第6話 魚さんとも海へ行きました
リビングに通すと、魚さんは一目散に、フローリングで溶けている犬のもとへと向かった。おそるおそる手を差し出して、ちょん、と触る。
「撫でても噛まないよ」
「可愛い。名前はなんて言うの?」
「犬」
「そうなんだ、よろしくね、犬ちゃん」
犬が動きの鈍いデブ猫だということもあって、魚さんもすっかり安心したようだ。
「猫っていいよねー」
魚さんに撫でられている犬は、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らしている。私のときはあんな声出さないのに。猫の忠誠心の薄さにはほとほと呆れ果てる。それとも、魚さんの撫で方がそれほど上手なのだろうか。
「猫さんはもうご飯食べた?」
一度犬から手を離し、魚さんは被っていた麦わら帽子を床に置いた。
「適当に皿に乗っけてあるから腹減ったときに勝手に食ってるよ」
「そうじゃなくて、猫さんのほう」
あ、私か。
そういえばもう昼時か。両親は登山に行くとだけ言って家を出た。ご飯のことなんか一言も教えてくれなかったぞ。
私が首を横に振ると、魚さんがエナメルバッグからタッパーを出した。そこにはサンドイッチが敷き詰められていて、レタスにハムやらタマゴトマトと美味しそうだった。
「友達の家に行くって言ったらお母さんが持たせてくれたの。よかったらどうぞ」
「そうなの? ありがとう、丁度良かった」
なんていいお母さんなんだろう。うちの魔王と今すぐにでも交換したいけど、交換したら交換したで、あの母へのありがたみなんてものを感じてしまいそうで、それもそれで嫌だった。
レタスとハムのサンドイッチを口に入れると、パンの生地が若干パサパサしていた。けどレタスはシャキシャキで、ハムは何枚も重ねられていて食べ応えがある。食感は歪ではあったけど、味は新鮮味を感じて美味しかった。これが魚さんの家の味なのか。
すごく優しい味で、ギャップがある。
私が食べている間にも、魚さんは寝転がって犬と戯れていた。
「猫飼わないの?」
「アパートだから飼えないの」
「引っ越さないの?」
「引っ越してもまたアパートだと思うから」
そういうものなのか。従姉妹もそういえばアパート暮らしだったけど、確かに引っ越しの話はあまり出たことはない。
「魚さん撫でるの上手だね」
「そう?」
「そんな気持ちよさそうな犬初めて見た」
試しに私が手を伸ばして、犬の顎を撫でてみる。ぱっちりと目を開けて、「今、何かしたか?」みたいな顔で私を挑発してくる。ムカついたので額にデコピンを喰らわせたら鼻先に猫パンチを食らった。
「よし逃がそう」
「可哀想だよ」
「でもこいつ、全然懐かない」
「懐いてるからこそなんじゃない?」
再び犬を撫で始める魚さん。魚さんに撫でられているときの犬は気持ちよさそうだし、犬を撫でているときの魚さんはどこかおおらかに見える。
私が魚さんをじっと見ていたからか、魚さんも私をじっと見る。魚さんの指先が私の顎先へと伸びてきて、犬と同じように撫でてくる。
魚さんのひんやりとした指先は、感触とか、撫で方とか、そういうんじゃなくて、冷感シートに全身を預けているときのような心地よさがあって、思わず声を出してしまいそうになった。
「海行かない?」
「え?」
私の顎を撫でながら、魚さんが言う。
「行こうよ。水着持ってきたんだ」
「でも暑いし」
動きたくないし、だらだらしたいし。と、あまり私は乗り気じゃない。
それに海はお腹いっぱいになるし、なんだかちょっと色気が増してしまうし、大人の階段を上ってしまう。
乗り気じゃない私をよそに、魚さんのタチウオみたいな指が、私の顎をくすぐる。
「行かない?」
「じゃあ、行く」
私の返事を聞き届けて、魚さんが麦わら帽子を被る。
私の意識は一拍置いてから、あ、行くのか、と遅れて事態を認めた。
魚さんは犬に別れを告げて、先に玄関へ向かった。
私は冷房を切ってから、自分の水着を探した。雑巾と一緒に、パレオがぶら下がっているのを見つけ、引っこ抜く。ボタンの箇所が解れて、表と裏がごちゃまぜになっていた。絡まったイヤホンのコードを強引に引き抜くように、水着を引っ張る。玉結びになって、ビクともしなくなってしまった。
しょうがないので私は中学生のときに使っていたスク水をリュックに詰める。
玄関の扉を開けると、家の前に魚さんの自転車が停まっていた。
「あれ、猫さん自転車ないの?」
「うん」
「そっか」
魚さんは荷台をぽんぽんと叩き、ここに乗れと言ってくる。私は「失礼します」と言って、荷台に尻を乗せ、魚さんの肩に手を置いた。
躊躇なく走り始める魚さんの自転車は、ぐわんぐわんと、蛇行しながら進んでいく。
「荷台に乗るの上手いね」
「あんたは下手だな!」
こんなに自転車の操縦が下手な人間がこの世にいるなんて。
自転車を没収された私は、二人乗りさせてもらう機会も多い。だから後ろに乗ったときは、その人の操縦技術がだいたい分かるのだけど、こいつは壊滅的だ。終末的だ。絶望的だ。私は地獄への案内人の口車にまんまと乗せられたんじゃないだろうか。
振り落とされないように魚さんの体にしがみつく。
魚さんの体は細く、腰に手を回すと骨の感触があった。
ぐわんぐわんと進み、上り坂でどんどん速度が落ちていって、それでも魚さんは「うぎぎ」とペダルを漕ごうするので私も後ろから応援したんだけど、結局二人揃って横に倒れてしまった。
体に擦り傷を作りながらやっとこさ着いた海は、以前来たときよりも人が少ないように見える。
自転車を停めて、更衣室に向かう。ここに来てからまだ一ヶ月も経っていない。あまり新鮮味はなかった。
魚さんは水色のワンピースを脱いで、下着姿になる。近くのイヨンでセットで売ってそうな白の飾り気のない下着だったけど、それがまた魚さんに似合っていた。
魚さんがブラジャーのホックを外したあたりで、私は視線を外した。私も自分の着替えに集中することにした。・・・・・・着替えに集中するってなんだ? 私は赤ちゃんか。
何故か力が入ったまま、私はスク水に脚を突っ込んだ。ラジオ体操の前屈のように、よっこらせと体を起こせば着替えは終わる。めちゃくちゃ楽だ。
魚さんも、私と似たようなスク水を着ていた。互いに水着の感想を言い合ったりはしなかったし、できもしなかった。
魚さんが髪をヘアゴムで後ろに留める。結んだ髪が、ちょっと右にズレていて不格好だったけど、いちいち指摘するのは面倒だったのでそのまま更衣室を出た。
浜辺へと続く階段がこの先にはあるのに、魚さんは我慢できないとでも言うように壁をよじ登っていた。なんだか鯉のときのことを思い出す。
私と魚さんの出会いも、話すようになったきっかけも、すべてはあの鯉にあった。私たちはあの鯉で繋がっているのだ。
そんな魚さんを見ながら、私は階段を優雅に降りる。
「ぎゃー、あっついー」
素足のまま砂浜に脚を踏み入れた魚さんの叫び声が聞こえた。どうせ真顔で言ってるんだろうな、と思いながら私も駆け寄る。
「うおー」
かけ声なのか、それとも魚のことなのか。
抑揚がないから分からない変な声をあげて、魚さんが海へと突っ込んでいく。
水しぶきがあがって、魚さんは水の中に消えていった。
私も後に続いて、海に脚を突っ込む。
冷たい、ひんやりとした、熱のない水が私の脚を撫でていく。思わず太ももあたりを気にしたけど、そういえば今日はスク水なんだった。
胴体だけを金太郎みたいに守って、手足はご自由に、と無責任に解放されている。そんなスク水を着ながら、私はゆっくりと、体を海に沈めていく。
暑くて冷たい。
沈み上がる。
鬱屈な爽快感。
寂寥を含んだ物明るさ。
背反するものが、体に纏わり付いて離れてくれない。
遠くの方で、魚さんが手を振っていた。どうやってあそこまで辿り着いたんだろう。
流されたのか? 船にでも乗っけてってもらったのか?
そこで私は、ようやく泳ぐという行為を思い出した。
顔を海の中へと沈ませていく。
髪の毛がぶわっと太陽に引っ張られていくのを感じる。巻き上がった砂が、足の指の間へと入ってくる。昆布かなにかが、指先に触れる。自分以外の存在に埋め尽くされた体が、海へと溶け込んでいくのを感じた。
そのままクロールで、魚さんの元へと泳いでいく。
「気持ちいいねー」
脚が着かない。ぷかぷかと浮いたまま、魚さんが言う。
髪がペタペタで、水が入らないよう薄められた目も相まって、すごく不細工だ。人間のこんな顔、久しぶりに見た。
けど、そういえば私たちは、母親の腹の中にいるときからこんな風に過ごしていた気がする。海にいると、そういう原初的な思想に飲み込まれていく。
生まれ、育ち、覚え、遊び。結局はどんなものも、好奇心というワクワクに突き動かされていた、遥か昔の話だ。
「あそこまでいけるかな」
ぷかぷかと浮かんでいる、ラグビーボールみたいなオレンジ色の物体を指さす。
「競争しよう」
魚さんがすでに背泳ぎの体勢に入っている。え、それで泳ぐの?
じゃあ私は、バタフライにしよう。なんか異端で、カッコいいから。
「よーい、スタート!」
ほぼ同時だったと思う。どちらが先でもない、重なったかけ声と共に、私たちは泳ぎ出す。
見よう見まねのバタフライは、壊れた水車のように水しぶきばかりを巻き上げる。ちら、と魚さんの方を見ると、ぷかーっと、全然違う方に進んでいた。どこ行くねん。
私は勝利を確信しながら、水車になってゴールを目指す。
ぷかぷかと浮かんでいる、ラグビーボールみたいなオレンジ色の物体に乗っていたカモメが、笑うように鳴いていた。
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