第23話 扉を開けろ
先生に教えてもらった住所を調べたけど、魚さんの家は私の最寄り駅から四駅も離れたところにあるらしかった。しかも駅からも遠いと来た。歩けばたぶん一時間半はかかるから、今から向かったら夜になってしまう。
どうする? 親に行って送ってもらうか? いやいや、友達にプリントを渡しに行くと伝えて、からかわれる未来しか見えない。
私の親は、親としてはまぁ、よくこんな私を育ててくれているとは思うけど。こんな私に負けず劣らずの、あんな親だ。送ってもらうのは得策とは言えない。
キッチンの奥では、帰ってきた母が夕飯の支度をしているところだった。
私は私服に着替えて、玄関に置いてあるバスケットの中を漁った。
たしか、母の使ってる自転車の鍵は。
ごそごそと中を漁っていると、おたまを持った母がリビングから顔を覗かせてこちらを睨んでいた。
「なにしてるの」
「あー、カギ探しを」
「はぁ? なんのカギ」
母としばらくの間にらみ合う。手のひらに滲む冷や汗を振り払うように、私はカギをぶんどって地面を蹴った。
「あ、ちょっと! こら! 猫!」
自転車のカギを握りしめ、玄関前の階段を転げ落ちる。這い出るように駐車場へ向かって、脇に停めてある自転車に飛び乗る。カギをかけて、ペダルを思い切り漕いだ。
「あんた! また車に轢かれても知らないよ!」
「そんときはそんとき!」
母の怒号から逃げるように、私は約五年ぶりに、自転車に乗った。
久しぶりの運転はひどく不安定で、時々ハンドルがガクンと曲がってしまう。どうすれば安定するのか、忘れたのか。それとも、そもそも知らないから私はあんなにも車に轢かれていたのか。
坂を登って、汗が滲む。もう太ももがぷるぷる震え始めた。
けど、まだ出発して十分しか経っていない。
私はサドルから尻を離して、立ってペダルを漕いだ。フラフラと、蛇行しながら進む。
ちょっと力んで目を瞑って、もう一度目を開けると、視界の隅から車が迫ってきていた。
時間が止まったように、私の動きも止まる。
あ、車だ。
そうやって呆然としている間にも、鉄の塊を轟音を響かせながら私を吹っ飛ばそうと迫ってくる。
車は、白線の一歩前で停まった。中の運転手が、露骨に迷惑そうな顔で私を睨んでいる。
私は何度も頭を下げながら、先を進んだ。
結局魚さんの家まで四十分ほどかかった。太ももがパンパンで、地面に脚を付けると電池のなくなったおもちゃみたいにカクカクした。自分で制御できない筋肉の痙攣に、久しく出会った気がする。
見上げた先にはアパートがある。先生の教えてくれた情報によれば二○二号室に魚さんが住んでいるらしい。
階段を昇ると、鉄筋がミシミシと軋んだ。赤くなった鉄が、砂のように落ちていく。
部屋の前まで来て、そういえば魚さんに連絡をしていないことに気付いた。
でも、魚さんだって、いっつも何も言わずに私に会いにくるわけだしその辺の倫理観はぶっ壊したほうが後々楽かもしれない。
チャイムを押すと、おばあちゃんの家で聞いたことがあるような、軽い鈴の音が鳴った。
「はーい」
扉の奥から声が聞こえた。
「どちら様でしょうか」
チャイムの音なんかより何倍も鈴に近い、綺麗な高い声をしている女性がスリッパを履いたまま出てくる。
おそらくも何も魚さんのお母さんなんだろうけど、魚さん以外の人間に会う心の準備をしていなかったので言葉に詰まってしまった。
「学校のお友だちかな?」
「は、はい」
魚母は、魚さんに顔立ちがよく似ている。というか、魚さんが、魚母に似ているのか。重力に従順に従う黒い髪も、母親譲りだ。
「プリントを先生から頼まれていて、えっと。これです、保護者用らしくて、渡し忘れていたみたいで」
他人の親と話すのはどうも居心地が悪い。どこで話を切って、どこまで要件を伝えていいのかが分かりづらい。
魚母は、頬に手を当てて「まあ」と母の模範解答みたいな反応をした。ていうか肌綺麗だな。何歳なんだ。
「ありがとね」
背丈の揃った言葉遣いをする魚母はプリントを受け取ると、後ろを向いて、廊下の奥を見つめた。
ここから見える部屋は二つ。一つはリビングで、もう一つは、お風呂かな。魚さんの部屋はどこなんだろう。まさか風呂場で生活しているわけでもないだろうし。もっと奥に部屋があるんだろうか。
「佳奈に会いに来たの?」
ほ、と声が出る。
気付けば私はつま先を立てて、体をぐーんと傾けて、無礼なまでに部屋の中をガン見していた。
「よかったら寄っていって。煮出したばっかりのお茶があるの。美味しいよ」
「そ、それじゃあ。お邪魔します」
魚母が入り口を開けてくれたので、頭を下げて玄関に入る。扉を閉めて、靴を脱いでいる間にも、頭上に視線を感じる。
「こっちだよ」
魚母は腰まで伸びた長い髪を揺らしながら、廊下を優雅に歩いて行く。真正面に見えた部屋は、やはりリビングだったらしい。
部屋の真ん中にご飯を食べる用なのか、大きな丸机が置いてある。その前にはテレビがあって、上には何故か目覚まし時計が乗っている。
「佳奈にも友達が出来たんだね。嬉しいな。学校での佳奈はどう?」
魚母が、やかんの麦茶をコップに注ぐ。微かに湯気が立っている。いい香りがこちらまで届いてきた。
学校での魚さん? 髪をいきなりスイカ色にしてくるような愉快なお子さんですよ。とでも言えばいいのだろうか。どれだけ気を遣っても、魚さんの絡むエピソードにろくなものはないのだった。
「魚さんは」
コップを二つ、それからおせんべいを木の皿に入れておぼんに乗せる。魚母がそれを差し出してきたので、軽く会釈をしてから受け取った。
「そっか、魚か。可愛い名前だね。佳奈のことだから、アジかな? 味があるよね」
ふふ、と魚母が笑う。最後にアジだけに、とでも付けてくれないとオチどころか、会話が埃のように舞い上がってしまって形が見えてこない。
ちょっとこういうところも、魚さんに似ているのかなと思った。
「最近東大に入るとか、自家栽培を始めるとか。そんなことばっかり言い出すようになったから、佳奈、きっといいことがあったんだろうなって思ってたけど、キミだったんだね」
私と視線を合わせるようにその場で屈む魚母。
「そんなこと言ってたんですか」
前にトレジャーハンターになるとかも言ってなかったか? 東大を目指すのも勝手だけど、両立は難しいどころか、無理だと思う。
「もちろん本気じゃないよ。佳奈ってばすぐ誤魔化すんだから」
「誤魔化す?」
「ほら、佳奈って照れ屋さんだから」
「照れ屋ぁ?」
つい突っかかるような口調になってしまった。手からおぼんが滑り落ちないよう、リアクションを最小限にとどめた結果である。
それにしても、魚さんが照れ屋? それなら私は殺し屋だ。
虫も殺したことないけど。それくらい、正反対だろう。魚さんと照れ屋なんて。
いつも魚みたいに目をまん丸にして、ぼーっとしていて、何考えているか分からなくて。そんな魚さんが照れるというのなら、是非目の前で披露してもらいたい。
まずそもそも、大前提として、私はいつこの佳奈と魚にツッコめばいいのだろうか。
私は死神のノートも拾ってないし、偽名を使われる筋合いはないのだけど。
「それ、持って行ってあげてくれる? 今なら起きてると思うから」
魚母が奥の襖を指さす。
「魚さん、具合悪いって聞きましたけど、大丈夫なんでしょうか」
「お医者さんに診てもらったけど、ただの風邪だから大丈夫だよ。ここ最近全然寝てなかったらしいから、体調崩したのかもね。あの子喘息持ちだから咳するかもしれないけど、うつることはないから安心して」
それから、と魚母がタッパーをおぼんに乗せてくる。中には、いっぱいの枝豆が入っていた。
魚母に襖を開けてもらう。襖の向こうは、リビングの半分ほどの大きさの部屋に繋がっていた。
カーテンは締められていて、じとっとした暗さに包まれている中、敷かれた布団がゆっくりと膨らんだり凹んだりを繰り返している。
魚母が、ニコニコと笑いながら私に手を振って静かに襖を閉めた。
部屋が一気に暗くなる。電気、どこだろう。その前に、おぼん置かないと。
リビングに置いてあった丸机の小さいバージョンが足元にあった。そこには水の汲まれたコップと、体温計。それから薬の包装紙が無造作に置かれている。
そういえば私も、風邪を引いたときはこんな感じで、薄暗い部屋で一人眠って起きてを繰り返していたことを思い出した。あのとき飲んだポカリが異様に美味しかったのを覚えている。
「魚さん」
私は枕元に座った。
「来たよ」
布団から出ている魚さんの顔を覗き込む。
いつもよりゴワゴワした髪。いつもより紅潮した肌。とろんとした目。半開きになった口。汗ばんだ首筋。普段は決して見ることのできない魚さんがそこにいた。
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