後編


 ……実を言えば、レティシアにも見かけほど余裕はなかった。


 恐れていたのは、リヒャルトがイザベルを『きさき』でなく、『めかけ』として迎えようとした時のことだった。


 その場合、王と王妃の不興は買うだろうが、リヒャルトは王太子を外される程のことはなく、レティシアも王太子妃を外れることはできなかっただろう。

 レティシアは、愛のない結婚には頷けても、始めから同学年の愛人がいる男に嫁ぐのは、絶対に嫌だった。

 だからあの断罪の場は、リヒャルトの正義感の強さとやらに、初めてレティシアが感謝した瞬間だった。

 全身から湧き上がってくる喜びに、口元の笑みを抑え込もうとするのが辛かった程に。




 突きつけられた現実に呆然とするリヒャルトの背後で、控えめなノックの音が響き、扉が静かに開いた。

 現れた執事長が、レティシアに告げた。


「お嬢様、アルベルト殿下が、お嬢様にご面会を求めておられます」

「アルベルト殿下が…?」


 約束はなかったが、用件は気になるのでレティシアは会うことにした。


「分かりました。お通ししてください」

「な、なんでアルベルトが…!」


 リヒャルトが混乱している間に、執事長は去った。

 扉が再び開いた時には、この国の第二王子が立っていた。


「お久しぶりです、レティシア嬢。相変わらずお美しい」

「お久しぶりです、アルベルト殿下。いつもお上手ですわね」


 ごく自然な様子で、アルベルトはレティシアの手を取り、その甲に唇を寄せた。

 完璧な貴族の挨拶は、リヒャルトを完全に無視する形で行われた。


「社交界の青薔薇と称えられた、エリザ内親王の名を継ぐのはやはり貴女ですね」


 エリザ内親王とは伝説の美女で、レティシアの曾祖母に当たる。また、王子二人の曾祖父の姉でもある。

 アルベルトは、隠さない憧憬と熱情の視線を、レティシアに向けていた。

 リヒャルトが不機嫌に声を上げた。

 

「アルベルト。ここへ何をしに来たんだ?」

「兄上こそ、ここで何をしておられるのですか? 兄上の婚約者は、ご令嬢ではありませんか?」


 弟の目と口元には、あからさまなあざけりが浮かんでいた。

 リヒャルトの顔が怒りで赤黒く染まる。だが、兄は最大限に自らを抑えて、弟へ向かい口を開いた。


「貴様こそ、婚約者のいる身でぬけぬけと…」

「もういません」

「なんだと?」

「私の婚約者、ユリアナ・クライスラー侯爵令嬢は、一昨日隣国へ旅立ちました。長年の想い人と共に」

「まぁ…」


 口元に手を当て、目を丸くしたレティシアに、アルベルトは苦笑を浮かべた。


「ユリアナと私は、互いに報われぬ相手を想う、戦友のようなものだったんですよ」

「ユリアナ様に、殿下の他に想う方が…?」

「はい。隣国の商人階級だったので、お父上に反対されていたのです」

「まぁ…」

「貴女の婚約が解消された次の日に訪ねて来られて、『私は愛する人と旅立つことに決めました。貴方もそうすべきよ』と言い残されました」

「まぁ…」


 アルベルトは、優雅な動きで、レティシアの前に片膝をついた。

 兄の緑眼とはまるで似ていない、黄玉トパーズ色の瞳をレティシアに向ける。


「レティシア・パッヘルベル公爵令嬢、どうか私の妻となってください。幼き時より、貴女以外の女性に心を奪われたことはありません」

「…まぁ」






『弟の分際で!』

『裏切ったなレティシア!』

『貴様らはグルだったのか!?』

『王太子は俺だ!』


 …等、聞くに堪えない罵詈雑言を叫びながら暴れたリヒャルトは、侍従たちがすみやかに屋敷の外へ追い出した。


 静かになった応接の間で、二人は向かい合って座り、お茶を飲んでいた。

 ティーカップをソーサーに戻して、アルベルトはレティシアを見つめた。


「先ほど言ったことは本当ですよ。私は10の時に、兄の婚約者として紹介された11の貴女に心を奪われました」


 レティシアは無言で、お茶の湯気の向こうからアルベルトを見つめていた。


「たった一つです。たった一つの歳の差のせいで、貴女は兄の婚約者となった。……諦めきれなかった私は、数々の浮名を流しました」

「…その節は、私、ユリアナ様に大層同情致しましたのよ」

「ユリアナから聞いております。レティシア様は本当に素敵な方だと。『貴方と結婚すれば、レティシア様と姉妹になれるのだけが幸せだ』とも……」

「私も、ユリアナ様を本当の妹のように思っておりました」


 アルベルトはにっこりと微笑んだ。


「貴女は知っていたのですね。ユリアナに恋しい相手がいることを」


 それは貴方の事でしょう?と、とぼける事も出来たが、レティシアは神秘的に微笑んだ。

 アルベルトは、感に堪えないように息を吐いた。


「あぁ、貴女の笑顔は本当に美しい。こうして側で見ることが出来て、どれだけ私が幸せか分からないでしょうね」

「本当にお上手ね、アルベルト様は。数多あまたの美女を虜にした理由を、私いま実感していてよ」

「私の中で美女と呼べるのは貴女だけです、レティシア…」


 レティシアは、この上なく甘い囁きを軽くいなした。


「…ユリアナ様のお話ですわね。えぇ、知っておりましたわ」


 誘惑を退けるすべは、6年に渡る王妃教育の成果である。


「知ってはおりましたが…まさか駆け落ちするとは。夢にも思いませんでした」


 これは本当だ。

 ユリアナはレティシアに『あの御方とのことは、とうの昔に諦めましたのよ』と笑っていたのだ。

 

「ユリアナはどなたかを見て、希望を持ったのだと思いますよ」


 アルベルトは、片目をつぶってみせた。


「……あの男爵令嬢の噂が広がり出した時、ユリアナ様はとてもお怒りになり、リヒャルト殿下に抗議する勢いでしたわ」

「貴女は、それを止めたのですね」

「えぇ、ユリアナ様の気持ちはとても嬉しかったのですが……困りますから」


 己のたくらみを、そっと告白するレティシアに、アルベルトは優しく言った。


「ユリアナが言ったくらいで、正気に返るような様子ではなかったですよ……?」

「えぇ……でも、お父様のクライスラー侯爵は、宮廷内の秩序にとても厳しい方でしたから」

「確かに。あの元舅殿は、なかなかにうるさい御方でしたね」


 もし侯爵から、王子の父親である国王に抗議が行きでもしたら、レティシアの計画はそこで流れたかもしれない。


「レティシア嬢の思いは、ユリアナにきちんと伝わりましたよ」

「ある時点から、ユリアナ様はリヒャルト殿下から私を守るように動いておられましたわ」

 

 学年も違うのに……とつぶやいて、レティシアは思い出すように目を伏せた。


「有り難いことでした」

「そうですね。ある時点から、ユリアナは忙しくなりましたね」


 学校に通う傍ら、秘密裏に国外逃亡の用意をしていたのだ、並みの忙しさではないだろう。


「全寮制で良かったですね」

「荷物も隠しておけますしね」

「2年生で良かったですね」

「3年なら、少しは警戒されたかもしれませんね」

「一つだけ残念なことは、……私が知っていたら、餞別を差し上げられたのにということですね」


 レティシアに動かせるお金はないが、お金に替えられそうな宝石なら、幾つか手元にあった。

 異国にも伝手つてがないわけではない。


「誰にも迷惑を掛けずに――が、彼女のプライドでしょうか」

「よくわかっていらっしゃる」

「これでも元婚約者でしたから」

「そうですね。助けて差し上げられたのね、アルベルト様


 アルベルトがユリアナの出国に手を貸していたことか、それとも己の元婚約者リヒャルトを思っての言葉か。

 多分、両方だろうとアルベルトは思った。


 国を出るのは、当たり前だが簡単ではない。

 寮を出たユリアナを待ち伏せしていたアルベルトは、幾つかの証明書を手渡した。

 

『困ったことがあったら、使うといい』


 証明書には、王家の者としてのアルベルトが裏書きがあった。

 ユリアナはそれを受け取ると、両手でアルベルトの首を引き寄せ、その耳に囁いた。 


『レティシア様を不幸にしたら、赦しませんことよ』


 アルベルトもその背に手を回し『君も幸せにならないとダメだよ、ユリアナ』と返した。

 パッと同時に手を離した二人は、そのまま右と左に別れ、二度と振り向くことはなかった。

 恋愛感情を抱くことはなかったが、時に誰よりも近い存在だった。





「私、王妃様になりたくないわ」


 ぽつっとレティシアがつぶやいた。


「分かりました。私がパッヘルベル公爵家へ入るか、シュヴァルツおとうとの立太子式を急がせましょう」


 アルベルトが即答した。

 目を瞬かせてレティシアは尋ねる。


「王様になりたいのではないの?」

「兄はそう思っていたみたいですが、私は、横に貴女がいない席には、もうつかないと決めたのですよ」

「私が、王太子妃になりたいと言ったら?」

「明日にでも、陛下に立太子式を願いますよ」


 レティシアは、初めて見るような目でアルベルトを見た。

 アルベルトはレティシアにとって、リヒャルトの弟であり、ユリアナの婚約者であり……少し困った人だった。

 時々、自分をじっと見つめているのを、レティシアは知っていた。

 それでもアルベルトは、今日まで何も言ってこなかった。



 高等学院に入る少し前、建国祭の時に、自分の髪から落ちた白薔薇がアルベルトに手にあるのを見て


『差し上げるわ』


 とレティシアは言った。

 そのトパーズ色の瞳に自分が映っているのを見て、思わず言ってしまったのだ。


 一日限りの生花である。何の価値もない。

 だけど、アルベルトは花を胸に抱き、不自然なほど深く頭を下げた。

 彼が頭を上げる前に、レティシアは立ち去った。


 ただ、それだけの思い出だった。

 けれど、忘れられなかった。



「……今までの私には選択肢が一つも与えられなかったのに、貴方は二つもくれるのね」

「二つと言わず、幾つでも差し上げますよ。宮廷がお嫌なら、何処いずこかの領地で暮らしましょう。ユリアナのようにこの国を捨てたければ、喜んでお供します」


 うっとりと自分を見るアルベルトの瞳は、あの日と同じ色をしていた。


 レティシアは微笑んだ。

 アルベルトでなくとも、恋に落ちてしまうであろう、とろけるような表情で。


「驚いたわ。貴方は本当に私を愛しているのね」


 アルベルトの表情がくしゃっと歪んだ。

 彼は何かに耐えるように、右手を己の額に当てた。


「……今、私がどれだけの幸せに包まれたか知ったら、貴女は逃げてしまうかもしれません」

「逃げないわ」


 アルベルトは立ち上がり、レティシアの傍らに膝をつく。


「愛しています、レティシア」

「私も好きよ、アルベルト」


 アルベルトはレティシアの手を取ると、引き上げるようにして自らも立ち上がった。

 二人は見つめ合った。


「いつの日か、愛してください」

「もう……愛し始めているわ」


 きっと……というレティシアの言葉は、アルベルトの口の中に吸い込まれた。







 一年後、王立高等学院を卒業した王太子アルベルトと、公爵令嬢レティシアの婚儀が国を挙げて行われた。

 華やかなパレードに現れた、いずれ劣らぬ美男美女の次期国王夫妻に、国民は熱狂した。


 天災や地方反乱など、二人の治世の前半は波乱が多かったが、後半には国が落ち着き、徐々に隆盛を極めていくことになる。

 終生、夫婦仲は睦まじく、二男二女に恵まれる。

 次女は母譲りの美貌が国を超えて評判となり、隣国の王子から是非にと望まれ、嫁ぐことになった。

 


 これより200年後、隣国は周囲の国を次々と併合し、一大帝国を作り上げる。

 帝国の初代皇帝についたフリードリヒ一世は、ユリアナ皇太后のひ孫に当たり、己の血筋に連なる隣国の者たちを手厚く遇したという。






END.


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断罪されても王太子が変わるだけですが、何か? チョコころね @cologne

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