春
第21話 人間やめろ
庭に豆をまき散らしたときにはまだ雪が積もっていた。
鬼の仮面を付けた母が大酒を喰らいながら童謡を歌っていた狂った夜が一ヶ月前の話で、押し入れの奥で引きこもっていたお内裏様とお雛様を引っ張り出してカラフルな砂糖のお菓子を食べたのが昨日の話だ。
もうすでに雪は降っていないけど、外の気温は一桁とまだ寒い。コートをクローゼットにしまったり出したり、かといって外を歩いていると時々汗ばむときもあるから、判断が難しい。
春風はまだこないけれど、外に出ると確かに命の息吹を感じる。
前まで雪が積もっていた公園のベンチの隣には、雑草に紛れて黄色い蕾みが見えている。アスファルトの上には、緑色の小さい虫がちょこまかと這っていた。電線には鳥が止まっていて、向かいの家の玄関には亀の入った水槽が置かれている。
出会いと別れの季節なんて言うけれど、どちらかというと、破壊と再生を繰り返すような、命の淡々とした序列を私は感じた。
私は今年の春を経て、いったい何を破壊し、再生するのだろう。リセットの効くこの季節。歩く速度があがるのは、リスクを恐れていないからに違いない。
朝、家を出た勢いでつま先を地面で叩く。寒色の混じったアスファルトは、冬と比べてだいぶ黒みを帯びたように思える。
カバンの紐を指先にかけて、地面を見ながら歩く。
そういえば魚さんに連絡をし忘れた。
魚さんは、きちんと「会いたい」と伝えないとあっちから来てはくれない。そのくせ、私が魚さんの存在をすっかり忘れているときにはいつもひょっこり顔を出すのだ。
まるで背中合わせのまま歩いているようなこの関係というか距離感というか。つい肩を竦めてしまう魚さんとのコミュニケーションは時に頼もしくもあり、時に不満でもある。
「おはよ、猫さん」
例の如く、魚さんはホームルームギリギリでやってくる。私が会いに来てというと、すぐに私の家まで来てくれるので時間にルーズというわけではないのだろうけど、都合上の優先順位のようなものはあるのかもしれない。
私は机に突っ伏していた顔をあげて魚さんに挨拶する。
「うわ、クマすごいよ」
「昨日、友達の相談受けてたら三時までかかったんだよ。そのせいかも」
「ほへー」
魚さんは私に、相談とかするのかな。してくれたら全然乗ってあげるけど、そのときは一生来ない気がする。
「魚さんは夜電話とかしない?」
「ばっちゃとテレビ電話ならする」
ばっちゃ。魚さんはおばあちゃんのことをばっちゃって呼ぶんだ。
「それなら今度通話でもする? 寝落ち通話」
「おち?」
「寝るまで電話するの」
「猫さんは電話とか、好きなの?」
私は魚さんのことをなんでもかんでも知っているわけじゃない。けど、魚さんも私の何もかもを知っているわけでもないのだった。
「好きだよ、割と」
魚さんはカバンのファスナーを左右にガチャガチャ動かして遊んでいる。そんな目の前でやらなくてもいいのに。
「電話代かかりそうだからいいやー」
「あ、ちょっ」
アプリならかからないでしょ、ってちゃんと口に出したとは思うんだけど、魚さんには届いていないらしかった。
「なんか言った?」
隣の席の子が、私に話しかけてくる。今の場面だけ切り抜けば、私が虚空に向かって話しかけているように見えたに違いない。
「変人だって思わないでください」
「思ってないけど・・・・・・」
困ったように笑うクラスメイト。
そのあと私が前を向くと、後ろからジャギジャギと音が聞こえた。
それが魚さんのカバンから聞こえるものだということは、言うまでもない。
魚さんを連れて家に向かう。
カギを探している間も、魚さんは風除室の中でフラフラと頭を振っている。
扉を開けると物音に反応したのか犬が階段を降りてきているところだった。家は留守中も基本的に部屋のドアは開けているので、犬も退屈はしていないだろう。それどころか、私たち家族のことを邪魔とすら思っていそうだ。
「犬ちゃーあ」
ん、まで言え。
とろけた声で犬を抱っこする魚さん。魚さんも魚さんで、今日家に来たのは犬が目的なんだろうな。
動物も人間も、どこかに居着くのはそれなりの理由がある。私が魚さんの近くをうろついている理由はなんだろう。なんなんだろう。
私の部屋でさっそく寝転がる魚さんのふわりと舞ったスカートをつい目で追ってしまうくらいには、なんなんだろう。本当に。
魚さんは飽きもせず犬と戯れて、私は足にクッションを挟んで既読の漫画を読む。時々スマホをいじったりして、チラと魚さんを盗み見たりする。
魚さんはいつもまん丸な目でどこかを見ている。私たちが写真を撮る瞬間にするキメ顔を、魚さんは自然体でやっている。大きな目、口角の引き締まった唇。高い鼻。細長い腕。ストッキングが輪郭を映す肉付きの薄い脚。
私が人間的な欲望や切望を魚さんにぶつけている間にも、魚さんは動物的欲望のままに生きている。
漫画を読むのをやめて、仰向けになる。
なんだよ、もう。
私の家に来たのだから、私に話しかけるなりなんなりしてくれたっていいじゃないか。
犬が目的なのは分かってるけど、せめてサブイベントに私をカウントしてくれないと困る。私がこのまま部屋を留守にして三時間後戻ってきても魚さんが変わらず犬と戯れていたら私は怒って暴れ出すかもしれない。
「にゃーん」
漫画本を自分の顔に覆い被せながら、くぐもった声で鳴く。
「わっ!?」
すると、いきなり漫画本をひっぺがされて視界が明るくなる。
魚さんが私に覆い被さって、私の顔を覗き込んでいた。
顔が近い。垂れてくる髪が鼻先に当たって、くしゃみが出そうになる。口を開けば魚さんの髪を噛んでしまいそうな、そんな距離。押し倒された気分にもなるけど、私は他人に押し倒されるような罪を犯した覚えはない。
「なに?」
「え、なに」
「鳴いた?」
「う、うん」
「なんで?」
「なんとなく、だけど」
「もう一回鳴いて」
「はぁ?」
鳴けと言われて鳴くのはホトトギスぐらいだ。今ここで私が猫になったところで何になるというんだ。
なんとなく口ずさんだ歌を、目の前で最後まで歌えと言われても私は歌えない。そういうものを突きつけられて、動けない。
お腹に、魚さんの体重を感じる。顔の横に魚さんの腕があって、横にも縦にも、逃げられない。
「鳴いてよ」
ビー玉みたいな魚さんの目に、私の顔が映る。なんて顔してんだ。
「にゃ、にゃーん」
「おお」
魚さんが私に乗ったまま、パチパチと拍手する。
「魚さんって猫が好きなんだっけ」
「うん。二番目に好き。一番は」
「虫でしょ、前に聞いた」
「そうだっけ」
忘れもしない、夏の公園での出来事。あの日私の目に映った魚さんは夏空の太陽に負けないくらい眩しく見えた。
魚さんの手が、私の顎に伸びてくる。
さわさわ、という風に、優しく撫でられる。犬も普段、こうやって撫でられているのか。
「ぶにゃ」
私の頭の横に、犬が座り込む。
「あら」
魚さんも犬に気付く。気付きながらも、私からは離れない。
犬がジッと、撫でられ続けている私を見ている。
ペットに見られたからなんだって思うけど、妙に気恥ずかしくて犬から目をそらしてしまう。そらした方では、魚さんが私を見下ろしていた。
「うが」
「噛まないね、猫さん」
「わかってる」
何かが壊れて、何かが生まれる。
破壊と再生。
蕾が咲くような、そういう命の芽吹きを自分の中で感じた。
「ってゃい!」
「ビックリした。急にどうしたの猫さん」
「いきなり耳に指入れないでよ!」
「でも犬ちゃんは喜ぶよ」
「このデブ猫と一緒にしないでもらえるかな」
一緒にすんな、すんな。
すんなりと、入っていく。指。
「耳くそみっけ」
「あのね」
プロレスラーみたいに体を回転させて魚さんを吹っ飛ばす。
魚さんは脚を大きく開きながらベッドにもたれている。
飾り気の無い、真っ白な布に、私の頭も真っ白になる。
いいよって言ったのは魚さんだ。私を許して、選んでくれたのも魚さんだ。
けど、この脳内ミステリーな女に、私の気持ちは伝わっているのか。
伝わってない気がするなぁ。
「晩ご飯食べてく?」
「いいの?」
「いいよ。お風呂も沸かすから、入ってから帰りなよ」
「はーい」
魚さんはまるで、親に言いつけられたかのように納得した表情だけを浮かべている。
人間的な温情や感動など、この女は宿していないのだろう。
あくまで動物的に。この部屋が一気に獣臭くなった気がする。
私は再び、仰向けになる。
めくれたシャツも直さないまま、漫画本で顔を覆う。
無防備な状態のまま、暗闇に腰を据える。
また魚さんがのしかかってきたらどうしよう。
あくびの代わりに、また鳴いてしまったらどうしよう。
暗闇の中、目を瞑ることは一度もないのだった。
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