第19話 ゼリーみたいに柔らかかったのだ

 駅に着いてから三十分ほど経つと雪が降り始めて、私は髪が濡れるのを嫌って駅の中へと避難した。


 駅の中はビックリするくらい温かくて、コートがなくてちょうどいいくらいだった。南口の入り口付近にたい焼きを売っている売店があって、その真ん前に設置されたベンチに座って時間を潰す。


 目の前を過ぎていく人たちを眺めながら、親子かな、カップルかなと関係性を想像する。中には友達同士で来ている子もいた。ぴったりくっついて、すごく仲が良さそうだ。もしかしたら姉妹だったかもしれない。もしかしたら、もしかしたらと考えうる可能性を模索する。


 そんなことをしていたらあっという間に時間が過ぎていた。


 時計を見て、ベンチを立つ。もうじき魚さんとの約束の時間だ。


 雪は本降りになっていて、綿みたいな結晶が絶え間なく鼻先とまつげを掠める。



 七時になっても、魚さんは待ち合わせ場所には現れなかった。


 近くで、楽しそうな人の声が聞こえる。この時間帯に待ち合わせをする人が多いのか、落ちてきた水滴同士が重なるように、いくつもの人が出会い、同じ目的地を目指して歩き始める。


 そんな中で私一人だけが、冷たくなった手のひらを自分の息で温めながら立ち尽くしている。他の人から見たら、約束をすっぽかされた哀れな女に見えるのかもしれない。


 私はあえて、深刻そうな顔はしなかった。一人でいることが当たり前であるかのような顔をする。


 そもそも、魚さんは事前に行けないかもと釘を刺していた。行けたら行く。そういう断るときの常套句にも気付かずに私はバカみたいに一人はしゃいでいたのだ。


 だから来ない魚さんを恨むよりは、自分をこけにしたほうが理にかなっている。


 滑稽で無責任な行動によって生まれる自己中心的な後悔に鼻を鳴らす。寒い。


 どうせ会えないなら、コート着てくればよかった。どれだけ窮屈で、時代遅れなデザインのコートでも、見られなければどうってことはない。


 クリスマスの夜に、他人の服を気にしている人なんか一人もいない。みんな、自分の隣にいる、自分が選んだ人のことしか見えていないのだから。


 それに対して、一人でいる私の視野はひどく広かった。


 そして、ついに八時になってしまった。


 一時間前と比べて道を歩く人は少なく、逆に立ち並ぶ店の中が騒がしくなりはじめた。 一時間、案外短かったな。


 もう雪で髪が濡れてしまって、せっかく巻いた毛先は私と同じく地面を向いている。ヘアピンも煩わしくなり、外してポケットにねじこもうとした。けれど、今日着てきた服にはポケットが付いていないんだった。


 どうしてオシャレな服って、ポケットがないんだろう。ポケットのフリをしたワンポイントの装飾はあるのに。


 家族もそろそろ外食から帰ってきた頃か。きっと私のことなんか忘れて外食を楽しんできたことだろう。クリスマスはそういう日だ。不幸よりも幸せに焦点を合わせ、喜びを分かち合う。地面を転がる石ころに目を向けることなんてない。


 結局、私は二時間も待ち続けた。さすがに寒くなって駅の中に避難したけど、びしょ濡れの私を怪訝に見るような人はいなかった。私はクリスマスというこの日に、存在すらしていないのだろう。


 これまで通りに生きていればよかった。


 自分のことだけ考えてのらりくらりと生きて、磁石みたいにひっついてくる奴らの仲間のフリをして相槌と愛想笑いを駆使して輪に溶け込む。そうやって生きていればこんなぼろ雑巾になることはなかったのに。


 まったく、どうしてこんなことになるんだか。


 私が落ちるんじゃなくてそっちが落ちてこい。そう思ったときにはすでに、私の頭上から鯛が降ってきていた。


 うわっ、なんだ。


 私の額に、温かい鯛が押しつけられている。どういう状況だこれ。


 鯛がぺらっと落ちそうになって、慌てて手を伸ばすと、ほかほかのたい焼きが私の手のひらに乗った。


「これそこで買ったんだ、カスタードでよかったよね?」

「よくないよ。普通あんこでしょ」


 目の前に、魚さんがいた。魚さん、魚さん、魚さんだ。魚さんがたい焼きを食べている。 前会ったときはしていなかったマフラーを巻いている。リップは、付けていないのかもう取れたのか、今日の魚さんの唇は乾いた絵の具のような色をしている。


 魚さんの情報を少しでも集めようと私の脳みそは必死だった。


「遅れたお詫び。待ち合わせ場所に行っても猫さんいなかったから、ビックリした」

「よくここが分かったね」

「猫さん寒いの苦手そうだから」


 魚さんがたい焼きを咥えながら、私の隣に来て壁に背をもたげた。


「時間大丈夫なの?」


 本当は、もっといろいろ言いたいことがあったはずだった。せめてスマホに連絡しろ! とか、なんで遅れたのかを説明しろ! とか。


 それなのに、まるで今の状況を必死に維持しようとしているみたいに、一つ飛ばしの質問ができない。


 魚さんは紺色のコートの袖を引っ張りながら、体を震わせている。


「お母さんとお父さんラブラブだからわたしを置いて遊びに行っちゃった。だからわたしも自由」

「途中で帰ったりしない?」


 そう聞くと、魚さんはまん丸な目で私を見つめたあと、こっくりと頷いた。


「しないよ」


 ようやく喉の開きがよくなり、たい焼きが喉を通る。中のカスタードは、美味しいけど、やっぱりあんこがよかった。人工的な甘みを強制的に押しつけられているようで気に食わない。


「猫さんイルミネーション見に行きたいんじゃなかった?」


 互いにたい焼きを食べ終わると、魚さんが先に口火を切った。私は無言で頷く。こっくり、寝落ちするときみたいな挙動になってしまった。


「進行~」

「出発~」


 魚さんにならい、私も手を挙げる。逆な気もしたけど、些細な問題だった。


 外はやはり雪が降っている。せめて傘でも買えばよかった。そうだ、傘を買えばよかったじゃないか。


 どうしてその考えに至らなかったのか、自分でも分からなかった。道行く人を見て、意地になっていたのかもしれない。


 待ち合わせ場所を通り過ぎ、その先を魚さんと歩く。微かに積もり始めた雪に、二人分の足跡が残る。


 イルミネーションは大きな二本のヒマラヤ杉に取り付けられている。昔から有名なデートスポットだけど、カップル問わず、冬になるとこのヒマラヤ杉を見に来る人は多い。


 立ち止まって、二人でその大きな光を見上げる。星が私たちの目の前まで落ちてきたみたいだ。赤と青、黄色にオレンジ。色んな光が、灰色の空を背景にひっそりと輝く。


「転校、しないんだよね?」


 隣にいる魚さんに聞いた。視界の端で、魚さんが空を見上げているのが見える。


「しないよ」

「それってさ、本当なの? 確定なの? あとでどんでん返しとかない?」

「本当はお父さんのお仕事の関係で引っ越す予定だったんだけど、わたしが行きたくないって粘ったらお父さんだけが単身赴任することになって、わたしとお母さんは今のアパートにそのままいることになったんだよ。だからお父さんが急にホームシックにならない限り大丈夫」


 魚さんが喋るたび、白い息が舞う。それを見ながら「そっか」と相槌を打つ。


「寂しくならないようにって、今日はお母さんと思う存分遊んで回るみたい。ラブラブなんだぁ、わたしのお父さんとお母さん」

「でも、いいの? 魚さんは。ここ、田舎だし、引っ越したほうがいいところ住めるかもよ」


 海があるだけで、ほかには無いものの方が多い。都会には遊ぶ施設だってたくさんあるだろうし、魚さんの探している青春だって、そこらじゅうに転がっているはずだ。


 私は、自分で思うほどさっぱりした性格ではないのかもしれない。これはきっと、ただ事実確認をしたいだけだ。魚さんに引っ越してほしいなんて、私は思っていない。


 ここにいたいって、言って欲しいだけなんだ、きっと。


 魚さんは小さく頷いて、体をぐいーっと横に傾けた。


「また犬に会いたいからー」


 ガクッと、その場で崩れてしまいそうだった。


 ぶにゃーっと鳴くあの猫に会いたいがために、引っ越しを断ったというのかこの女は。


 魚さんはマフラーを解いて、海賊がフックを投げるみたいに、私に飛ばしてきた。


 顔面に魚さんのマフラーが直撃する。


「猫さん、寒くない?」

「寒い」

「どぅわっはっはっは」

「なにそれ」

「笑うと寒さが飛ぶ」

「遭難したときだけでいいよそういう根性論は」


 せっかく文明の利器があるのに、なんでここで人類の限界を試さなきゃならないんだ。


 魚さんからもらったマフラーを首に巻くと、ほんのり温かい。顔を埋めると、さっきまでの三時間が、雪みたいに消えていく。


「ここも寒い」


 私は、赤くなった手のひらを差し出した。


 すると魚さんは、両手で私の手を握りしめる。


「選挙頑張ってください」


 ふざけ倒す魚さんに対するいろいろなツッコミが、思いつかなかった。


「あれ」


 逃げていく魚さんの手を、私は握り返していた。


「あのさ、魚さん」


 真正面から見る魚さんの顔は、いつもと変わらない。ぬべーっとした無表情。そのくせ顔はバカみたいに整っているから、美術館で芸術品を覗き込んでいるような気分になる。


 足元がぐらつく。しかし地面は雪に覆われている。ピラニアはいない。


 花火を束にして握るみたいに、魚さんの手を掴んで離さない。


 普通にやるよりも時間が短くなるかもしれない。けれど、その分。大きな火の玉が、電球みたいにぷくっと膨らんで落ちていくはずだった。


「これからも一緒にいようよ」


 セミの抜け殻だって、探そうとしないから見つからなかっただけで。鉛みたいな脚を動かして走ったらすぐに見つかった。


「うん、いるけど」

「青春もいっぱいしようよ」

「うん、しるけど」


 しるってなんだ。


「青春、しよう」


 さすがに手を握る力が強かったのか、魚さんが不思議そうに私を見つめる。果汁百パーセントの変な女にこんな風に見られるなんて、これほどまでの屈辱はないだろう。


「ええで」


 今日は関西弁の日なのか、魚さんが間も置かずに快諾する。


「青春って、恋らしいよ」

「えー!」


 魚さんが驚きの声をあげる。


「だから、そういうことだよ」


 三時間も待たされていなかったらこんな台詞はでていなかったかもしれない。


 けど、私は三時間も待った。待ってしまえたのだ。それがどういうことなのか、考えなくたって分かる。


「魚さん」


 私が食べたいのは鯉でも鯛でもないし、ましてやたい焼きのカスタード味でもない。


 魚さんの肩に手を置いて、つま先を立てる。


 乾いた赤の絵の具は、あの日食べたゼリーみたいに柔らかかった。

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