第15話 青春とは恋なのだ

 バカな一部の男子以外、みんなもう冬用の体操着を着ている。学校指定の赤いジャージは、首元にファスアーが付いていて、半分で止めると恋人募集中とかそんなよくわからない風潮がひっそりとあるなかで、私は一番上までしっかりと閉めていた。


 グラウンドを走っていると、冷たい風が顔に当たる。外は寒いけれど、運動するとちょっぴり汗をかく。


 そもそもランニングという行為が私はあまり好きじゃない。疲れるのはもちろんなのだけど、なんていうか、ランニングしてる最中って虚無に近いものがある。風を受けて心地良いと感じることができるほど私は野生児ではないし、せっせと走っている間は、ずっと自分との戦いばかりで、要するに暇なのだ。


 暇なのに、横になってくつろぐことのできないこの時間は、鬱屈で退屈な夏ごろの生活によく似ている。


「猫ちゃんって走るの速いよね〜、すご〜い」


 追い抜いた覚えのある磁石がペースをあげて私の後ろに付いてきていた。他にもおなじみの磁石たちが例のごとくくっついている。


「猫ってマジメに走るタイプだったっけ?」

「そういえば、そうだね。でも一生懸命走ってる猫ちゃんもカッコいいよ~」


 額に汗を浮かべたタンバリン女も首元までファスナーをあげて走っている。


「なんか猫、変わったよね」


 磁石の一人がぼそっと呟く。走っている最中なのに、よくもそうペラペラと喋ることができるな、と思った。


「優等生になった?」

「最近授業中も寝てないもんね。マイペースなのは変わってないけど、うーん。なんていうか」

「楽しそう!」

「それだぁ」


 私の背後で、勝手に私の品評会が始まる。


「猫、さてはいいことあったな?」


 背後にいた磁石たちが横に並んで私を挟むようにする。


 いいことなんか、あったか? 悪いことも起きないかわりに、私の日々に幸せほっこりな出来事は入り交じってはいない。久々に家に来た親戚のおばさんからお小遣いを貰ったくらいだ、いいことなんて。


 いいことってあれか、得したかどうか、みたいな。そういうもので判断されているのかもしれない。


 そういうことなら、一つだけ、日々に彩りは加わったか。


「青春を探してるんだよね」

「猫が変なことを言い始めたぞ」


 磁石が訝しげな顔をする。


「青春って持ってる?」


 私が聞くと、磁石たちは一斉に首を横に振る。


「猫ちゃんは青春をまだ手に入れてはないの?」

「たぶんそうだと思う。ていうか青春ってなに?」

「えー、なんだろう。わかんないけど、みんなで考えてみる?」


 輪になって、手を繋いで、まるで砂鉄が、磁力に飲み込まれていくように、同調した力が、私の隣で生まれる。


 青春ってなんだろうねー、みたいなゆるやかな談笑をもって繋がりをつくっていく。人間自体が、鉱脈の一つになっていくようで、それを掘り起こすには、欠け落ちてしまってもいいくらいの固いかぎ爪が必要だろう。


 走る速度があがる。


 自分と戦うことを選んでしまえるくらいに、退屈な風が押し寄せてくる。


「恋とか?」


 後ろの方で、吹き抜けるような声が聞こえた。


「うわっ、猫、なんだよ。いきなり立ち止まって」


 息を切らしたまま振り返る。タンバリン女が、驚いてビクッとした。


 私も慌てて身構える。腰を落として、頭上を見上げた。


「なにしてんの、それ」

「落ちてくるかなって」


 いつだっただろう。


 魚さんと出会う前、私はすでに、それに落ちるのではなく、落ちてこいと願っていたはずだった。


 それが青春だというのなら、私は魚さんに出会う前から、それを求めていたということじゃないか。


 灰色一色の空から、白い粒がゆっくりと降ってくる。


「見て! 雪だ!」


 みんなが指を差して、私と同じように空を見上げる。


 渦を巻くように集まる視線から逃げるように、私は空と別れた。


 ふと、グラウンドの反対側を見ると、そこには私と同じように立ち止まって、こちらを見る魚さんの姿があった。


 雪を見ろ雪を。


 アイコンタクトで伝えると、魚さんは何を思ったのか白目を剥き始めた。


 逆らい、移ろい、逃げるように、指の間をするりと抜けていく、ウナギみたいな女を見ていると、どうしてこんなに飽きないのだろう。



 放課後、私は魚さんを誘って一緒に下校していた。ここまで毎日下校しているのだから誘う必要はないんじゃないかと思うのだけど、魚さんは私が声をかけないと、ホームルームが終わるなり一人でフラフラとどこかへ行ってしまうのだ。


「体育のときなんで白目剥いてたの?」

「だって猫さんが、どっちが気絶寸前の演技が上手いかの勝負しよう。もちろん勝つのは私だがなってアイコンタクトで伝えてきたから」

「なんで私そんな自身満々なの」

「わたしに聞かれても困る」


 じゃあ誰に聞けばいいんだ。


「猫さんこそ、何話してたの?」

「何って、何」

「さよさよと、クマさんと話してた」


 なんだそれ。そよ風と、クマ? 動物? 熊本県? クマさんなんて言い方だから、動物のほうか。それとも、まさか人か?


「クマさん、猫さんににじり寄られて怯えてた」


 もしかして、タンバリン女のことだろうか。


「あれは私が絡んだんじゃなくてあっちが話しかけてきたの」

「チンピラはみんなそう言うんだって」


 魚さんは口を尖らせて眉間に皺を寄せる。まさか私の真似じゃないだろうな。


「恋なんじゃないかって、話されたんだよ」


 信号のない横断歩道を渡る。


 白線の外にはピラニアが私を食べようと涎を垂らして待っているから、落ちないように、白線の上を弾むように歩く。


 進むたび、肩に乗った雪が風に揺られている。初雪だけど、どうせ積もることもない。冬はスタートダッシュが苦手なのだ。いつも最初は不発に終わって、忘れた頃に積もり出す。


 それでも誰も文句を言わないのは、降り積もったその瞬間の光景が何よりも幻想的で美しいからだろう。


 振り返ると、遅れて魚さんがやってくる。頭の上に、雪が砂糖のように乗っている。溶け込んでいくように、魚さんの黒い髪の上で消えていく。


「青春って、もしかしたら恋なのかもって」

「なるほど」


 魚さんは顎に手を当てて納得するような仕草を見せた。


「なるほどねえ」


 じゃあ、する? とか。


 じゃあ、どうすれば恋ってできるの? とか。


 そういう実を結ぶような会話には発展しなかった。


 地面に落ちていた泥の塊を魚さんが蹴ったらそれが分裂して、それが犬のフンだってわかって、二人で笑ったせいもあって、恋に関してはあまり深掘りはできなかった。


「って、魚さん」

「なに? 猫さん」


 今、笑ってなかった?


 そう言おうとしたんだけど、面と向かった魚さんの顔がさっきまで笑っていたような人間の表情じゃなかったから、途中で口ごもってしまう。


 それに、初めて見た魚さんの笑顔の発端が、犬のフンだというのもなんだか納得できない。


 けど、なんだ。これじゃあまるで、魚さんを

笑わせてあげるのは私だ、と言っているみたいだ。


 そんな独占欲私利私欲支配欲に塗れた人間だっただろうか、私は。シンデレラだった頃の私とは、似て非なるものだ。


「靴、帰ったら洗いなよ」

「雪が積もってたらここで洗えるのにね」

「確かに」


 想像して、思ったよりも汚くて、私は笑った。


 魚さんは歩いてるとき、暇さえあれば地面に落ちているものを蹴るから、もしかしたらいつかそんな場面にご対面できるかもしれない。


 魚さんの新しい仕草。新しい行動。新しい表情。そのどれもがこれから開拓されているのかと思うと明日が待ち遠しい。


 けど。


 そういえば来年の春に、魚さんは転校してしまうのか。


 どうせ別れることが分かっているのに、魚さんとの思い出を作ってどうなるというのだろう。


 想像した瞬間、今こうして魚さんといる時間が空虚に思えてきてしまう。


「猫さん? どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 呼ばれて、私は走る。


 冬のようにスタートダッシュをつまずいて、横断歩道の白線から飛び出した。黒い地面を踏むと、無数のピラニアが私を食い尽くしていく。


 骨だけになった私は、軽い足取りのまま、軽口を叩いて、軽い趣のまま、軽い音を鳴らしながら走る。


 ただひたすら目的地もないまま走る、体育の授業のようなそんな日々が、いつかまたやってくる。少なくとも、近いうちには。


 その事実に気付くと、途端に怖くなった。


「魚さん、このあと暇?」

「トレジャーハンターの採用試験があるから暇じゃないよ」

「どっか行かない?」

「どっかって」

「どっかは、どっか。ほら、服見て回ったり」


 前一緒に見に行ったばっかりか。


 しまった、と思ったのもつかの間。魚さんはその長い髪をなびかせながら、じっと私を見る。


「いいよ」


 その返事が聞けて、私は再び受肉する。


 重い足取りがピラニアを蹴散らして、たくさんのものが詰まった重い音を鳴らして、私は歩き始める。

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