第3話

「あの子、どうやって生きているんだろうな」


「トワイライトでしょ」


「その原料が分かってないだろ、石油みたいなもんなのかな」


「分かったところで、アオイが動いてくれないと使いようも無いよ」


 停滞した状況を打破するため、私はあらゆる手段を講じてきた。ガラス越しに様々な映像を見せたり、照明の色味を調節してみたり。そして今は音楽を仄かに流している。主にライブラリにあるパブリックドメインのオルゴール曲で、今日は『ロンドン橋落ちた』が流れている。

 しかし彼女は聞き耳を立てる様子すら見せていない。


「そうだなぁ、アプローチとしては悪くないと思うんだけど」


 ガラス越しの人間が一人だろうが二人だろうが、アオイは何の反応も示さない。それを眺めながら同時にコーヒーを啜る。


「彼女にも三大欲求があれば、直接的なアプローチも有効だろうけど」


「お菓子で釣ろうにも釣られる理由が無いもんな」


「せめて歩いたりしてくれればプレッシャーもかけられないんだけどね」


 私の上司はいかにも気難しそうな、絵に描いたような厄介なおじさんだ。悪気は無いだろうけれど、結果を求めすぎるがあまり厳しさを通り越してしまいがちな人だ。嫌いじゃないけれど好きにはなれない。


「なんだ、またあのおっさんパワハラしてきたのか? 今度注意しておく」


「気にしてないから良いって。それにナルミの立場が悪くなるでしょ」


「友人が困ってんのに放っておく方が嫌なんだ」


 素直にありがとうと言えれば、もう少し友達も増えそうなものだけど。私はその五文字を容易く言えるほど自分のことが好きじゃない。


「とはいえ四週間だからな。そろそろ別のアプローチに変えても良いんじゃないか?」


「やっぱりそうだよね。でも何すれば良いと思う」


「そうだな……例えばこの部屋って中に入ったりできるか?」


「まあ一応は。課長クラスの認証がいるけど」


「じゃあ俺でも大丈夫だな、許可してやるから直接触れ合ってみたらどうかな」


 ナルミは複数の開発部署との橋渡し役なので、与えられている権限は幅広い。


「でもいきなりそんなことして、怖がらないかな」


「もしかしたら、ガラス越しの景色をリアルだと認識出来ていないのかもしれない。だからここは一度、本当に『自分以外の存在』が目の前にいるって知らせるべきなんじゃないか」


「それは……確かにそうかもしれない」


 私が席を立ったり歩き回ったりしても、彼女の視線は追従していなかった。それはつまり、私という存在が観察すべきものと見なされていないわけだ。例えば側で映画を垂れ流したとして、その内容に興味が無ければどんなに激しい銃撃戦が起きていても人は興味を示さない。それに近い反応だと私も思う。


「わかった、許可を出して」


 彼は扉に手をかけて認証を行う。

 左手首に埋め込まれたデバイスが通信を交わし、権限のチェックを開始する。ものの数瞬で許諾され、ロックが解除される。この時代に鍵穴なんて古臭すぎる。肉体こそが最初で最後のセキュリティになっている。


「さあどうぞ」


 彼は私が座っていた椅子に腰を掛けた。

 頷き、私は中へと足を踏み入れる。このとき初めて彼女を横から眺められたのだが、彼女の後頭部にはケーブルが装着されていた。これを使って生体情報をモニタリングされているのだが、実際にこの目で見るまで深く想像していなかった。

 ケーブルが刺されているため、首筋にぷくりと皮膚が盛り上がっている箇所がある。本物の人間みたいだと少し驚く。

 一歩、また一歩と慎重に歩を進める。ケーブルは生体情報ともう一つ、強制的な行動制御も行える。もし彼女が狼のように噛み付いてきたら、ナルミがすぐさま機能停止のための薬物を投与させるのだ。

 私はアオイの目を観察する。横から見た眼はまだ正面を向いている。口元で人差し指を立て、ナルミに喋らないよう伝える。

 それに呼応するように研究室の扉、つまりガラス向こうにある方の扉にもロックをかけてくれた。頼れる男だ。


「アオイ」


 初めて生の声で彼女を呼んだ。一歩、一歩、と少しずつ彼女の視界へ回り込む。


「アオイ」


 一、二分はかけただろうか、牛歩の速度で彼女の正面までやってきて、もう一度声をかけた。


「はじめまして、私はフカセ」


 彼女は尚も動かない。生きているかもわからなくなるほどに、永遠に似た静止を貫いている。

 私はその場にゆっくりと座り込み、彼女の顔をじっと見た。ガラスのない、直接の視認はこれが初めてだ。

 どんな言葉が適切かを懸命に考えるけれど、中々思いつかない。それよりもずっと、彼女の姿に魅力を感じていた。人間には絶対に作り出せない、人形のように精巧な美に私は心を奪われかけていた。


「綺麗」


 無意識に私は呟いてしまっていた。はっと我に返り、やってしまったと叫びそうになった。

 しかし彼女は。私の不意の一言に、反応を示した。

 かくん、と小首を傾げたのだ。何それ、と言いたげに。あるいは私をじいっと覗き込むように。

 初めての反応。初めての交流。それは想像していたよりずっと胸に来るものがあり、赤子が初めて自身の名を呼んだ時に親はこんな気持ちになるのだろうか、と思い至った。

 涙が零れた。どうしてかは分からない。突然の落涙に動揺して、次のひと粒は零れなかった。けれど良かった。彼女は間違いなく生きている。

 一筋の涙を伝う私の姿を見て、彼女は目を丸くした。えっ、と思う間もなく、アオイはびよんと跳躍した。

 真っ直ぐに、私の元へと飛びかかる。背後でナルミが投薬のコマンドを打とうとしているのではと察知し、


「待って!」


 と叫んだ。

 アオイは私を押し倒して馬乗りになり、私の頬をまじまじと凝視した。

 涙に反応を示している?

 アオイは私の瞳を、頬を、涙を、吐息を直接感じ取りながら、自身の頬をぺたぺたと触り始めた。

 しかし当然、彼女の頬には何も伝ってなどいない。


「あー……?」


 言葉を知らないアオイは、形のない音でそれを表現した。

 なあに、それ。多分そんなことを言いたいのだろう。私はぐいっと頭をナルミの方に向けた。逆さまに見た彼の顔は笑っているようだった。

 こちらもつい嬉しくなって、アオイの頬を指で撫でた。くすくす。赤ちゃんみたいね、と呟きながら。


「初めまして、アオイ。私はフカセ、よろしくね」


 これがアオイという新たな生命体との、初めての交流だった。西暦二〇三九年、人類の大きな一歩はコーヒーの香りに包まれていた。

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