第25話 こっちを見ろ
家に帰ると、私はソファでぐったりしていたクマのぬいぐるみを思い切り壁に投げつけた。
ぐしゃっと潰れるような音に驚いたのか、近くにいた犬が飛び起きて逃げていく。
「プロレスラー目指すなら進路の変更はお早めに~」
「誰が目指すか!」
キッチンから顔を出した母に一喝する。反響した自分の声は、さながらプロレスラーのように威圧的だった。
料理の香りを嗅ぎながら、さきほどの出来事を思い出す。
あんな無理矢理、暴力みたいな。
ぐぐぐっと眉間にシワが寄っていくのが分かった。十円玉くらいなら挟める気がする。
「にゃ~~~、にゃーーー!」
「うるさいよ猫!」
「猫なんだからいいだろ!」
変な喧嘩を一瞬だけした。
電気毛布の上を陣取っている犬の元へと転がっていき、その鼻をつつく。犬は鬱陶しそうに私の顔に猫パンチをかましてきた。
「猫なのに犬なんて名前付けられて、どんな気分だー?」
ぶにゃ。
デブ猫の返事。
「お母さん、なんで私に猫なんて名前付けたの。私人間なんだけど」
「じゃあニンゲンって名前にすればよかったねぇ」
「ええ、嫌だよそれは」
「ネネコとか?」
「それはなんか、企業が絡んでそうだから嫌だ」
「どんな名前付けようとね、その捻くれた性格はあんただけのものだよ」
母は呆れた様子で食器をテーブルに並べていく。小皿に並べられたマグロの刺身に、犬がものすごい勢いで飛んでいく。
そういえば猫って魚が好きなのか。お魚咥えたドラ猫なんて歌もあるくらいだし。・・・・・・ドラ猫ってなんだ? どこにでも行けるドアを出してくれるあいつのことだろうか。
「醤油は付けない。素材の味を堪能する」
「お好きにどうぞ」
父の分の刺身が犬によって少なくなっていくのを横目で見ながら、私も同じようにかぶりつく。
「箸を使え箸を」
「野生の味を思い出したい」
「あんたはしっかりお母さんの股から顔出したんだから、諦めろ」
そもそも、小さい頃から犬と暮らしてきたから、私も猫みたいになってきたのかもしれない。人間ではない存在が家の中にいたから、私の動向や思考も、にゃぁ、とふにゃふにゃしたものになったのだ。
風呂に入る前に服を脱ぐと、鏡に映った私の体に、赤い痕ができていた。
それは魚さんと取っ組み合ったときに出来たものだ。
魚さんの家で、魚さんに襲われた。
あれは多分、私のことを食おうとしていたのだと思う。
なんで? 私が聞きたい。
私が、猫だったから?
にゃーんって、誘うみたいに鳴いたから?
女は媚びるときに猫みたいな声を出すし、人間はあの声を聞くと本能的に興奮してしまうものなのかもしれない。私は知らず知らずのうちに、魚さんを興奮させてしまっていた?
鏡の前でセクシーなポーズをとってみる。
凹凸がさっぱり足りなかった。
浴槽に浮かびながら、もやもやとした感情を泡に変える。
あんなことされるために、魚さんのところへ行ったわけじゃないのに。
言ってくれたら私は用意したし、ぎこちないながらも唇を突き出して目を瞑るくらいはした。なのに魚さんは、落ちてきた肉塊を独り占めするように貪った。
痛かったし熱かったし、そしてちょっと怖かった。
水面をぶったたいて、しぶきをあげる。
「ばーか」
人の心も分からない魚介類め。
「ばか佳奈」
小学生みたいなあだ名を付ける。
というか、魚さんの名前は、佳奈なのか。
普通の女の子みたいに、可愛らしい名前。でも、本人は変人だ。
私も、犬も、魚さんもそうだけど。名前ってあんまり重要じゃないのかもな。結局、どうあるかはその人次第ってことで。
「にゃー」
反響する自分の声の甘さに、我ながら恥ずかしくなる。けれど、何かのスイッチが入ったかのように、私は人間味を失っていった。
翌日、魚さんは普通に学校に復帰していた。
机に座っていた魚さんは、透明のビニール袋を頭に被っていて、クラスの人たちからドン引きされていた。
「おはよ宇宙人」
「え、どこ」
ビニール袋を被った魚さんが目をキョロキョロさせる。
「もしかして、風邪がうつらないように?」
「あ、もしかしてこれ?」
魚さんがビニール袋を指さす。
それ以外、この教室に異常は存在しない。
「鯛だよ鯛。自分で寝袋を作ってそこで寝るの」
「へー、冬の自由研究?」
変なの。なんて今更この人間に思うことはなくなった。
というよりも、これくらいのほうが魚さんらしくて、マジメにノートを広げていたらそれは魚さんじゃない。
私にとっての常識は、だんだんと魚さんに寄っていっていた。
「あのさ、昨日のことなんだけど」
周りに人はいたけど、私たちの会話に耳を澄ませている人はいなかった。私が他の人たちの会話に興味がないのと同じように。
「ああいうの、もうやめてね」
「なんで?」
魚さんは、丸い瞳を無機質に広げている。
「びっくりするから」
「猫なのに」
「人間ですが」
すっとぼけるとかじゃ、ないんだな。
自分のしたことが、日常の範疇から外れているということは、魚さんも理解しているんだ。
「人間じゃないよ」
そのとき、どこからともなく筆箱が飛んできて、魚さんの顔に直撃した。うわっ、痛そー。
「ごめーん! 大丈夫? 怪我はない?」
筆箱の持ち主が慌てて駆け寄ってくる。
それにしても筆箱が当たったときいい音したなー、と感心していると。
「人間じゃないよ」
ゾッとした。
魚さんは瞬きもしないまま、真っ黒な瞳を私に向けていた。筆箱でも、謝りに来た子でもなく。私だけを見て。
「おっさかな咥えたドラ猫~、おおっかけぇてぇ~」
「どうしよう猫さん。筆箱当たった衝撃で魚さん変になっちゃった!」
「筆箱で変になるなら、タライで偉人になるから大丈夫だよ」
全然、大丈夫ではなかった。剥き出しになった瞳。神経の通っていない臓器。
捌かれて、頭だけ落とされた、魚。泳ぐことのなくなった魚は、いったい、どこを見ているのだろうか。
「猫さん、ドラ猫ってなに?」
「チェシャ猫みたいなものじゃない?」
「えー、チェシャ猫は魚を食べないよ」
見たことあるような言い方だ。私は絵本でしか見たことがないのだけど。
「魚を食べなくていいのはチェシャ猫だけだよ」
魚さんが、指を私の顔の前に突き出してくる。
「プリント、ちゃんと見た?」
「見てなーい」
「せっかく昨日届けにいったのに、意味ないじゃん」
「意味はあったでしょ」
魚さんの指が、私の口の中に入ってくる。
人の肌。
妙に塩辛い、変な味と。ざらざらとした、嫌な感触。
嫌だ。
顔をしかめて、顔を背ける。
しかし魚さんの指は、私の頬を引っ張って、口を広げていく。
「ひょっほ」
声が出ない。でも、視線で抗議した。
釣り針に引っかかった魚みたいに、なんで私が釣られなくちゃいけないんだと。
「ふっはは」
魚さんが笑う。
だけど、笑ってない。声だけの笑顔。
プロの手品をじっくり見て、種を探すかのようだった。ありえないことが起きていて、さっぱり理解なんかできてないのに。そこにはタネがあって、理屈がある。
知った瞬間こんなことかって肩の荷が下りるのか。知らなければいつまでも童心のまま楽しめるのか。どっちがいいんだろうなー、手品。
「魚さん」
「はいなんでしょ」
「洗ってからそういうことしてね、指」
ただ、わー! すごーい! って言っておけば、手品をしている人もいい気になって喜んでくれる。
「ほにゃーん」
魚さんが、からかうように、目を細めて。私の耳元で囁く。
それでも私は、ジッと身を震わすことしかできない。
この手品には、タネも仕掛けもない。
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