第6話

 辞令が出されてから数日。部屋は変わらないし同僚はナルミと私の二人だけ。目に見えた変化は精々アオイに接続される機械が増えただけで、あとは私の給料が上がったのと研究費用がドンと追加されただけ。給料はいくらでもいいから、個人的には何かが変わった感じはしない。


「よし、セッティング出来たぞ」


 アオイには思考プロセスの記述化を行う装置が挿入された。元々首筋に付いていたものともう一つケーブルが増えたわけだが、彼女はあまり気にしている様子もない。

 実際に記述プログラムを起動すると、ディスプレイに彼女の現在の思考がマインドマップのような形で表示される。中心に「アオイ」と書かれたサークルがあり、そこから線が伸びて「フカセ」というサークルがある。更にそこから二つに分岐し、「ケーキ」と「おはよう」がある。

 このマインドマップはあくまで簡易的なスケールであり、例えば「アオイ」をタップすると彼女のアイデンティティを形成する記憶情報が別のマップとして展開される。


 思考というのは複合的かつ双方向に作用するもので、今彼女が「フカセに会ったらおはようと挨拶する」と思考していても、同時に「ケーキが食べたい」と考えることも可能だ。これが複合的、あるいは多層的な思考を指す。

 すると二つの思考が結びつき、「フカセに会ったら挨拶をして、ケーキを食べたいと伝える」という思考が芽生えたりもする。別々のスレッドで動いていた思考が互いに関連性を見つけ出し、一つの思考に統合されたりまた別の思考へと発展したりする。


 今はまだ情報量に乏しいアオイの脳内だが、これをどんどん複雑化させていくのが私の役目だ。

 人間性を獲得させるというのは困難に思えるが、何も本当に人間のようにさせる必要はない。

 アオイに人間性をもたらす目的は恐らく、彼女のようなアークライツを商品化することにある。ということは一般顧客が「人間みたいだ」と思える思考を与えればいい。

 今日はケーキを美味しく食べたけれど、明日はシュークリームを食べたがる。そういった気まぐれや飽き、感情の浮き沈みまで再現しなくとも良い。

 ならば行うべきアプローチは単純で、想定しうるコミュニケーションに対する受け答えをとにかく増やすこと。選択肢を沢山覚えさせて、相手やその時の状況に合わせて最適なものを選ぶよう習得させれば良い。

 目の前の人を助けるか見捨てるか。そんな無機質な選択肢しか選べないのならゲームの枠組みを出られない。しかし共に死のうとしたり、別の方法を模索したりと百個の選択肢が許されるのならもはや人生だ。


 アオイにはこの小さな部屋の中で、人生に匹敵する選択肢を教え続ける。勿論すべてを私が与えるわけにも行かないので、自己学習させるカリキュラムも考えなければいけない。


「研究班の記念すべき初勤務だな」


「よろしく、先輩」


「よせよ、落ち着かない」


「冗談だって。でも初仕事が凄く地味でなんかごめんね」


「そうか? 学校みたいで面白そうだ。君は先生、俺は校長かな」


「ならチャイムを鳴らさないとね。でもどちらかというとこれは――」


 子育てみたい、なんて軽口を叩きながら部屋に入った。ナルミは二人称を「君」としている。「お前」のほうが自然だけれど、君と言ったほうが賢そうに見えるだろ、と言っていた。本来なら丁寧な言葉のはずの「お前」が今では攻撃的な意味合いを含む存在に変化してしまったので、あえて避けているのだろう。ナルミはそういう奴だ。


 おはようとおはようのコミュニケーション。たったこれだけの事に随分時間がかかったものだ。

 私は手作りの教科書を広げ、アオイに文字を一つ一つ教え込んだ。

 まず言葉を覚えさせる。赤子と同じように。文章を読み込めるようになるまでじっくりと。想像に難くないアプローチだが、その目的はコミュニケーションの為ではない。

 目指すのはあくまで彼女に自己学習の意識を芽生えさせるため。


「頑張ろうねアオイ、楽しい兎さんとの旅が待ってるよ」


 二週間後、彼女は『不思議の国のアリス』を読む事になる。物語を読むこと。それが私の導き出した「たったひとつの冴えたやりかた」だ。 


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