第24話 獲物を食わせろ
「お、おおう」
ばっちり合った目が、交互に瞬きを繰り返す。
布団に紛れる魚さんはどこか弱々しく、子供っぽく見える。まん丸な目が、なんで猫さんがここに? とわかりやすく揺れていた。
「お母さんにプリント渡しておいた。それからこれ、お茶とおせんべいと、枝豆」
枝豆。自分で口にしてみても、さっぱり腑に落ちないラインナップだ。
魚さんが起き上がろうとしたが、明らかに辛そうだったので頭をチョップして寝かせた。気絶はしていない、と思う。
「無理しないでいいよ、風邪引いてるんでしょ」
「うぅーん、そうだった」
「まだ辛いの?」
「分かんない」
「自分の体くらい分かれ」
電気を点けようと思ったけど、魚さんが頭半分を布団に埋めてもぞもぞしていたからやめた。
魚さんは呼吸がしづらいらしく、時々小さく咳き込んだ。
「気なんて遣わなくていいよ。私なんて家だとむせたときゲロ吐くみたいになるし」
「そうかー、げほっ、ウオエッ!」
「それそれ」
何度か咳き込んで、嗚咽を吐く。そのくらいしたほうが、押さえ込むよりは楽だと思う。
「猫さんこそ、気遣わなくていいのに」
「遣ってないって」
「プリントもう渡したんでしょ?」
咳をして、鼻を啜って、涙目になった魚さんが私を見る。
「ほんとは魚さんに会いたかっただけだから」
私はいつから溺れてしまったんだろう。やはり、一緒に海に行ったときだろうか。あの夜からすでに私は、この狭い水溜まりの中を心地良いと感じて、泳ぐことすらやめてしまった。
「友情、いえーい」
魚さんが抑揚のない声を天井に放つ。ふわふわと煙のように浮き上がって、跳ね返ることなく部屋に充満した。
友情。その言葉を聞いただけで、背中が攣ったように痛くなる。
「猫さん、やっぱりお茶飲みたい」
「あい」
今日の魚さんはやけに素直だ。風邪を引いているときですら、虫とり網を握られていても困るのだけど。
魚さんの背中を支えて、ゆっくり起き上がらせる。試飲して、お茶が人肌ほどに冷めているのを確認してから、湯飲みを魚さんの口に近づけていった。
「飲める?」
魚さんは無言で、湯飲みに口をつける。魚さんはゾウさんではないので、そのままの体勢じゃ飲めないだろう。私が湯飲みを傾けると、魚さんは時々声を漏らしながらもゆっくりとお茶を飲んだ。
「猫さん、早いよ。そんなにいっぱい飲めない」
「あ、ごめん」
口元からお茶を垂らす魚さんに気付いて、私は慌ててティッシュで拭いた。
「なんか面白くて」
お茶を飲み終えた魚さんは再び布団に潜り込んだ。けど、私が来たときよりは顔色がよくなった気がする。
「魚さんがいなくて寂しかった、学校」
私の喉はまだ開ききっておらず、細々とした声は自分でも掠れていると分かる。そういえば今日は、あまり声を張って喋ることがなかった。授業の中盤からは、今日は喋ってたまるかというような謎のプライドが沸騰するように湧き出てきて、気付けばクールで物静かな生徒に変貌していた。
魚さんは布団を被っていたので、表情は窺えなかった。人間がマスクの下で薄ら笑いを浮かべるように、魚さんもなんらかの反応は起こしているかもしれないけど、私はそれを見たい。
「錆び付いた息の根」
「なにそれ」
「氷属性の、最強技。相手の心臓を凍らせる」
「氷が欲しいの? 熱い?」
私が手を伸ばすと、魚さんは逃げるように布団に引っ込んでいった。
一人で卓球をしている気分だった。
回転や空気で球はいろいろな変化を見せるから飽きることはないけれど、ふとした瞬間に一人であることに気付いて、スマッシュを撃つ気概が削がれるのだ。続けることを目的としたラリーほど退屈なものはない。いつか終わるからこそ、ラリーも楽しいはずなのに。
「佳奈」
ぼそっと呟くと、布団がぴくっと揺れた。
「なんで魚なの?」
「生まれたときから魚だよ」
「魚みたいに、なりたいの?」
私だって鳥に憧れたことはある。一時期鳥の帽子を被って学校に行っていたくらいだ。だから人が自分以外の動物に憧れるのは変なことではないと思う。
「かなぁ」
どういう意味だそれ。
「鼻水が味噌の味がする」
ずずっと鼻を啜る音がする。小さな音だったけど、私にとっては休日の工事音よりうるさくて煩わしかった。
「あのさ、本音くらい聞かせてくれたっていいじゃん」
去年の冬あたりからだろうか。
私は私の気持ちを包み隠さず魚さんに伝えた。身が裂けるような思いだった。焼けるように恥ずかしかった。でも、言った後は浮き足だった。言っちゃった、って子供みたいにぴょんぴょん跳ねた。
「私は全部伝えたよ。魚さんは?」
まだ、しっかりとした返事はもらってない。
もちろん、聞くのは怖い。断られたら私は多分泣くし、いいよって言って貰ったら私はこの病人を背負って町内を走り回る。
「本音とは本当の音のことを言う。つまりそれは、思考とはかけ離れたものであり、声にでたものこそが本音なのだ」
「魚さん」
「脳から音は鳴らない、だからこそ人は音を奏でる。あの人が言ってた」
「誰」
「ゴッホだった気がする」
「ゴッホって画家じゃなかったっけ」
「あれ、じゃあバッハか」
「私もうろ覚えだからわかんないけど」
「じゃあやっぱりゴッホだね」
「魚さん!」
思い切り布団をめくりあげた。
暗い、暗い闇の中。
深海に潜むように身を丸めた魚さんは、生気のない真っ直ぐな瞳で私を見上げていた。それはまるで、釣り上げたばかりの、魚のようだった。
「なかったことにしようとしてるならごめんなんだけど、あの日のこと、どう思ってるの?」
「あの日のこと?」
「クリスマス。私、魚さんに・・・・・・したでしょ」
何をしたかは言えなかった。けど、魚さんも心当たりはあったらしく、ポンと手を叩いた。
「されたね」
「どうなの」
「どうって? ここのこと?」
魚さんが自分の胴体を指さす。
「だから!」
苛立っている自分に気付く。なんで私、こんなに焦ってるんだろう。何が私をこんなにも追い立てるのだろう。時間はこれからたくさんある。
どうせ来年も春夏秋冬と季節は巡り巡るのだから、そのどこかで改めて聞けば良いだけなのに。
「美味しかったねー、鯛焼き」
それが美味しかったという顔か?
魚さんは白目の中にまん丸の黒目を浮かべて、瞬きもせずに私を見ている。
「そうだね」
もう、いいか。自分が傷つくだけだ。発言ってそういうものだ。自分の気持ちを先に吐いたほうが負けだ。自傷行為は好きじゃない。自分が一番大事だし、死ぬ最後のときまで真っさらな体でいたい。
「私、もう帰るね」
ぶっきらぼうな言い方になった自分の声が反響して帰ってくる。狭い部屋にある、狭い私の心。人に魅了されると、人は広さを失うらしい。
そもそも、用事は終わったのだし、さっさと帰るべきだったんだ。
家に帰ったら、どうしよう。何をしよう。何をすればいいんだっけ。
何かをしなければいけないんだっけ?
今頃フローリングに寝そべっているであろう犬を想像する。なんもしないでもいいかもしれない。あんな風にあくびをして日々を過ごす。
これまでの私だって、そうしてきたじゃないか。
「にゃーん」
あいつの真似をして、鳴いてみる。頬骨をあげて、目を細めて、何かをねだるみたいに、鳴いてみる。
そのときだった。
魚さんは布団から飛び出すと、私の手首を掴んで壁に押しやった。
「魚さん、何――」
魚さんは、最後まで喋らせてはくれなかった。
風邪を引いて水分を失ったそれが、カサカサの感触を私に押しつけてくる。
手を添えるとか、腰を抱くとか、してくれたらよかったのに。
魚さんは手を使わず、口と、顔だけで位置を調整し、貪る。
水中に浮かぶ肉を喰らう、鮫のようだった。
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