第十四話:そして血闘へ
「ヴェラさん、早速、始めませんか?」
「もちろん、構わないよ」
朝、教室に入って早速、僕はヴェラさんに提案する。一もニもなく彼女は了承してくれた。
教室にいる全生徒から視線を集める。もう慣れた。ただ、視線の中身は以前受けたものと違う気がした。明らかに侮蔑が入っている。お前が勝てるはずないだろう、的なね。それがないのは、サヌルボゥだけだった。
はん、今に見てろよ。心でつばを吐いてから、意識をヴェラさんへ集中させる。
「あと、提案なんですが……今回、
そう言って、懐からダイスを取り出す。先日サヌルボゥからもらったやつだ。
「こいつの出た目で、試合場を決めましょう。一とニが〈
「面白いアイデアだね、のったよ」
「ヴェラさんならそう言ってくれると思ってましたよ」
「ふふ、君の申し出を断るわけないじゃあないか」
いやはや、本当に好かれているものだ。
「念のため聞きますが、いいんですか?」
「構わない。どこで戦おうとボクの戦い方に変わりはないからね」
まぁ、そういうことだろうとは思った。ぶっちゃけ、
「それならば遠慮なく」
短くつぶやいて、近くにあった机の上に僕はダイスを転がした。
出た目は、五。
「〈
「そうみたいだね。じゃあ……すぐに向かおう!」
「楽しそうですねぇ」
「楽しいよ! 君は?」
「そりゃもちろん、楽しいですよ」
あなたが楽しそうにしてるから、ね。こっちまでテンションが上がるじゃないか。
「絶対に勝つ」
「絶対に負けない」
見つめあい、静かに気迫を交わらせる。心に秘めた願いは同じ。勝ちたい、それだけ。紅蓮の炎を思わせるヴェラさんの瞳から、全てを焦がすような業火が見えた。
「行こう」
「ええ」
そうして、僕達二人は戦いの場所へ向かう。ヴェラさんは終始ご機嫌だ。そして、機嫌が良い以上に、闘争心に溢れている。彼女の赤い髪が、闘気をまとって揺れているように見えた。
かく言う自分も、心が沸き立っている。全身が沸騰しそうだ。
興奮、恐れ、熱意、怯え、闘志……ありとあらゆる感情がないまぜになる。それを全て、脳の奥にまとめて、冷やす。
戦いは冷静に、熱くなりすぎず。
ティグルさんから教わったことだ。
(勝ちますよ、俺は、絶対に)
今はどこにいるかも分からない師を思い浮かべながら誓う。ヴェラさんの背を見つめながら。
改めて、戦いの場所として選ばれた
地面は砂利で覆われた乾いた土でできており、ふとした弾みで容易に砂塵が舞う。その他の特徴としてやはり岩山だ。大小様々なサイズのものがあり、全体の見通しが悪い。それはすなわち、相手から身を隠す場所が多いということである。サヌルボゥ曰く人気がないとのことだが、それも納得はする。単純に戦いづらい。
「まぁ、僕としては好みだけどね」
なんにも障害物がなかった闘技場よりは、正面でのぶつかりあいになりにくいからね。特に飛び道具、ヴェラさんの〈
「ああ、かっこいいなぁ……」
「いきなりなんですか?」
「君の瞳、今、すごくかっこよかった」
以前と同じ、鉄の
相対する僕には、とても真似できない。だがまぁ、これでいい。僕には僕の、弱者には弱者の戦い方がある。鉄製の棒と革製の
「お父様に連れられて、
「褒めてるんですか? それ」
「最高級の賛辞さ。他の誰にもあげたことなどない」
そんなものか、いや、そんなものなのだろうな。
すでに相当な人数となった観客に目を走らせながら、僕は苦笑した。ヴェラさんに挑む気概はないくせに、彼女の戦いは見たいのか。気の抜けた瞳だ。
「まぁ、それなら素直に受け取っておきますね」
「どうぞ、そうしてくださいな」
なんてやり取りしてるうちに、
そして、これが展開されたということは、戦いがいつでも始められる、ということでもある。
「じゃ、ぼちぼち。やりましょうか」
「そうだね」
――なんて、言ってる途端に
即座に、バックステップで躱し、距離を離す。
「さすがだ、君に油断はないか」
「そりゃまぁ、自分からやりましょうか、なんて言ったんですから」
近くにあった岩山に身を隠す。僕の背丈くらいあるそれが、すっぽりと身体を隠してくれた。
「格闘技の大会と違って、試合開始のゴングなんてない……だったらいつ戦いが始まってもおかしくないんで」
「そう! その通りだよ!」
絶賛がこもった同意と一緒に、〈
ふと、違和感が背中を走った。
即座に横へ飛ぶ。
ボンっと、恐ろしい音がした。僕がさっきまでいた場所に。
「曲射もできるよな! そりゃ」
そう、ヴェラさんほどの人が、馬鹿正直に真正面へ〈
「〈
詠唱が三連でつむがれる。どれもが正確に僕を狙っていた。視認性が悪い場所のはずなのに、なんでこうも精密に狙ってこれるんだか。避けるのに全神経を使わなければ、すぐさま決着がついてしまう。
「どうしたの? 逃げるだけじゃ勝てないよ!?」
「さて! 本当に逃げてるだけですかねぇ!!」
ヴェラさんの挑発に、威勢をもって返す。虚勢なのは否めない。
「でもすごいよ! 逃げ方が上手い!」
「だから褒めてるんですかねぇ!」
会話の応酬、その間にも、〈
とにかく、アウトレンジを意識する。距離が近くなれば近くなるほど、命中率が高くなるからだ。相手の攻撃が当たる確率をとにかく減らすことを意識する。こっちも近づかないとまともな攻撃はできないが、それを承知の上で……。
「なるほどね」
なにかを納得したのか、ヴェラさんがうなずいたのが見えた。
「君の強さは精神力だったよ」
低く、短く唸って、彼女が一歩前へ踏み出す。
「避けて、避けて、避けて、ボクの隙をうかがい、倒す。それが狙いだろう? ボクの心に空白ができるチャンスをものにしたいんだ」
〈
魔術の詠唱は緩めず、じりじりと、彼女が前進。こちらの距離を少しずつ詰めてきた。
「残念だが、そうはいかないよ」
〈
「さすがだよなぁ!」
まぁ、それくらいの思考には彼女なら至るだろうな。ここで、下手に距離を詰めないのはさすがだ。そのタイミングに合わせてこっちも近づくことができるのを、彼女は理解しているのだ。
だからこそ、ゆっくりと、着実に詰める。
そうすれば、やがて〈
「はは、ばれましたか……」
強がりもでてこない。
こっちの浅知恵なんてお見通しだ。全く本当に、嫌になる。
「じっくりと、丁寧に、狩猟をするかのように戦うさ」
徐々に、壁際へ追いつめられていく。このままでは、完全に向こうのペースだ。さりとて、強引に近づこうとすれば相手の思う壺。下手に近づくと〈
さて、どうするか?
このままでは、駄目だが……。
「さぁ、どうするんだい? まさかこれで終わりじゃないよね?」
「さぁ、どうしでしょう?」
「本当にこれで終わりなら、今回もボクの勝ちだ。このまま、ゆっくりと君に近づいて……」
「――そこ、危ないですよ?」
僕の言葉に、一瞬、ヴェラさんが呆けた顔を作る。
「え?」
そして、彼女の体勢が、ガクッと、大きく崩れた。
一瞬、されど、大きな隙が生まれた。
すぐさま、僕は、地面を蹴った。今、この瞬間、距離を――詰める!
△△△
ボクの身に何が起こったのか、分からなかった。分からないまま、体勢が崩れた。
「なにがっ!?」
驚愕のまま、下を見る。ボクの右足が、穴に突っこんでいた。バケツ一杯分くらいの、大きさと深さの穴だ。
(落とし穴っ!?)
どうして、なぜ、こんなものが? 思考を高速回転させる。岩場にこんなものがあるなんて、聞いたことはない。経験したことも。
だとしたら、これを掘って、仕込んだ者がいるということ。
誰なのか、ロウガ君か、それ以外にいない。
けど、
『今回、試合場はランダムにしません?』
ああ、そういうことか。全て合点がいった。
落とし穴を仕込んだのは、
ランダムというのは、嘘。あのダイス、イカサマだったんだ。そういうものがあると聞いたことがある。ランダムのように見せることで、ボクの油断を誘ったんだ。
そして、まんまと、嵌められたわけだ。
「くっ!?」
とにかく体勢を立て直さなければ、そう思った時にはもうロウガ君が一直線に突進してきた。集中が切れた、呪文の詠唱が間に合わない。
「これ、プレゼントです」
せめて、接近戦の構えを、なんてまごついてる間に、彼の懐から何かが飛んできた、それも複数。小さな紙袋だ。反射的に防御するが、その内の一つを防ぎきれず、顔面へと直撃してしまう。
袋が破裂した。顔が、視界が、白い粉で覆われる。それが、口の中へ入ってしまった。舌で感触を確かめる。
これは……小麦粉?
「まずい!!??」
焦りが抑えられなかった。
小麦粉は、喉が渇くんだ。
ボクは炎属性の
(知ってたのか!? 彼は、これを!?)
実際、以前、彼からレモネード水をもらったことがある。デートの日だ。その時にはもう、彼はこのことに目星がついていたんだ。
「くそっ!」
自らの蒙昧さに恥入りながら、ポケットに常備してある手のひらサイズの革袋を急いで取り出す。これには水が入っていた。緊急用に常備しているものだ。これで水分を補強しつつ、口腔内を洗えば……。
「させるかっ!」
ロウガ君の気迫とともに、ナイフが一閃、鋭利な直線起動で飛んできた。袋を切り裂く。切り口から水がこぼれ腕を濡らした。
「なっ!?」
「そりゃまぁ、持ってるよねぇ! 水くらい!」
そこまで読まれていたのか。というか、隠し持っていたのか、ナイフを。暗器だ。投げナイフの技術にも明るいとは。今の今まで、飛び道具が使えることを隠していただなんて。
(なんで、こんなっ!?)
落ち着け、と自らを律しようとするも、上手くいかない。こんな経験、始めてだった。何てことだ。自分にこんな弱さがあっただなんて、思ってもみなかった。
『ヴェラさん、あなたのことは理解しました。勝ちます、いや、勝てます。勝たなければならない』
あの日のデート、ロウガ君との再戦を誓った時、そう言われた。もうその時には、こうなることを見透かされていたのだろうか。
自らの力を過信し、相手がどんな手を使ってくるのかに考えを巡らせず、真正面から全て叩き潰せばそれですむと思っていた。浅はかで、傲慢。それを彼は見抜いていたのか。
「ようやく……ようやく、ここまで来れたぞ」
そして、こんなにも分かりやすい隙を、見過ごしてくれるはずもない。いつの間にか、ショートレンジの間合いへ、近づかれていた。
「じゃっ!」
鉄の棒による突きが襲いかかる、正確に、喉を狙って。まずは喉を潰して、魔術の詠唱を封じようという算段か。
「ふっ!」
間一髪、左腕の篭手で防ぐ。事前にコリーと訓練していたのが生きた。すぐさま、右腕に力をこめる。反撃をしなければ。
「そこ、左足のとこ、落とし穴あるんで気をつけてくださいね」
その言葉に、身体がこわばる。脳から発する危険信号が、全身に麻酔をかけた。
「嘘なんですけどね」
いたずら小僧のような無邪気さで、さらりと言ってのけた。その時には、ボクの腹を鉄棒が深くえぐっていた。
「あっ!? がっ!?」
白い火花が、頭の中で弾ける。すさまじい痛み。これは、肝臓を狙われたか。
「まだまだぁ!」
痛みでまごついている間にも、ロウガ君は攻撃の手を緩めない。目、喉、腹、頭……およそ人体の急所と呼ばれるような場所を、的確に狙ってきている。
「ぐっ、こっ、のぉ!」
なんとか、防ぎ、避ける。だが、このままではまずい。体勢を立て直したい。特に、喉を潤さなければ。時間をかければかけるほど、渇きが酷くなって思考能力が奪われてしまう。幸い、常備している水はまだある。強引にでも距離をとって……。
「ああ、耳寄りな情報、教えますね」
「な、なにかな!?」
「さっきのは嘘でしたけど……落とし穴、まだあるんで」
くそがっ、なんて言葉に出さなかった自分を褒めてやりたかった。ロウガ君は、当然、喋っている間も攻撃の手を止めない。
「あ、もちろん、僕は全部場所覚えてます」
「さすがに嘘だろう?」
「どうでしょうね? 自分で言うのもあれですが、嘘は得意なんで」
だろうね。さっきまで、追いつめられているかのように見せていたのも、嘘だったんだから。まんまと騙されたよ。
「はは、なんて汚い、汚い手口を使うんだよ! 君は!」
「勝つことにこだわるなら、これくらいは必要ですよ! 対応できない方が悪いんです!」
ああ、その通りだよ。ぐうの音も出ない。全部、ボクのせいだ。
「こっ、のぉ!」
なんとか、なんとか状況を打破せねば……。だが、ロウガ君の攻めは苛烈であり、とても付け入る隙がない。流れを、こちらに引き寄せることができない。
(ああ、駄目だ。喉が、渇いて……頭が)
そうこうしていくうちに、どんどんと頭が回らなくなってくる。水が、水が飲みたい。
「っつ!? がぁ!?」
いつの間にか、
「らぁっ!」
脳天を狙った振り下ろし。まずい、防がないと。これは致命傷になりうる。
ゴン。
頭蓋の中に、鉛が落ちた音がした。防ぎきれなかったんだ。
まずい、まずい、意識が遠のく。
このままでは、負ける。
負ける? ボクが?
嫌だ。
負けたく、ない。
「エ、〈
本能で、叫んだ。
△△△
「……は?」
呆気にとられながら、僕の身体は宙を舞っていた。
何故こうなったのか、理屈自体は分かる。炎属性魔術の〈
理屈は分かる。だが、納得ができない。
〈
理屈を超えたというのか……魔術には集中が必要という理屈を。そんな馬鹿な。
「ぎっ!?」
青白い雷光が瞳を走る。岩山に叩きつけられたようだ。背中から発した鈍痛が、全身を巡る。すべての神経が痛覚に支配されようとしていく。そして、地面に突っ伏すように倒れた。
「なっ、ろぉ!!」
急いで立ち上がる。〈
「ああ、もう全身が痛い。こんな経験、ボク、初めて」
ヴェラさんの声が耳朶に響いた。悲痛ながらも、妙に艶やかだ。目を向ける。彼女の姿はボロボロだ。全身は砂ぼこりでまみれていたし、赤色の髪はボサボサになってしまっている、よくよく見れば顔に小麦粉が残っており頬を白く染めていた。右の太腿には相変わらずナイフが突き刺さっており、そこから血が滲む。痛ましい姿なのに、強烈な色香を感じた。深紅の瞳から発する眼光が、僕の心を強烈に掴んで離さない。嫌になるくらい美しい人だ。
「水、やっと、飲めた」
革袋を取り出し、そこから水を口へ落としていた。ああ、やっぱり一つだけじゃなかったのか。せっかく、策を練ったというのに、これで台無しだ。
早朝から落とし穴を仕込んで、イカサマダイスを用意して、無理矢理地の利を作った。小麦粉を顔面にぶつけ水分を奪い、体力を消費させた。ナイフを隠し持っていたことも、今の今までずっと秘匿にしていた。虚実を交えて言葉を操り、相手を惑わした。これらの策はほぼ全て上手くいっていた。ヴェラさんは明らかに追いつめられていたし、僕も手応えを感じていた。もう少しで勝てると確信していた。
もう少しだったのに……ヴェラさんは、僕ごときが用意した搦手を全て吹き飛ばすほど、規格外の人だったというのか。
そんな人に、勝てるのか。
「るっ、あああああああああ!!」
咆哮を放つ。勝てるのかじゃない。勝つんだよ。折れない意志こそ真の才能なんだろうが、それを信じて、ここまで来たんだろうが。あの人の、ティグルさんの言葉を嘘にするんじゃない。
状況整理だ。棒は、爆風とともに吹き飛ばされて手放したようだ。残っているのは隠し持っていたナイフが一本だけ。身体の状態は? 肋骨が何本か折れてる。背中の痛みが取れてない。だが動く。完全の状態ではないが、戦える。
懐からナイフを出して、右手に装備した。素手よりは絶対に効果的だ。これで喉を切れば、それで終わり。それだけを狙っていけばいい。
相手の様子はどうだ? 水分補給は許してしまった。だが、無傷ではない。かなりギリギリのはずだ。事実、〈
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
「うあああああああああああああ!!」
地面を蹴る。ヴェラさんへ向かって一直線に駆けた。示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同じタイミングで彼女もこちらへ全力疾走している。程なくして、接近戦の距離にまで互いが近づいた。
「しゃっ!」
ヴェラさんの喉笛を狙って、ナイフを横に薙ぐ。
「はあっ!」
右腕の篭手によって防がれた。すぐさま反撃がくる。顔面を狙った右ストレートだ。スウェーバックで躱す。
切る。防ぐ。殴る。躱す。切る。防ぐ。殴る。躱す。
一進一退の攻防。一度でもしくじったらそこで終わり。心臓が、焼きごてを当てられたかのように熱い。いつの間にか唇が乾いていた。こっちもこっちで、身体から水分が蒸発してしまっているようだ。動けなくなるのも時間の問題だろう。
ああ、くそ。
身体が動けなくなる前に、決着をつけなければならないのに……届かない。ここまでやったのに。打てる手を全て打って……それでもまだ足りないのか。
嫌だ、負けたくない。
ここまできて、負けたくない。
どうすれば、どうすれば勝てる。
僕は……俺は、勝ちたいんだ。
『お前に、奥義を教えたい』
ああ、そうか。
まだあるか、打てる手は。
△△△
あの状況で、〈
それも、ロウガ君のおかげだ。
素敵、ああ、なんて素敵なんだ。
今もほら、彼のナイフがボクの喉笛を狙ってる。一度でも通したら負け。全神経を極限まで尖らせて、必死に防ぎ、反撃をする。
これだよ、これがやりたかったんだ。全身全霊の力でもってぶつかる戦い。これを越えた時、ボクはもっともっと強くなれるんだ。
ああ、だからこそ。
勝ちたい。
君に勝ちたい。
君をボクのものだけにしたい。
ロウガ君の眼光は殺気の光を放ち、ボクに瞬きを許さない。シャープな野生が、彼の身体から削り出ている。皆、なんで彼のことに目をくれないんだろうか。こんなにも、かっこいいのに。ああ、でも、他人に渡すつもりはないけどね。
「がああっ!」
獣のようなおたけびをあげながら、弧を描くようにボクは左フックを打つ。かがめて回避された。そのまま、ナイフを腰だめに構えてからタックル。右腕の篭手をナイフにかち合わせて防ぐ。その流れで組みつきを試みた。バックステップで離脱される。
ああもう、届かない。届いたら、勝てるのに。
魔術は使えるか? いや、厳しい、集中ができない。さっきの〈
だからもう、殴り勝つしかない。幸い、相手の武器はナイフだけ。他に隠し持ってる様子はない。ボクなら、篭手で十分に相手取ることが可能だ。
大丈夫、勝てる。
「ボクのものになってよ、ロウガ君」
「僕が負けたら、そうします」
ああ、そうだ。勝てばいい。
君が他の女に目移りしてしまうなんて、想像するだけで胸が張り裂けそうだ。一生、となりにいてほしい。
こんなにも、誰かに勝ちたいと思ったのは初めてだ。新鮮な気持ちで、快い。ロウガ君はボクに新しい地平を見せてくれる。
ボクは、ロウガ=ジーンが好きだ。大好きだ。
だから、勝つ。
刃の閃きが見えた。
反射的に、手首で受ける。自分でも驚くほど、完璧に、力のベクトルを流し変えた。ナイフの柄がロウガ君の手から離れ、宙を舞う。
――来た。
勝機を感じる。ここしかない。足、腰、背中、腕、余すところなく身体を連動させて、右のストレートを、相手の顔面へ。これで終わりだ。
「〈
それが聞こえた瞬間、ロウガ君の姿が、視界から消えた。
「えっ?」
そんな馬鹿な。彼の姿から一秒たりとも目を離さなかったのに、消えるなんて、そんなこと。
パンッ。
混乱の中、空気が破れる音がした。
そう感じた時には、もう、膝から力が抜けていた。
脳震盪だ。顎を叩かれて、脳を揺さぶられたんだ。
「あっ」
駄目だ。立たないと、大丈夫、ボクならできる。まだ、負けてない。負けて。
「俺の、勝ちだ」
勝利の宣言が耳朶を打つ。ロウガ君の声は、静かながら高らかだった。ああ、君、本来は『俺』なんだね。そう反応しようと思った時には、もう、視界がブラックアウトして何も見えなくなっていた。
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