第8話

「紅茶、とは、どんな味、ですか」

 ウサギのお茶会の挿絵を指差し、彼女は尋ねた。確かに彼女は紅茶の味を知らない。


「どうして知りたいの?」


「すごく美味しい、かなと、思いました。ウサギは、楽しい顔、しています」


 私からすればウサギはウサギでしかなく、笑っているとか怒っているとかを余り意識して読んでいなかった。アリスがどんな冒険を辿るのか、そのワクワク感に呑まれながらページをめくっていた記憶がある。

 しかし彼女は人間もウサギも平等にひとつの生き物として、あるいは人間と同じ性質を持つ生き物としてウサギを見ているようだ。

 人間は笑ったり泣いたりするけれど、他の動物の多くにそれを見出すことは難しい。だが楽しそうだと感じたのなら、彼女はウサギを人間のように認識している。

 生物の境界が曖昧そうだが、しかし物語を読み感想を述べるという目的は達成した。私はガラス越しのナルミに声をかける。


「コーヒーじゃなくて紅茶にしよう」


 彼は嬉しそうに親指を立てた。

 残念ながら茶葉とティーポットを使った上品な紅茶は淹れられないので、研究室の隅にある自販機から紅茶のペットボトルを三本買った。ガラス部屋の中から彼女は興味深く自販機を観察していた。

 ボタンを押すと音を立てて容器が落ちる。この工程は昔から変わらない。ごとん、という音に彼女は少しだけぴょんと跳ねた。びっくりしたのかもしれない。


「本当は挿絵みたいにティーカップで飲むんだけどね、今日はこれで勘弁してね」


 ホットを買ったものだから、蓋を開けたくても手が熱い。あちち、と言いながらキャップを開けるのに苦戦している横で、アオイはがっしりとそれを掴んで一気に飲み干した。

 よくよく考えれば彼女には熱いとか冷たいとかいう感覚が理解できていない。痛覚を認知する導線はあるけれど、それの使い方を脳が分かっていないようなものだ。なので恐らく彼女の舌や喉は熱でヒリついているはずだが、何の痛みも感じていないだろう。


「……美味しい?」


「お茶の香り、ぽかぽか」


 ガラス越しにいるナルミと顔を見合わせて笑った。あまりにも可愛らしい感想だったから。そしてふと、ディック――もとい元上司が来たときのことを思い出した。人間性の獲得。まずは笑う練習から。


「あ、そうだ。アオイ、こういう時はね」


 にい、と歯を覗かせ、くゆん、と目はアークを描く。笑顔の形。それをアオイに見せてあげた。


「こんな顔をするの。楽しい、嬉しい、ありがとう。そういう時に笑うって表情をするの」


「わ、ら、う……わらう。こう?」


 に。くにゅ。ぎこちない表情筋が彼女の機械性を示している。けれど相変わらず模倣が上手い。何度か訓練すれば素敵な笑顔を見せられるだろう。


「そうそう、上手だよ。あ、そうだ。本だけじゃ味気ないし歌も覚えよう。何がいいかな」


「フカセ、そろそろ時間だ」


 ナルミに言われて時計を見ると、定時をとっくに過ぎていた。私は居住区画に戻ればいいだけだから、まだまだここにいても問題ない。

 しかしナルミは普通の人たちと同じように、外に家がある。私の上司になったとはいえ、長々と付き合わせるわけにもいかない。

 部屋を出て、ナルミの隣に腰掛けた。明日の打ち合わせはいつもここで済ませている。 


「想像以上だな」


「ええ、いつ量産体制が開始されてもおかしくないくらい」


「アオイの習熟度もそうだけど、君の熱意もだよ」


「私の? 何か変わった?」


 変わったさ。ぐいっとコーヒーを一気に飲み干して、カップを机に叩いた。


「時間を忘れて没頭するなんて、今まで無かったろ」


「そうかも。子育てみたいで楽しい。まるでお母さんになったみたい」


 一瞬の沈黙が生まれる。突拍子もない事を言ってしまった。誤魔化すようにコーヒーをすする。紙コップに入れたものはすぐ温くなる。


「子供に『お母さんはどんなお仕事しているの』って聞かれたら、説明に困るだろうな」


 ナルミは既婚者だ。結婚して二年、美人なお嫁さんと仲睦まじい。それなのに社内でモテまくっているのだから凄い人だ。


「そういえば、ナルミってお子さんいたっけ?」


「そうだなぁ……いつか欲しいな」


 コーヒーカップの底を見つめながら彼が言った。


「もし生まれたら報告してよね」


「当たり前だろ、一番最初に言うつもりだからな」

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