第9話 猫さんやらしーって

 なんというか、魚さんが私の家に来たがるのはなんだかんだ他に理由があると勘ぐっていたのだけど、玄関で靴を脱いだ瞬間リビングに走って行って犬を撫で始めるのを見るに、本当に私の家の猫と触れ合うのが目的らしい。


 すでに帰っていた母が、そんな魚さんを微笑ましく見つめている。遠目からそれを見る私は、血の繋がった親子を恨めしそうに睨む偽物の家族のようだった。私と母、血、繋がっているよな? 


「本当、魚ちゃんは犬が好きなのね」


 あらあらうふふ、と、聞いたこともない口調で母が仮面を被っている。きもちわるっ。


「はいっ、猫、好きですっ」


 上ずったような声が跳ねる。私は自分のカバンを取り付け鏡の取っ手にぶら下げて、冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みする。


「あの子ったらあんな飲み方して、なんてはしたないんでしょう。魚ちゃんもそう思うでしょう?」

「そうですね、はいっ」


 魚さんはすでに母の下僕だ。母はこれまでずっとこうやって世の中を渡ってきたのだろう。上手くいく奴はいつだって嘘が上手い。


「魚さん、行くざますよ。お母様に挨拶なさって」


 私も口調をめちゃくちゃにしてみる。口調を変えるだけで、何でも言えるような気がした。仮面を被るのは、楽に自分を変えられる。それが、誰もが手を伸ばす理由なのだろう。


 魚さんは犬をパンの生地みたいにでろーんと持ち上げて母に頭を下げた。私と一緒に階段をあがる。


 廊下を渡って一番奥の部屋が私の世界だ。ドアを開けて、魚さんが入ってからきちんと閉める。ここには私のにおいがきちんとある。布団の香り、芳香剤の香り。窓際にかけた服の香り。そして少しの、枝豆のにおい。外来種だ。


 魚さんはなぜか、枝豆のにおいがする。いやもちろん、枝豆の香りがする香水を振りかけているわけじゃないだろうし、そんなものがあるのかは謎だ。それでも魚さんの服や髪からは、枝豆のような、緑色の、父が帰ってきたあとの夜みたいな、そんな香りがする。ビールのおつまみ少女だ。


「にゃーん」


 魚さんが猫の鳴き真似をして犬を抱っこしている。全然形のあっていないテトリスを積み上げたみたいだった。


「魚さん、もしかして緊張してた?」


 まさかな、と思いながら聞いてみる。


「うおわかんない」


 目をまん丸にしたまま答える。


 私の母と喋っているときの魚さんはどこか話し方もぎこちなく、意図的に返事をしているように見えた。そもそも魚さんが、誰かと友好的に喋っているところを私は見たことがない。


「魚さんって私以外に友達いるの?」


 地雷かもしれないけど聞いてみた。しばらくの間よろしくするのだ。隠し事悩み事、真実の話諸々、どんでん返し伏線回収みたいな、後半に怒濤の展開を持ってこられても私は困る。


「嬉しい」

「答えになってないが」

「へへー」


 何故か魚さんは嬉しそうにしていた。ぶにゃー、と犬も鳴く。私もそうかーい、となくなく鳴く。なくなく。こんにゃくが食べたくなってきた。口調が柔らかくなっていた母の考える献立も柔らかくなっていることを祈ろう。


「猫さんの部屋ってなんにもないね」

「あるじゃん。ベッドに、ペン立て」

「趣味とかないの?」

「昼寝かなー」

「ならいいっか」


 魚さんはそんな私のベッドの上でごろんと転がった。スカートのプリーツに思いっきりシワついてるけど、魚さんはアイロンとは無縁の人間なんだろう。


 私は着替えてしまおうとスカートに手を掛ける。けど、なんとなく私も制服のままでいようと思って近くのクッションに着陸した。


「魚さんは趣味とかあるの?」

「趣味じゃないけど、中学まではバレーボールやってた」

「へー」


 汗を流してボールを追いかけるような奴か? と思ったけど、魚さんは背も高いし、ユニフォームを着た姿はなかなか様になっているのかもしれないな、ともやもや想像する。


「将来の夢はバレーボール選手かトレジャーハンターだったんだけど、地区大会で負けたのをきっかけにバレーボール選手は諦めちゃった」

「二つ目の方もついでに諦めておいたほうがいいよ」

「何言ってるの猫さん、猫さんもこれからトレジャーハンターになるんだよ」


 勝手に未来を決められた。自分の人生を自分だけで決めるつもりはないけれど、どうせならもっとマトモな道に導いて欲しかった。


「青春は、宝物だにゃん」

「ぶにゃーお、ぐるぐる」


 犬も喉を撫でられて気持ちよさそうだ。魚さんの手に撫でられて白目を剥いている犬を見ながら、せいしゅーん、と口に出す。


「どこにあるかねー」

「青春漫画とか、あるじゃん。あれってどこからどこまでが青春なのかな。全巻全編全ページに至るまで余すことなく青春?」

「あー、どうなんだろう」


 魚さんがなかなか面白いところを突く。


「制服を着てワーキャーやってれば青春なんじゃない?」

「じゃあわたしたち、青春の権化だよ。そっか、青春って、わたしたち自身だったんだね」

「終わっちゃったじゃん」

「ぶにゃーん」


 今のどっちの声だ。


「青春には涙が付きものだと思います」

「お、ここにきて」

「制服を着て、涙を流せば青春です」

「なるほろ」


 楽しんだり泣いたり、青春って忙しいな。もう後付けで、これは青春です、とか言っても通りそうな気がしてきた。形のないものを追いかけていると、途方もなくてあくびがでる。いかん、眠い。


「ふわぁ~」

「あ、青春!」


 口を開けている私を指さして魚さんが叫ぶ。


「終わっちゃったじゃん」

「ぶみぃ」


 落胆した魚さんに腕に、犬が潰されていた。


「難しいのかなぁ」


 魚さんの弱気な声。ようやく効きだした冷房の風に打たれながら、私も考える。


 夏ってなんだろう、暑ければ夏? それとも七月八月になれば気温に限らず全て夏? 九月になったら、どれだけ蒸し暑くても秋というのか。曖昧すぎて、定義が広くて、そのくせ、誰もが当たり前のように使っている。


 私たちが追いかけているものは、そういうものなのかもしれない。


 私は立ち上がって、仰向けになる魚さんのお腹に乗った犬を撫でる。手の甲をひっかかれた。殺す。


「寂しいんだよ」

「そんなのあるもんか」


 猫なんて餌をくれて撫でてくれる存在ならなんでもいいのだ。この人だから、とかそういう忠誠心はこの動物には存在しない。こいつらはいつだって自分のことしか考えていない、自分さえ良ければそれでいい、自己中でマイペースな奴らなのだ。


「あ?」

「え、どうしたの猫さん」

「いや、なんでも」


 犬がじーっと私を睨んでいる。私が可愛いからってひがむなデブ猫。


「なんか、する?」

「なんか?」


 ベッドに腰掛けて、私から提案する。


「なんか、楽しいこと」

「うわ、猫さんやらしー」


 ベッドから降りて、私から提案する。


「楽しいことしようよ、なんでもいいから」

「あら、猫さんやる気」

「探そうって言ったの、私だし」


 面と向かって言うのは、ちょっと恥ずかしかった。頬をポリポリかいて、なんかかゆくて、うわ蚊に食われてる最悪って、カリカリかいて。


「へへー」


 魚さんは笑ってるような音を出した。へへーと言えば笑ってるってことですとアピールするみたいに、魚さんは鳴く。


 その意思表示はまるで、言葉の喋れない動物のようだった。

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