第18話 クリスマスなのだ

「ちょっと猫、聞いてんの?」


 ぼーっとカレンダーを眺めていると、だんだんとそれが網で捕らえた魚に見えてくる。編み目の中で、うにょうにょと動く黒い魚のなかに、赤い魚も混じっていて、小学生の頃に読んだスイミーを思い出す。


「ダメだこりゃ、重症だわ」


 母の影がすーっと薄くなっていくのが見えた。


 自分の口に何かが突っ込まれているのに気付いて手をやると、私はたまこんにゃくを咥えていた。田楽味噌は付けるなと昔から言っているのに、母はどうしてあんな渋いものを食べさせたがるのだろう。


 もっきゅもっきゅと、微妙な食感のこんにゃくを食べる。唇に田楽味噌が付いて、舐め取るのが億劫で、また私は網を眺めた。


「ご飯食べに行くんだから、ちゃんと準備しててよ」


 母がトートバックを投げつけてくる。その衝撃でようやく意識がハッとする。


「最近ずっと意識ここにあらずで、どうしたの、本当」


 心配そうに私を見る母。あんな母の顔を見るのは、私が鰹節をサツマイモだと間違えてかぶりついていたとき以来だ。


 今の私の顔は、鰹節をサツマイモと間違えてかぶりつくのと同等のものなのか。それは、相当だな。


 私はソファで正座していたようだった。遅れて脚が痺れてくる。


 母が掃除機の頭で私のつま先を突く。


 ツーンとして、私は錆びたヴァイオリンみたいな悲鳴をあげて二階へと逃げた。


 今日はクリスマス。夜は家族と予約していたイタリア料理店に行く用事がある。そう、用事だ。私は本当はイタリア料理よりは醤油をたっぷりかけて揚げた鶏の唐揚げが食べたい。


「ずあーく」


 自分でも意味の分からない言葉で唸って、ベッドからずり落ちる。最近私は、ずり落ちるのにハマっている。脱力した体に擦れるシーツの感触が心地良い。


 反転した世界に、自分の髪が垂れてくるのが見ていて飽きない。暇を潰す子供みたいなことをしている。本当はまったく、暇なんかじゃないのに。


 魚さんと雪だるまを作ったあの日から、どうにもそわそわして仕方がない。


 冬休みに入った今も、こうして自分の部屋で奇行を繰り返している。


 魚さんと最後に話したのは終業式の放課後。今度は雪合戦しようとか、かまくらを作ろうとかそんな話をした。私が急に帰ったことを謝ると、あのあとも三時間ほど同じ場所で雪だるまを作っていたのだという話を聞かされて、じゃあいいかと謝り損だった。


 魚さんはあの日のことをさっぱり気にしていないようだったけど、私にとってはあの日突然飛び出した爆弾発言の処理に大変困っている真っ只中なのだ。


 転校の話がなくなったって、本当? なんで? どういう経緯で? それは確かなの? 核心に迫ることを問いただすのが怖くて、私はその話題を自分から出そうとは思わなかった。


 魚さんと顔を合わせたのはそれが最後だった。


 今頃魚さんは何をしているだろうか。まさか、急に話が変わって、今すぐにでも引っ越したりしていないだろうか。


 冬休みという長期休暇を機に、魚さんという存在が消えていってしまいそうな気がしてならなかった。


 私は魚さんのことをあまり知らない。表向きの魚さんばかりを知ってしまって、内面、素性、そういったものは知ろうとも思わなかった。


 けど、人は知らないと不安を覚える。


 自分の落ち着きのなさに答え合わせをされたようで、嫌だった。


 ベッドからずり落ちたまま、スマホを手に取る。画面をタップして、耳に当てた。


 コール音が三回、四回。どんどん私から離れていく、魚さんの気配。


 魚さんって、休みの日は何してるんだろう。他校の生徒とデートでもしていたらどうしよう。まさかね。


 全然応答がないので、電話を切ろうとしたとき、画面に魚さんのアイコンが表示される。団子の皮だけを剥ぎ取って剥製みたいにした、意味不明のアイコンだ。


 そのアイコンの下に『通話時間 00:00』という文字が表示される。離れていったものが、またスタート地点に戻ってきたような感覚に、すぐさまスマホを耳に当てる。


『はぁ、はぁ、猫、さん』


 ぎょっとした。


 なんでこんな息が荒いんだ。


 耳元で聞こえる魚さんの息づかいに、姿勢を正してから返事をする。


「なんか、久しぶり」

『二日ぶりだね』


 私の記憶では最後に会ったのは一週間前なんだけど。


「今なにしてるの?」

『お父さんとキャッチボールしてた』

「へー」


 子供みたいだ。でも、妙にズレた魚さんの休日の過ごし方が私の心に馴染んでくる。


「そっか、じゃあ今はタイミング悪かったね。たいした用事じゃないから、あんまり気にしないで」


 電話越しだと、自分が自分を俯瞰したような感覚に陥る。こんな気遣いをする間柄でもないのに、何を恐れているのだろうか。


『お父さんさっきお母さんのこと連れておみやげ買いに行ったから、大丈夫だよ』

「魚さんは行かないんかい」

『行かないんやで』


 そうなんか。ほーん。


 頭の中で、私がいつものように相槌を打つ。


『それでどうしたの? 猫さんから電話なんて珍しいね』

「あのさ。今日ってクリスマスじゃん?」

『せやね』


 なんでさっきから関西弁みたいになってるんだ。


 私はベッドの上で正座をして、また自分から脚を麻痺させにかかる。というより、麻痺させておかないと、色々と、耐えられなさそうなのだ。


 脚のつま先をギュッと丸めるとジーンとした痛みが走って、思わず顔を歪ませる。


「一緒に、イルミネーション見に行かない?」


 ジクジクと、脚が痛む。これでもまだ、マシな方だろう。麻痺していない状態でこんなことを言ったら、きっと私はあまりの痛みに泣いてしまう。


 返答に、十秒くらいの間があった。最初の五秒で「やっぱいいや」とか言えたらよかったのだけど、タイミングを逃してしまって、私はズルズルと引きずられるように魚さんの答えを無言で待つしかなかった。 


『わたしこれからお母さんとお父さんと一緒にご飯食べに行くんだ』

「そうなんだ。そっか」


 それは、私も同じである。


「なに食べるの?」


 逃げるように、話題を変える。


『うーんとね、寿司』


 魚さんが寿司。なんか、面白いな。それでツナサラダとかばっかり食べていたらもっと面白い。面白いだろうな。


 もう何も言わずに電話を切ってしまおうか。そう思ったとき、魚さんの唇が開く音が、耳を押し当てたスマホの向こうからかすかに聞こえてきた。


『七時になったら、一時間くらい暇になるからその間なら見に行けるかも』

「駅前なんだけど、これそう?」

『ちょうどその辺だから大丈夫』

「じゃあ、よろしく。どうしてもってわけじゃないから、無理そうなら無理でいいから」

『うん。七時ぴったりに降ろしてもらえるわけじゃないから、もしかしたら時間なくて行けないかも』

「そしたらまた来年だ」

『だね』


 それじゃあ、と続けようとしたら、あっちからすでに通話を切られていた。普段ならあんにゃろうと腹を立たせるのかもしれないけど、今の私は腹どころか、体全体で立っていた。


 急いでクローゼットを開けて服を取り出す。コートは、今日は着ていかないことにしよう。それ前提のコーディネート。ハイネックのニットがあるからそれを着て、緩めのタイトスカートを合わせる。黒に朱色のドット柄が混じった奴。気合いを入れて買ったから、どこの店で買ったかまで覚えている。本来七千円のものが四千円まで値下げされていたのが決め手になったのも、ちゃんと覚えている。


 記憶を着る。決意を穿く。そうしてできあがった私に満足して、さっそく洗面所へと向かう。


「お母さん! 今日やっぱり私いかないからー!」


 洗面所からリビングに向けて叫ぶと、一秒も待たずに母の鬼みたいな顔が鏡に映った。怖すぎる。


 母は鏡越しに私の格好を舐めるように見て「ふん」と鼻を鳴らすとリビングへと戻っていった。許してくれたのだろうか。


「もったいないねぇ、あーもったいない」


 普通に厭味を言われた。


 まあ、気にしたってしょうがない。イタリアンでトレビアンする母の隣でこじんまりとしたシーフードピザを食べる夜はまた来年だっていいのだ。


 私は髪を濡らすため、一度服を脱いでシャワーを浴びた。一応、シャンプーとリンスを付けて、あと体も洗った。母の使っている高そうなボディソープを使ったら、アーモンドのいい香りが体に付着した。


 ドライヤーの風を一番弱くして、髪を持ち上げながらゆっくりと乾かす。やや水気を残した状態で、毛先をヘアアイロンにかける。


 横の髪だけ巻いて、くせっ毛みたいになっている前髪は銀のヘアピンで止めた。化粧水を塗って、ファンデを塗る。棚を開けるとアイシャドウとマスカラが出てきたけど、失敗して変になるのが怖くて手に取れなかった。


 赤のチークを入れて、リップを塗り込む。シャワーを浴びて血色のよくなった顔が、更に躍動するようだった。


 家を出る際、履く靴に迷ったけど、黒のブーツにした。スノーブーツじゃないからちょっと心配だけど。


 外に出ると、空は晴れていた。地面を覆い尽くしていた雪も溶け、このブーツでも心配なさそうだった。


 最寄りの駅まで歩いて行って、待ち合わせをした駅まで電車で向かう。


 人はそこまで多くなかったけど、目に入る人たちはみんなオシャレな格好をしていた。私は、きちんとクリスマスにふさわしい格好をできているだろうか。


 駅に着く。ロータリー近くに設置された時計は五時を差している。


 すでに空は暗くなり始めていて、イルミネーションも微かに光っている。


 私はベンチに腰掛けて、白い息を吐いた。


 魚さんは今ごろ、家族とどこかへ出かけて、休日を楽しんでいることだろう。


 その合間に魚さんは私に会いにきて、ついでみたいに、私とこのイルミネーションを見る。


 それに対して私は、家族と行く外食の予定も蹴って、わざわざ電車でこんなところまで一人で着て、二時間前から待ち合わせ場所で待っている。


 こっちばっかり必死で、帯びる熱量に、差がある気がしてならなかった。


 それなのに、無造作に放り出した両足はブランコのように宙で揺れている。ため息をつきながら、風でズレた前髪を何度も指で直す。


 こういうアンバランスで稚拙な感情の名前を、私はとっくに知っている気がした。


「待ち合わせの時間までに、カップ麺が四十個もできるな」


 しょうもない計算に頭を働かせて、時間を削る。


 もし今日カップ麺を食べることがあっても、シーフード以外のものにしようと思った。

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