第13話 魚さんのことばっかり考えてるんだって

 夏から秋になるときは、秋になる準備なんてしないのに。秋になるとこぞって冬の支度を始める。


 我が家のカーペットも木目の物からウール素材の温かい物に変わっている。じきにこたつも出すのだろう。


 半袖の服をクローゼットにしまって、長袖のシャツとか上着を引っ張り出すと時間が動き出す埃っぽいにおいがする。二年前に買ったムートンコートは、なんだか小さくなった気がする。なにかが原因でしぼんでしまったのか、私の身長が伸びたのか。それとも、昔の私はこういうキツめのコートがオシャレだと思っていたのか。


 新しいの買いたいなぁって母にお願いすると、セールになるまで待ちなさいと言われた。流行の最先端を歩く気はないけれど、最後尾あたりをちょこちょこ追いかけるくらいはさせてくれるらしい。


 そういえば魚さんは一体どういう服を着るんだろう。初めて見た魚さんの私服は確か海に行ったとき。麦わら帽子に、水色のワンピースを着ていた。


 案外黒で固めたコーデでも合うのかもしれないな、なんて頭の中で着せ替えたりしてみる。次に会うときが楽しみだった。


 文化祭も終わり、あとは冬休みを待つだけとなった高校一年生の私たちの日常は、空に浮かぶ太陽のように、落ち着きを取り戻しつつあった。


 冬に備えて忙しくなるのは外をせっせと走る小動物だけで、私たちはカエルみたいに動きを遅くしていく。


 制服の下に着るカーディガンをにょきっと袖まで伸ばす。紺色のブレザーに、黄土色のカーディガン。この組み合わせが私は好きだった。なんだか、自分がマカロンになったような気分で、甘く、脆い空気が私を包む。そういったこともあって、動きが鈍くなるのかもしれない。


 夏の怠さで鈍くなるのとは違って、秋の鈍さは心地がいい。


 校舎を取り囲む木々は葉っぱを失って随分と寒そうだ。その代わり、カラカラ、と枯れ木の擦れる乾いた音が時折聞こえるようになった。どの季節にも、特有の音があるようだ。


 昔の人はこういう風景を眺めて生きてきたのか。何か、雅なことが頭に浮かびそうになったけど、手元のスマホを見たら頭から消えてしまった。


 磁石たちが動画を投稿した通知だった。季節に限らず、ポケットからはいつも同じ音が鳴る。不変と変化、私はどちらかというと不変が好きだけど、変わっていく自分と日々に足取りが軽くなっていくのも自覚している。


 魚さんと出会ってから、私の日々は変な方向に捻じ曲がってしまった。


 文化祭だって、磁石たちと一緒に回って。焼きそばでも食べて、体育館のバンド演奏を見に行って、写真を撮って思い出を形にしていたはずなのに。


 私の文化祭の思い出は、魚さんで埋まってしまっていた。


 初めて見た、魚さんの優しさ。初めて聞いた、魚さんの声。初めて知った、魚さんの表情。


 魚さん魚さん魚さん。食卓に焼き魚が並ぶたびに、彼女のことを思い出す。


「あ、猫ちゃん!」


 自動販売機で買ったホットココアをちびちび飲んでいると、向こうの廊下から磁石が一人小走りでこちらに向かってくる。


「どうしたの? 火傷?」

「うん。自動販売機のココアって熱すぎるよね」

「大丈夫ー? 保健室に行く?」

「いや、そこまでじゃないんだけど」


 この磁石は、疑うことを知らないというよりは、本当か嘘かなんて関係なく、人の役に立とうとしている。そんな気がした。


「あのね、猫ちゃんって遊園地とか行く?」

「暇な休日に選択肢に出ないくらいには、そもそも関心がないかも」

「そ、そっか」


 磁石はしょぼんと視線を落とす。


「でも行きたくないわけじゃなくて」


 なんて言えばいいんだろう。そもそも遊園地とか行く? って質問が悪いんじゃないか。 磁石は私の言葉からどう意味を汲み取ったのか、少し笑って、手に持っていた二枚の券を差し出してきた。


「これ、遊園地のチケットなの。文化祭で、店番変わってくれたでしょ? あれ、すごく助かったから、だからお礼。よかったら受け取ってくれる?」

「気にしなくていいのに」


 文化祭が終わってから、磁石はすぐ私たちの元へと走ってきてぺこぺこと頭を下げた。そんなに文化祭を楽しみにしてたとは思っていなかったので驚いたけど、魚さんと過ごした時間も悪いものではなかったので、別に貧乏くじを引かされたとは思っていない。


 磁石は、磁石たちとくっついて文化祭を回っていたようだった。それがそんなにも、嬉しいことだったのか。やっぱり同じ極同士、惹かれ合うのだろうか。


「魚さんを探してたんだけど見つからなかったから、猫ちゃんに渡すね。期限は来月までだから早めにね。魚さんと一緒に楽しんできてほしいな」

「ご丁寧にどうも」


 遊園地のチケット。こんなものどこで売ってるんだろう。遊園地なんて、幼稚園のときに一回行ったきりだ。遊んだアトラクションも、食べた物も、さっぱり覚えていない。なんかブドウ狩りみたいなことをした記憶はあるけど、遊園地にそんなことできる場所あるのか? 記憶が曖昧だ。


「猫ちゃんはぜったい遊園地とか似合うよ。遊んでて楽しいんだろうなーっていうのがこっちまで伝わってくるっていうかぁ」


 磁石がタンバリン女に変貌する。手は常に胸の前に。拍手をする滑走路を常に用意して、拍手をし損ねたときは、顎に手を置いてお花が咲いたみたいに笑う。


 遊園地のチケットを、ブレザーのポケットに突っ込んで、私を褒め倒す磁石にお礼をお言う。


「ありがとう。おみやげ買ってくるね」


 磁石は当然、優しく笑う。


「それじゃあね、猫ちゃん」


 磁石の背中が、廊下を進んで小さくなっていく。


 衣替えをしたことにより、廊下の彩色が淡いものに変わる。黒が増え、まるで廊下が一つの洞窟のようにも感じる。


 あの磁石は一体、どこへ行くというのだろう。


 人を褒めて、人に優しくして、私たちは何を分かち合うのか。おみやげか? 磁石は、おみやげが欲しいばかりに、私を褒め、誰かを褒め、繋がりを得ているのだろうか。


 その洞窟が明るくなるまで、私はチケットを握りしめて、廊下で立ち尽くしていた。


 放課後、私は魚さんを探していた。


 ホームルームが終わった瞬間、魚さんはトビウオみたいにぴゅーっと教室を出て行ってしまったのだ。


 別にチケットを渡すなら明日でもよかったんだけど、どうしてか私は、その日のうちに魚さんにチケットを持っていて欲しかった。


 二枚のチケットは、自分の部屋まで持ち帰るのには少し重すぎる。


 校門を抜けると、街路樹の向こうに魚さんの背中が見えた。


 腰まで伸びた長い髪が、歩くたびに揺れている。そういえば、魚さんの背中を追いかけるのは久しぶりだ。


 魚さんといるときはいつも隣同士か、向き合っている状態だったことに、今になって気付く。魚さんはそんな状態で、私をどう見ていたんだろう。


 魚さん。魚さん魚さん。また。魚さんのことで頭が埋まっていく。


 曲がり角に入ってしまわないうちに追いつこう。


 魚さんの姿を見失わないように、私は走り出す。


 というか、下校くらい一緒にしてくれたっていいじゃないか。私のことくらい待ったらどうなんだ。


 憤りを感じながら、地面を蹴る。


 魚さんの背中が近づいてくる。


 なんとなく、走っているときの顔は見られたくないなって思った。


 気付くな、気付くな。そう念じながら走る。


 けれど、私の脚は地面に敷かれた枯れ葉を踏んでいく。


 カラカラと、秋の音が鳴る。


「あれ、猫さんだ」


 魚さんが振り返る。


 見られた。


「これ、遊園地のチケットなんだけど。二枚あるから、今度一緒に行かない?」


 差し出したチケットは、端っこがくしゃくしゃになっていた。


「うん、いいよ」


 心臓が鳴る。


 いきなり走ったからか、鼓動はかなり早い。


 そのまま私は魚さんの隣に着いて、歩き出す。


 枯れ木がつむじ風にさらわれて、家の塀にぶつかっている。目的地のない旅にこれから出るんだろうな。


 スーパーの駐車場に停まった屋台から焼き芋の香りがして、お腹空いたね、なんて話を魚さんとする。柵の上に止まった赤とんぼが、そんな私たちのことを見ている。


 秋は短い。緩やかなスタート地点と、冬への準備が必要なゴール地点のせいで、全体的な尺が短くなってしまっている。


 その僅かな時間の中で、楽しい時間を過ごそうと張り切るから、お腹が空くのかもしれない。


 財布を取り出すと、百円玉が二枚だけ入っていた。


「半分こする?」


 焼き芋の屋台を指さして提案する。


「わーい」


 魚さんが両手を挙げて喜ぶ。


 その指の先に、赤とんぼが止まった。


 魚さんは、そのことに気付いていない。


「行こうぜー」


 私も、気付かないフリをして、美味しそうな香りに向かって歩き出した。

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