでるんだか」


 そうしてまた一口。

 部屋には『ロンドン橋落ちた』のオルゴールが流れている。初めて触れ合った時から続く願掛けだ。

 ガラス向こうのアオイは、今や言葉遣いも表情も人間のそれに極めて近くなった。姿勢良く座り、夏目漱石の『こころ』を読む姿はもはや私達との区別を必要としない。

 それでもなお、上は部屋から出ることを許可しない。彼女の世界は白と透明の壁と私、そして膨大な物語で出来ている。

 かつては「紅茶、とは、なに」くらいの喋り方が精一杯だったけれど、今やシェイクスピアの劇みたいに滑らかな言葉を操れる。


「二人共、少しいいか」


 ディックが研究室に入ってきた。少しだけ空気がピリついたのを肌で感じる。

 しかし彼の表情は幾分鋭さが欠けていて、どこか疲れているようだった。アオイの事で忙しくなっているのだろうか。


「頼みたい事がある」


「何でしょう?」


「これを」


 ディックは空中で指をさばく。拡張現実に映されたインターフェイスを操作しているのだろう。ぴこん、と私の拡張現実に通知が来た。中身を開くと、支払い用のバーチャルウォレットが入っていた。


「それを使って、街の景色を見せてほしい」


「外出許可が降りたのですか?」


「ようやくな、ただし条件が一つだけある。タクシーによる移動、それだけだ。エクリプスを出たら好きなルートを辿っていいが、こちらに戻ってくるまでアークライツの降車は認められない」


 つまり、本当に文字通り街を見せる事しかできない。それって意味があるのだろうか。公園で子供がブランコを漕いでいたとして、その笑い声や軋む接合部の音が聞こえなければ物語にならない。ガラス越しの世界しか見られないのなら、この部屋と変わりないだろうと私は思う。

 しかしだからといって断るのも酷な話だ。せっかくの好意なのだから有り難く受け取ることにした。


「管理官は来られないのですか?」


「私は遠慮しておく」


「遠慮、と言う事は予定を空けられなくはないのですね?」


「お、おいフカセ、何言ってんだよ」

 私は自室の本棚を思い出していた。そしてあの夜の葛藤を。


「私、決めたんです。臆病な河童は外の世界へ出られないけれど、私達は此処で生きていくしか無いんです」


 だから、歩み寄るほかに無いのだ。悩んでも恐れても、何らかの一歩を、何処かへの一歩を踏み出す日を受け入れなければならない。

 私は相変わらずナルミ以外の人間とまともにコミュニケーションが取れないけれど、アオイに見せたい。私が私以外と言葉をかわす姿を。

 ナルミとディックは河童という単語に首を傾げていたけれど、とにかく私が一歩歩み寄ろうとしているのだというのは察してくれた。


「……仕方あるまい」


 そう言ってディックはデバイス認証を行い、何かの承認を実行した。アオイの首に長らく繋がれているケーブルが外され、これで自由に動き回る権利を手に入れた。一時的ではあるが。

 それに反応する素振りもなく、彼女は黙々と本を読んでいる。私は部屋へ入り、優しく肩を叩いた。


「アオイ、お出かけしよう」


「お出かけとは何ですか?」


「楽しいこと」

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