第20話 これでいいのだ

 大晦日はいつもより夕飯の時間が早いし、お風呂も六時くらいに入る。窓から射し込む夕日を浴びながら湯船に浸かるのはどこか特別な感じがあって、今日で一年が終わるのだという実感が沸く。


 家族と歌番組を見て、ときどきお笑い番組にチャンネルを変えたりして、除夜の鐘を聞いて翌朝家を出ておばあちゃんちに向かう。近くの神社で初詣をしてから、集まった親戚に猫撫で声で近づいていく。


 甘えれば甘えるほど金額が多くなる。親戚も、その手口を理解していながらも私にお年玉をくれた。


 そうやって徴収したお金の使い道を考えているとついニヤニヤしてしまう。けど、それと同時、今年はドキドキという心臓の高鳴りが混じっていた。


 クリスマスの日、私は魚さんに浮ついたことを言った。とはいっても、頭で考えていた整然とした台詞は全然出てこなくて、日常会話の延長戦みたいな曖昧な会話だった。


『うん、いいよ』


 最初は私の言っていることの意味が分からないようだった魚さんも、次第に顔を赤くしていき、目をまん丸にしたまましっかりと頷いた。


 その日は駅まで手を繋いで歩いて、すぐに別れた。


 長めのインターバルを取らないと息切れを起こしてしまいそうだったから、早々に帰ったのは正解だったと思う。


 大晦日も、正月も、魚さんと何度もスマホでやりとりをした。


 長いCMの間も暇をしなかったのを覚えている。恋人って、こんなにも忙しいのか。


 クリスマスの日にすれ違ったカップルたちも、こんな風に自分の時間を誰かに捧げていたのかと思うと、手放しに爆発しろ、とは思えなかった。


 三が日が終わって、家に帰ってくる。


 久しぶりの我が家はすごく寒くて、急いで暖房を付ける。家の広さはおばあちゃんちには勝てないけど、暖房の強さだけは我が家に軍配があがる。


 冬休みの宿題のことなんて私はすっかり忘れて、魚さんのことばかり考えていた。


 あの何を考えているか分からない魚さんが私を許してくれたこと、私を選んでくれたこと。そのどれもが夢で見るような非現実的な空気を纏っていて、今ならこんな私でも絵本の主役みたいになれるかもと思った。


 だんだんと面白い番組も減っていって、いつか見たドラマの一挙再放送をぼやっと眺めながら、お昼のお雑煮を食べる。これも昨夜のあまりものだ。正月の余韻を、私はもそもそと食べる。


 正月が終わったばかりで、すぐに会える~? なんて聞くのは図々しいかと思って、魚さんと会う約束はしなかった。


 始業式の朝、カーテンを開けるとまた雪が積もっていた。断続的に続く大雪に辟易しながら、魚さんにメッセージを送る。


「会いにきて」


 するとすぐに返事が来た。


 私は体を揺らしながら朝食を食べて、身なりを整えてからコートを着る。


 親戚からもらったお年玉の半分を母にぶんどられたので、あまったお金で新しいコートを買ったのだ。前みたいに窮屈なムートンコートではなく、薄桃色のロングコートだ。


 防寒性は前のに劣るけど、着やすいし、なにより可愛い。


 だけど、買ったばっかりだから、まだスカートからはみ出た脚がコートの材質に擦れる感覚にはまだ慣れない。ぞわぞわと微妙なくすぐったさを感じながら家を出る。


 家の前で待っていると、向こうから魚さんが歩いてくるのが見えた。


「あけましておめでとう」


 深々と頭を下げて挨拶をするのが気恥ずかしいからあけおめ、なんて言葉があるのに、私は一周回ってあけおめの方がなんだか恥ずかしかった。


「あけおめ、猫さん」


 魚さんの方が文字数が少なかった。


 魚さんはクリスマスのときと同じ紺色のコートに、黒と緑を基調としたマフラーを首に巻いていた。


 背が高いと、何を着ても似合う。ズルいなって思った。


 トンネルの入り口でぶらさがっていた氷柱を折って、魚さんが振り回す。


「氷属性って最強にはなれないんだよ」

「そうなの?」

「雑魚敵は凍らせて勝つのに、強いやつは凍らせても自力で割って出てくるから」

「より強い氷を作ればいいだけじゃない?」

「氷って現象は氷だけだから、強いも弱いもない。結局最強は、無属性なんだよね」


 つるつるの氷柱を地面に投げて割る。パキーンといい音が鳴った。


「猫さんは何属性がいい?」

「うーん、雷かな。楽そうだし」


 炎とかはなんか暑苦しそうだし、炎の物量とかも、食いしばらないと多くならなそう。


 その点、雷は手をかざすだけでよさそうだし、気合いも必要ないでしょ。


「あっはは、似合わなーい」


 真顔のまま、抑揚のない声で笑う。


 一年の始まりとか一年の終わりとか、そういうのをあまり気にするタイプではなかったけど。今年初めての魚さんとの会話がこんなんでいいのかな、とは思った。


 それに、付き合ってはじめての向かい合っての会話でもある。そういう特別が、氷柱のように割れていくのは、なんだか虚しかった。


「ねえ、魚さん」

「んー?」

「手、繋がない?」


 おずおずと差し出した私の手を、魚さんがジッと見つめる。


「いいよ」


 魚さんは基本的に、私のお願いを断らない。けど、快諾もしないのだった。


 手を繋いで歩く。歩きづらい。生きづらい。窮屈で不自由な空間を自分から選択する滑稽さに、思わず体が熱くなる。


 スマホで繋がっているだけじゃ得られない人間本来の温かさを、ようやく感じることができた。


「魚さん、大晦日何見てた?」


 そうやって、肉声で繋がることを願った。けど魚さんは、足を止めて、私とは真逆の方向を見ていた。


「魚さん?」


 私の声に魚さんは反応して、再び動き始める。


 ――にゃーん。


 どこかで、猫の鳴き声が聞こえた。


 再び足を止めた魚さんに、繋いだ手が引っ張られる。


 思わずよろけて、私は魚さんを睨む。


「ちょっと」


 魚さんはまた、私とは違う方を見ていた。


 視線の先を追うと、知らない人の家の窓から、猫が顔を出して私たちを見下ろしていた。飼い猫だろうか。開け放った窓の向こうから、掃除機の音が聞こえる。


「魚さん」


 ――にゃーん。


「魚さん」


 手を引っ張っても、魚さんは動いてくれない。


 食い入るように、引き寄せられるように、魚さんは窓を見上げている。こちらを見下ろす猫が、私を見て笑っている気がした。なんだ、この。やんのか。


 知らない家の猫に喧嘩腰になる。


「にゃーん」


 瞬間、魚さんが振り返った。


 まん丸な目が、私を見る。


 はじめてだ。はじめて、こんなに近くから、魚さんが私を見ている。私が魚さんを見ているんじゃなくて、魚さんが、私を見るためだけに目を開いている。


 ラムネ瓶の中で転がるビー玉みたいなその目に、私は圧倒されていた。


「い、行こうよ、こんなところで止まってないでさ」

「うん」


 魚さんと再び歩き出す。


 雪を踏むと、ぼすっ、ぼすっ、となんとも言えない音が鳴る。


 冬はまだ終わらなそうだ。スタートダッシュに失敗した冬は、いつもそうだ。失敗を取り返すみたいに、意地になって雪を降らす。バランスもへったくりもないその降りように、私たち人間はいつも振り回される。


 いつになったらこの、温かさが恋しくなる、寒い時期が終わるのだろう。


「猫さん、さっき。猫になった?」


 身長の低い私に目線を合わせるため、わざわざ身を屈ませて魚さんがこちらを覗き込んでくる。


「なってにゃい」


 何かを欲しがる口が、吐き出す白い息みたいに輪郭を失っていく。


 このままどんどんと、私の言葉が人間からかけ離れていってしまうような気がしてならなかった。

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