第3話 ハワイの風

「この島は、風上に媚薬を飛散させる観光政府の施設でもあるんじゃないか?」

夫は、帰り際にそんな事を口にした。思い返せば、たしかにずっと笑っていた。おさえようとも笑みがこぼれ出てきてしまうのだ。


ーハワイ。


 不覚にも…私たち夫婦は恥ずかしいほどメジャーな南の島に“骨抜き”にされてしまった。義弟の結婚式という不可抗力のために、急遽ハワイに行くことになったが、そもそもインドア派の人間である私たち夫婦は、“ヘルシー”や“アクティブ”や“ハッピー”がぎっしりつまったこの島に、ワクワクするどころか、面倒臭さや、ハッピーピーポー達への拒否反応を抱いていた。


 そして、どこか無感情のまま、仕事帰り羽田から深夜便の飛行機に6時間。ぼんやりと寅さんを鑑賞しながら、恐ろしいほど広大な太平洋のまん中に、辛うじて鼻先だけを突き出して呼吸しているような島々の一つ、オアフ島にツンっと降り立った。


 ホテルにチェックインすると、私も夫もとにかく寝てすごす計画だった。東京での疲れが取れれば、今回の旅行は御の字だという魂胆だ。


しかし、あちらこちらから漂ってくる、バーベキューソースや肉汁の香り。私たちは、軽く夕食をとるという口実で“ワイキキの街”に出ていた。


夕方6時過ぎのワイキキのビーチは、サンセットを見るための観光客が大勢集まり、時に歓声をあげ、時にため息を飲み込みながら、皆がじっと夕日を見つめていた。


…認めるしかないから言うけれど、ハワイの夕日は感動的!地平に沈んでいく太陽は、情熱を持て余すように空を真っ赤に染め、次第に仕方なく、一日の火照りを沈めるようにじんわりと海に溶けていく…。


 しかしむしろ、私の心を奪ったのは、夕日よりも地元のサラリーマンたちで、会社帰りと思われる彼らの車がぞくぞく海岸沿道を埋めていく。そして、車の横でさっさとスーツやシャツを脱ぎ捨て、上に積んであったサーフボードを抱え、夕日が溶け始めた海に次々と飛び込んでいくのだ。気が済むまでただ黙々と波に乗ると、ざっとシャワーを浴び、車で家路を急いでいく。


 次の日の朝は、カピオラニ公園のそばを通って、海沿いに出て、マクドナルで簡単に朝食をとろうと歩いていると、小脇にテキストを抱えた女子学生がスケートボードで丘の上から滑り降りてきた。彼女は砂浜に到着するとTシャツとホットパンツを放って水着になり、波と砂浜のちょうど真ん中に横たわった。そしてヨガを始めたのだ。彼女の体には波が引いては寄せ、一つ一つポーズを取るたびに、彼女の呼吸が自然のリズムと調和していくのが見ていてわかった。しばらくの後、ざっとシャワーを浴び、Tシャツだけ羽織ってホットパンツは小脇にはさみ、何事もなかったかのようにダウンタウンの方に走り去っていった。きっとカレッジにつく頃には、髪も体もさらりと乾いているのだろう。


 この島に住む人々は、毎日野菜を食べるように、自然の産物である「海」をごく普通に取り込み健康を保っているんだな、と、その時の私は冷静に判断した。日本人的な感覚から言えば、オンとオフが一日の中にバランスよく共存している感じ。


 急に、月曜から残業続きの自分の生活が、ノーブレスの競泳のようで息苦しく思えた。日本もだいぶ働き方が変わって「ライフワークバランス」なんて言うけれど、平日の疲れを、休日に癒す。それが、バランスなのだろうか?1日、1日はどうなのか?


 そこで私は、ほろりと骨を抜かれた。全身の力が抜けると、自然に笑みが溢れていた。


「もう少し気楽に生きてみたら?」ハワイの風は私にそう語りかけ、また、広々とした太平洋の彼方に消えていった気がした。悠々と駆け抜けるハワイの風。確かにどこかで媚薬を含ませているのかもしれない。


 

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