第7話 青春を探すことにしました

 茜色の夕陽が海に落ちていく幻想的な景色より、昆布に絡みついたプラスチックの破片と貝の死骸を見ている方を私は選んだ。


 もうどれだけ泳いでいたか分からない。体の感覚がないのは疲労からか、それともすでに海に一体化したからなのか。時々小魚が私の背中を突きにくるくらいには、海に近づけたのかもしれない。


 ふと体を水面に浮かべて仰向けになると、暗い夜空が目に入った。私はいつも計画というものを追い越して行動してしまう。繊細な行動原理なんてきっと幼稚園あたりで忘れてしまったのだ。自分がどうして泳いでいたのかも分からない。ただ、こんなにも長い時間何かに熱中したのは久しぶりだった。


 小さい頃、熱中しすぎて親にゲームを没収されたとき、「あんた夢中になりすぎるから」と言われたことを思い出した。自分がそれだけ熱意のある若者だとは思えないけど、こうして温度も忘れて海に漂っている自分を見ると、母の言うとおりなのかもしれないと思った。


 泳ぐのをやめて波に流されていると、私は浜辺に打ちあげられた。頭頂部には柔らかい感触。腕のあたりには、白い脚が生えていた。


「やっと戻ってきた」


 私は魚さんの頭にすっぽりとハマっていた。最初のほうは魚さんと泳いでいた気がするけど、途中から姿が見えなくなった。魚にでも戻ったのか、と童話みたいなことを考えたけど、魚さんはきちんと人間の姿で私の目の前にいる。


「今何時?」


 髪がべったりと額に張り付いている私とは対照的に、魚さんは随分髪が乾いている。


「もう七時だよ」

「ほっかー」


 夜になれば家に帰らなければならない。その事実が遅れてやってきて、ちょっと残念な気分になる。泳ぐという行為が特別昔から好きなわけでもなかったし、どちらかといえばインドアな私なのに、どうして今日はこんなにも海というものを堪能したがるのだろう。


 魚さんの脚に挟まれながら、そんなことを考える。並べてみても、やっぱり魚さんのほうが肌が白い。そういえば今日、日焼け止めを塗るのを忘れていた。海で蒸し焼きになっていた私は、しっかりと食べ頃だろうか。


「猫さん、花火しよ」


 どこから持ってきたのか、魚さんがロケット花火の銃口をゼロ距離で私に向けてくる。うわあ! と、慌てて飛び退いた。そんな私を見て、魚さんが真面目な顔で笑い声だけを響かせる。ふふり、だって。なんだその笑い方は。


「いいけど」


 鉄みたいな表情筋の女は、スーパーに売っているようないろんな種類が入った花火パックを開けた。バケツに水を汲んで、魚さんがチャッカマンを指で回している。


 髪の水分が顎まで伝って足元に落ちる。どうしようか迷っていると、魚さんがチャッカマンをふりふりしているので花火を差し出す。


 着火した花火の先端から、勢いよく火が沸き立つ。波の端にある、泡に色が似ていた。


 地上に出てから、随分と体が重い。水を吸っているのもそうだし、地上にある余分なものまで吸ってしまっているので膝が特に重い。


 遠くの方で、同じように花火をしている人が何人かいた。それを見ると、どうしてか面白くなくなってしまう。


「泳ぐの好きなの?」


 魚さんは、さっき私に向けたロケット花火を砂浜に差して、海へと放っていた。いいのだろうか。地球の美化活動に対して私は特に積極的というわけではないから分からない。


「あんまり」

「でもずっと泳いでたよ? 水車みたいにばしゃーって」

「じゃあ回るのが好きなのかも」

「コマ?」


 持っていた花火がゴミに変わる。バケツに突っ込んで、新しい花火を点ける。


「変なのー」


 ムッとした。この女の方がよっぽど変だって私は思う。


「魚さんだって、なんであんな髪色にしたのさ」

「あ、スイカのこと?」

「みんなビックリしてたよ」

「わたしのほうがビックリしたよー」


 鏡に映った自分にビックリしたんだとしたら、この女はきっと生物学的には人間ではなく獣寄りだ。


「猫さんって真面目なんだね」

「なにそれ」

「怒られるよってわたしのこと注意したでしょ? 意外だった」


 心外だ。私はいつだって真面目で優等生だったし、高校を出たらいい大学に入って、公務員になって、それからなんやかんやで議員になって、日本の将来を変えるフリをしながら国会で昼寝をするのが将来の夢なのだ。


「染めたらそりゃ、怒れるでしょ」


 そうだそうだー、と同じ党の人が応援してくれる。正しいか間違っているかはとりあえず置いておいて、人数の多さと声の大きさでその場を乗り切ってしまえばいい。


「怒られたらどうなるの?」


 魚さんがロケット花火を砂浜に刺している。先端を砂に埋めたようだけど、途中で火が消えてしまったみたいで不発に終わった。


「殺される」

「怖すぎるよそれ」


 そんなこと言われたって、怒られたらどうなるなんて聞かれても怒られたら怒られるのだ。それ以上のことなんてありはしない。


「二年生になったら転校するんだけど、それまでに爪痕残してぇ~って思ったんだぜ」


 不発のロケット花火をバケツにぶちこんで、魚さんが変な口調で言う。


 転校というものが魚さんにとって悲しい出来事なのか、それとも嬉しい出来事なのかが分からなかったから、私は「ほーん」と角みたいな返事をすることしかできなかった。


「今しかできないことってあると思うんだ」

「スイカになるのは来年でもいいじゃん。今じゃなくても」

「今やりたいって思ってる自分が来年もいてくれるとは思えないから」


 魚さんが花火を十本くらい束にして、火を点けようとする。


「もったいないよ」

「いいのいいの」


 せっかく私が注意しているのに、魚さんは構わず束ねた花火に火を点ける。同時に点けたからか、火元が重なって、一つの火に変わる。中にはうまく点いていない花火もあって、花びらをちぎったコスモスみたいだった。


 乱雑に消費された豪快な火を二人で眺める。


「猫さんは、青春持ってる?」

「持ってないってば」

「じゃあ、すれる?」

「すれない」

「残念」


 とか言いながら、残念そうな顔ではなかった。いっつも同じような顔だ、この女は。魚みたいに目を真ん丸にして、口を半開きにして。それなのに、感じる感情は常に違う。


 さっき海にいるとき、私の背中を突いてきた小魚も、きっと表情はなかったし、そもそも私は見てもいなかった。けれど、どこか友好的で、前向きな感情が海を伝って流れてきたような気がする。


「わたしね、青春がしたいんだ」


 花火の光が、魚さんの顔を映し出す。影のせいか、ほんのちょっとだけ、唇の形がいつもと違う。そんな気がした。


「でも、わかんなくてさー」


 花火は一瞬にして終わる。あれだけの大きな火を作っていたのに、あれだけ重ねたのに、過ぎ行く時間はみな平等で、終わってバケツに突っ込んでしまえば同じゴミだ。


 歩くのが遅い人を苛立ちながら追い越すたび、私の心を覆う皮膜のようなものがペリペリと剥がれていく音がした。


 なら、私は何を思ってそれを追い越していたんだろう。


 どうしてそんなにも、私は焦っていたんだろう。足元に落ちていた石ころの形や、地面の色までも忘れながら。


 紺色の空が海に落ちていく。広いあの中で、魚たちは今、どこへ行き、何をしているだろうか。金魚を飼っていたこともあったけど、結局私は魚介類の考えていることなんて分かりやしなかった。


 それでも、餌をあげればあいつらは必死に上へ上へと泳いで、大きな口を開けてパクパクと食べていた。


 金魚の思い出なんて、それくらいしかない。逆を言えば、餌を食べているときの金魚の一生懸命な姿は中々忘れられるものではなかった。


「じゃーん、今度はこれ」


 魚さんがとっておきと言わんばかりに線香花火を取り出す。ただ、私も魚さんも、そういう情緒ある花火が似合う人間だとは思えなかった。


 遠くでも、誰かが線香花火をしている姿が見える。小さな光が、その人の顔を照らしている。


 魚さんは線香花火までも重ねて点ける気なのか、手で握りしめている。けれど棒状の花火と違って線香花火の持ち手は紙なので、安定させることに苦戦しているみたいだった。


「貸して」


 私は魚さんから線香花火を奪うと、軽くきゅっとひねってから、先端に火を点ける。出来上がった火の玉に、他の線香花火を近づければ、勝手にくっついてくれる。


 普通の線香花火の五倍くらいある、電球みたいな火の塊を見て、隣の魚さんが「おー」と声をあげる。


「やっぱり猫さんいい子じゃないね」


 どうだったか。昔は確かに、いい子ではなかったかもしれない。


 線香花火も例外なく、大きな塊を作ってから、重さに耐えられず落ちていく。花火はあっという間に終わってしまった。魚さんはまだ取り忘れた花火がないか、花火パックの中を探していた。


「探してあげよっか」

「うん。もしかしたらまだあるかも」

「そうじゃなくて」


 魚さんと目が合う。


「青春さ」


 魚さんの眉が、ぴくっと動いた。


「私でよかったらだけど」

「いい」

「その、青春ってやつとは反対側の世界に住んでるような人間だよ」

「いい」


 もう花火はいいのか、魚さんは花火のゴミをビニール袋に詰めた。


「猫さんを選んだのは、わたし」

「物好きだね」

「クラスで一番可愛かったから」


 魚さんがまさかお世辞を言えるほどの社交性を持っていたなんて驚きだ。


 バケツを持って、魚さんと一緒に砂浜を歩く。花火をしている集団の後ろを何度も横切ったけど、私たちより大きな火を立てている人は一人もいなかった。


 魚さんが急にテトラポットに登り始めたので、私も付いていく。足場が悪くて、危うく滑りそうになったけど、魚さんが手を掴んでくれて事なきを得た。


「ほら、わたしって可愛いでしょ?」


 私は社交性がないので、顔はね、顔は。と心の中で言った。


「可愛い女が二人並んでたほうが絵になるからさ」

「顔採用って本当にあったんだ」


 テトラポットに座って、夜の海を二人で眺める。風は弱く、時々、潮の香りが私たちの間を通り抜けていくだけの静かな空間だった。


 それから時間も忘れて、魚さんと青春について話し合った。テトラポットから降りたあとも、帰るフリだけして、いろんなところに寄って時間をつぶした。


 どこかで、セミが鳴いていた気がする。もう夜中だというのに、元気なやつだ。


 夜のセミの声は、どこか儚く、その力強さが逆に胸を苦しくさせる。


 セミが過ごす一か月と、私たち人間が過ごす一生。時間の流れは違うし、重みだってきっと違うだろう。だって私たちは人間様だ。この世で一番偉いんだ。セミなんかが勝てると思うな。


 けれど、セミみたいな小さな虫でも、土の中で過ごしていた時間が無駄だったとか、もっと早く外に出ていればよかったとか。そんなことを思ったりすんのかなーって、セミの気持ちに寄り添ってみる。


「あ、そういえば今年、セミの抜け殻見てないな」


 帰り道、私がそっと呟くと、魚さんが今から探しにいこう! と近くの公園へと走っていった。


 その背中を追いかける。公園の木をぺたぺたと触って、あのカリカリしたものを一生懸命探した。


 見つけたのは魚さんだった。魚さんが見つけたセミの抜け殻を私にくれた。


 素直に喜んで良いのか微妙で、私は苦笑いを貼り付けながらそれを受け取った。


 家に帰る頃には疲れ果ててしまって、私はお風呂に入ってすぐに布団に飛び込んだ。セミの抜け殻を枕元に置いて、暗闇でチカチカと舞っている光の残照をぼーっと眺める。

 

 目を瞑ったら、海に沈むように。眠りの世界へと落ちていった。

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