第7話

 人間性を得るために必要なのは、何に変えてもまず言語だ。そのための学習を始めて約一ヶ月半。アオイの部屋には椅子とテーブルとベッドが設置された。最低限、文化的な風景になった。

 文字を覚え、単語を覚え、その意味の結びつきを理解する。それはマインドマップのように数珠繋ぎで発展していく。宇宙がほんの僅かな暗闇から膨大な星の連なりへと膨らんでいったように、ひとたび歩み出せば加速度的に知識は習得できる。

 リンゴ、赤い、果物、酸っぱい。このセンテンスを覚えたらブドウはもう少し容易だ。ブドウはリンゴと同じ果物だからだ。レモンなら果物だし酸っぱい。パプリカならリンゴの赤とレモンの黄色。世の中はジグソーパズルのように繋がり合って出来ている。

 いま彼女は物語の世界を学んでいる。


「ナルミは初めて没頭した本って覚えてる?」


「どうかな。ハリーポッターかダレン・シャンだと思う。君は難しい話が好きそうだな」


「私は覚えてない」


「そうなのか? 思い出は忘れないタイプだと思ってたよ」


「内容は覚えてるんだけど、タイトルを知らないの。機械で出来た女の子が耐久実験のために毎日地面に叩き落されるって話……知ってる?」


「そんな悲しい話を読んでたのか、もっと楽しいのを読めよ、動物農場とか」


「それ、可愛いのはタイトルだけじゃない」 


 アオイができるだけ読みやすい物語から順に読んでいく間、私達はする事が無い。彼女は椅子にきちんと座って背筋を伸ばし、規則正しい速度でページをめくる。思考プロセスは全部自動で記録されるし、私達がコミュニケーションを図るのは読了後だ。

 読書習慣に乏しい人間よりは早いとはいえ、まだまだ読み込む速度は早くない。そのため、私とナルミの雑談は非常に増えた。


「アオイの外観が公開されたんだってな」


「株価が凄いことになったらしいじゃん」


「そりゃそうさ、トワイライトから人造人間を作ったともなればみんな食いつく。しかもキカイダーみたいな見た目じゃなく、ブレードランナーのレイチェルみたいな美人となれば尚更だよ」


 キカイダーなんて何十年前の特撮だ、ナルミはそういうマニアックな知識ばかり覚えている。フカセ、コンセントって知ってるか。フカセ、昔の日本はなんでも印鑑で認証してたらしいぞ。なんて具合に。

 そうしたジョークを繰り返すのは、立場上孤立しやすい私を気遣ってくれていたのかもしれない。左腕のロンググローブを指でなぞる。


「痛むか?」


「ううん、もう馴染んだよ。たまに気になるだけ」


「この会社も人が増えすぎたな、色んな思想に染まった奴の見本市だ。未だに差別が根絶されない」


「事実は事実だよ。私は胸を張って歩ける身の上じゃないもの」


「そんなわけあるか。大事なのは目の前の努力だ。どんなに上質な糸を持っていても、毎日懸命に編んでなければセーターは完成しないだろ」


 シェイクスピアみたいだ、とこちらが照れくさくなるような言葉に、少し沈黙が生まれた。けれどちゃんと伝えなければ。アオイとの対話の中で、できるだけ思いは言葉にするべきなんだと気づいたから。


「……ありがとう。貴方といると安心できるよ」


「もっと人を頼っていいんだよ――おっ」


 むず痒い空気を都合よく、ぱたんと本を閉じた音がかき消した。アオイは本をそっとテーブルに起き、ガラス越しの私達に視線を移した。


「ほら先生、生徒が呼んでるぞ」


「少し緊張する……コーヒー淹れといて」


 席を立ち、部屋に入った。アオイの隣に椅子を寄せて、彼女の顔を見た。テーブルには『不思議の国のアリス』と書かれた上質な本が置かれている。その向きはテーブルの縁にぴったり平行となっている。こういうさり気ないところに、彼女の機械的な部分が潜んでいる。


「アオイ、物語の感想を教えて」


 これが私達の第一歩だ。リアルとは異なる独立した世界に触れたとき、彼女はどんな感情を生み出すのか。言語化するのは難しくても、どんな感情が発現したかはモニタリングできる。

 感情の、言語の、コミュニケーションの模倣が出来るようになったのなら、想像力の模倣もまた可能なはずだ。今はまだ誰かの真似事でもいい、物語から何かを得てほしい。祈るように彼女の言葉を待つ。

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