第8話 魚さんを家に呼んだって


 夏が終われば秋になるというのは当然のことだけど、私はいつのまにか、夏に八月という境界線を勝手に引いてしまっていたらしい。


 いきなり家にやってくる魚さんとか、魚さんを妙に気に入ってずっとしゃべり散らかしている母とか、私の机の上でひっくり返っているデブ猫とか、私の部屋でぐるぐる回って何をしているのか意味も分からない魚さんとか。そういう障害を乗り越えてようやく終わらせた夏休みの宿題をひっさげて学校に来てみれば、夏休みとなんら変わらない地獄のような暑さが私を待っていた。


 むしろ湿度のせいで八月よりもずっと暑い気がする。短い袖を限界までまくり上げて、二の腕を解放する。


 日焼けした腕をめちゃくちゃ磁石たちにイジられたけど(一人はカッコいい~って拍手しながら褒めてくれた)焦げたパンみたいに焼けた野球部の奴らがいたせいで私はすぐに霞んだ。


 暑苦しい始業式を終えて、ホームルームで文化祭というワードが飛び出てみんなで大はしゃぎしてから玄関へ向かうと、下駄箱のところに魚さんが立っていた。


 横切ると、とてとて、と軽い足音が後ろに続いた。


「文化祭だって」


 顔を見合わせる。


 魚さんはどこか楽しそうだった。


 最近、魚さんの感情が少しだけど分かるようになってきた気がする。魚さんは表情も動かないし声に抑揚もないけれど、体の動きは犬の尻尾のようにわかりやすい。今だって、頭を揺らしながら喋っている。文化祭でテンションでもあがったのか。


「魚さんはそういう行事とか頑張る派?」


 魚さんとは海に行って以来、夏休み中も何度か会っていた。だからこうして久しぶりに学校へ来て喋っても、あまり新鮮味はなかった。


「んー、青春にもよる」


 青春を求めすぎて、青春の使い方が微妙に間違っている気がする。


「文化祭を一生懸命やるのも、サボるのも、青春っぽくない?」

「猫さんはサボりそうだね」

「なにを」


 データでもあるのかデータでも。


 かけてない眼鏡をクイっとあげて、そういえば魚さんは眼鏡とか似合いそうだな、とモデルハウスみたいなまっさらな顔立ちに感心する。


 靴のかかとを潰して、魚さんが歩き始める。


「結局さ、青春ってなんなの」

「それを探してくれるんでしょう? 一生」

「魚さんが転校する来年までだよ、なんで添い遂げる覚悟なんだよ私」

「そんなこと言って、私が転校するの寂しいんでしょ」

「ふつー」


 人との関係なんて、途切れて生まれての繰り返しだ。あれだけ好きだったおじいちゃんとも簡単にお別れを済ませてしまえたのだから、級友なんて生まれて消えての繰り返しだろう。


 それに一喜一憂していたら、こっちの身が持たない。


 魚さんと駐輪場に向かい、私のカバンを魚さんの自転車のカゴに放り投げる。


 カラカラと、ペダルのチェーンが空回りする音を聞きながら魚さんと校門を出た。


 いつもは磁石たちと一緒に帰っている、というか、気付いたら巻き込まれているので、こうして誰かと二人で並んで帰るのは久しぶりだった。


「青春とは、アンバランスで稚拙な感情と滑稽で無責任な行動によって生まれる自己中心的な後悔の総称である」

「あ、なんだっけそれ」


 どっかで聞いたことがある。


「福沢諭吉の言葉だよ」

「あ、そうそうそれ。ん?」


 そうだったっけ?


「この言葉に青春のヒントが詰まってると思うんだ」


 そのニューバランスの靴で痴女が官能で骨董品な無責任ヒーローって良い曲だよね、みたいな、いかん。もう忘れてしまった。十文字以上の言葉は墾田永年私財法くらいの韻を踏んでくれないと覚えられないんだ。


「アンバランスで稚拙な感情ってなんだと思う? 猫さん」


 全然違ったわ。


「あーしようって言ってたのに、こーするとか? 稚拙って子供っぽい、みたいな意味でしょ? 子供ってよく決断鈍りがちだからそういう、あー」


 私に釣られて、魚さんまで口をあー、と開けている。


 二人で口の中を見せ合って、何してるんだろな。


「文化祭頑張るぞーって言ってたくせに、当日になってサボるとか? そういうこと?」


 頭の中にぼんやりとあったものを言葉にすると、なんか違うなーってなるのはなんでだろう。形にしないほうが美しいものも、この世にはあるのかもしれない。


「私は子供好きだけど」

「え、そうなの」

「見えない?」

「見える」

「じゃあ驚くな」


 信号で止まって、こんな小さい信号で止まる意味ってあるのかな、と答えの見つからない模索を始める。なんにでも疑問付けしてしまうのは昔からの悪い癖だ。


「魚さんの家ってこっちじゃないでしょ」


 信号が青になっても、魚さんはピッタリと私の隣を付いてきていた。


 少なくとも、中学が同じでない時点で住んでいる地域は違うはずだ。

 

「猫さんの家行きたい」

「そういうのは付いてくる前に聞くんだよ」

「行っちゃダメ?」


 遠慮がちに私を見る視線は、まあ悪い気はしなかった。


「いいけどさ」

「やったー、また犬ちゃんに会える」

「そっちかよ」

「そっちって、どっち?」

「どっちだろう」


 指を空中でぐるぐる回して遊ぶ。


 こうやってよくトンボを捕まえたな。


 空を見上げても、まだ水彩のように滲んだ茜色は見えてこない。それどころか、まだセミが鳴いている。じっとりとした暑さ。読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋。そういった過ごしやすい季節はまだ来ない。


 袖をまくって、スカートを折る。脚の間に滑り込む風は、まだ活気を失ってはいなかった。

 

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