第3話 魚さんが不良になってました

 海開きが近いこともあってショッピングモールやスーパーなんかに行くと、水着や遊泳道具などがよく見られるようになった。海開きとは私たちの夏休みが始まることを意味している。


 なんとなく、道行く人たちの足取りも軽くなっているような気がした。


 夏休みといえば、そうめん。そうめんが食べたい。柚の皮を散りばめたちょっと酸っぱい我が家お手製のそうめんが私は好きだ。涼しい部屋でそうめんを食べて、隣に座った父の解説を聞きながら甲子園を見て、点数の入らない五回表くらいで私は寝て、九回裏あたりで父に良いところだぞと叩き起こされる。そんな日を一週間か二週間ほど過ごして、おばあちゃんちへ行き従姉妹や親戚と遊んでから、銭湯へ行く。


 夏だろうが関係ないのだ。うちの家系はひいじいちゃんから再従姉妹まで銭湯が好きで、十人くらいで固まって銭湯に行くこともある。根っからの銭湯民族だ。


 ただ、イベントといえばそれくらいで、あとは美味しい料理を食べて家に帰ってくる。


 私の夏休みは遊ぶ、というよりは体を無気力にして心ごと遊泳するような穏やかな日々を指す。だから別に夏休み手前に足取りが軽くなることはないし、どちらかといえば体を省電力モードにしていつでも寝たきりの生活を送られるように準備をする。


 寝るのが好きというわけではないけれど、寝ることが一番私の体に合っている気がして、どうせ動いているのは私の心ではなく肉体なのだから、そちらの意思を尊重していてあげたい。


 そんなこんなで今日も省電力モードで、机の上に突っ伏していた。


 もう朝から暑くて暑くて、動く気力もない。体温を調整する機能がたぶん死んでるから、外からの気温を私の体はモロに喰らう。寒がりでありながら、暑がりでもあるのだ。なんて面倒な体。


 早く秋にならないかな、とモヤモヤした薄い願いをため息と共にこぼしていたら、いつのまにか私の机の周りに人だかりが出来ていた。


「今日一緒に水着買いに行かなーい?」


 顔をあげると、磁石が三つ、張り付くように立っていた。そこから離れられないのか、はたまたすでに同化しきってしまっているのか。そのまま地面にくっついてしまったら、この磁石たちはどう生きていくつもりなのだろう。


「いいよー」

「本当? やったぜー」


 嬉しい極に、嬉しい極がくっついていく。ここで私が「やだよ~ん」っていったらどうなるんだろう。反発し合って、ピンボールみたいにどっか飛んでいくのかな。ちょっと見て見たかった。


「ていうか、猫ってどんな水着きるの?」

「みぃ、ずぎぃ?」


 よっぽど私がとんちきな顔をしていたんだろう。磁石がジリジリと、砂鉄を集めるみたいに眉間にシワを寄せる。


「海パン」

「嘘でしょ!?」


 嘘である。


 まったくもって不要の嘘。私にも磁石にもメリットなんかないんだけど、こうして自分から無駄に寄り添ってしまうのはどうしてだろう。暑さのせいだろうか。


「うちがいいの選んであげるよ。猫スタイルいいし、似合うのいっぱいあると思うよ?」

「おー」


 お願い、の頭文字が手打ちされた蕎麦みたいに伸びていく。ただ、天然素材ではないので張りがない。寒天に色素を混ぜた偽物の麺は、カロリーが少なくて楽なのだ。


 そんなこんなで今日は水着を買いに行くことになった。泳げればなんでもいいのだけど、その理論でいくと素っ裸で海に飛び込んでもいいということになってしまうので、多少の常識は必要だ。


 ビキニ型がいいとか、オフショルダーがいいだとか、ハイネックコルセットモノキニホルターフリルレースアップタイサイド横文字の洪水で、海で泳ぐ前に溺れそうになる。猫ちゃんは背が低いからワンピースのでも似合うとか、やかましいわ。   


 けど、こういう会話は中学校のときにはなかった気がする。従姉妹と海にいくときも、今日はウニを手で捕まえるとか、ウツボと喧嘩するとか、そんなことばかり言っていた。


「パレオとか好きだな」


 ぼそっとそう言うと、磁石たちも「いいじゃーん!」と賛同してくれる。


 子供のとき見上げた浜辺のお姉様方は、だいたいパレオの水着を着ていたように記憶している。母に、あの人ターザンみたいと言って引っぱたかれたときもあった。


 まずは形から入るのも大事だろう。


 結局、夏休みなんて例年と同じことをして終わるのだ。それなら多少背伸びでもしておけば、二学期が始まる頃にはアキレス腱が攣ったことを思い出話にでもできるかもしれない。


 自分があのとき見たお姉さんになった姿を想像してゲヘゲヘしていると、教室がワッと沸いて空気ごと変わった。アイドルの転校生でも来たのかもしれない。アイドル知らないけど。


 教室の後ろの方を見ると、そこにはなんと、髪を真緑に染めて、黒のインナーカラーを入れた魚さんが、さも当たり前だとでも言うような顔で歩いていた。いや、あの女は元々あんな顔か。って、顔はこのさいどうでもいい。


 あまりの変容っぷりに、誰も魚さんに声をかけられずにいた。そりゃそうだ。あんな髪色、退学が決まった無敵のヤンキーでも百人に一人するかしないかだ。


 なんじゃありゃ、と磁石に混じって私も目を丸くする。そのときばかりは、私も磁石に引っ張られて、驚き極同士、体を寄せ合って竦み上がっていた。


 魚さんと私は元々学校で喋る仲でもなかったし、常に教室の対角線上にいるような関係だった。最近じゃ偶然会ってちょっと話すようにはなったけど、それからも魚さんが話しかけてくるようなことはなかった。だから魚さんの方も、学校の外でちょっと話すだけの関係を形成しようとしているのかと私は勝手に思っていた。


「あ、猫さん」


 そう、勝手に思っていただけだ。


 先生に質問するみたいに魚さんは手を挙げて、こちらに歩み寄ってくる。頭痛がした。


「髪、スイカみたいでしょ」


 よく考えれば、学校の外で話すだけのささやかな関係なんて、そんな器用な人との付き合いを、この女ができるとは思えなかった。


 真顔で自分の頭を指さす魚さんに、さっきまで近くにいた磁石はいつの間にか私から離れていた。


「昨日のテレビ見たー? 九時のドラマ、あれで終わりなのかなー?」


 お前もお前であったりまえのように会話を続けるな。


「あのさ魚さん、その髪色はマズいんじゃない?」

「え、なんで」

「怒られるよ」

「割られちゃうかな」


 割って脳みその形を見てみたい先生はきっと大勢いるだろう。差し出したら賞金くらいはくれそうだ。


「髪の元気がないとスイカにはなれないんだって」


 黒魔術師にでも教え込まれたのだろうか。 


 そういえばうちの母も同じようなことを言って私の髪を恨めしそうに引っこ抜いていた時期もあったけど、二人は、なんだ。魔女なのか?


 それから先生がやって来たのだけど、教室に入るなり、その場でひっくり返っていた。自分の愛する生徒がいきなりスイカになっていたら誰でもああなると思う。


 しっかりと先生に注意されて生徒指導室に連行される魚さん。登校した瞬間に連れて行かれるなんて不憫な奴だ。


 けど、どうせなら教室にスイカが浮いている奇妙な光景をもう少し目に焼き付けておけばよかった。あんなの、きっと人生で一回しか見られない。


「魚さんと仲いいんだ?」

「最近、ちょっと話すようになった」


 おそるおそる、磁石が私に聞いてくる。


「魚さんって案外オシャレなんだね。うちもメッシュの入れ方教えてもらおうかなー」


 あれはオシャレというのか? 


 魚さんのスイカへの大変身は、なんか、もっとこう、子供じみた、バカで、アホみたいな、そう、花火を一束握って火を点けるような、一時のテンションに身を任せたアンバランスで稚拙な感情によるものに似ている気がする。あれ、どっかで聞いたな、これ。なんだっけ?


「じゃあ放課後、水着ねー」


 磁石と別れて、自分の席に座る。


 窓の外を見ると、やる気満々の太陽が白い光をこれでもかと放っている。眩しすぎて、誰も窓の方へは目を向けていない。


 そういえば私も、線香花火を十本くらい握って火を点けたことがあった。おばあちゃんには勿体ないからやめなって言われたのに、私は言うことも聞かずに火を点けて、電球みたいに丸々太った線香花火の光をじっと見つめていた。


 おばあちゃんの言うとおり、それは普通にやるよりも早く地面に落ちてしまった。あーあ、とため息がこぼれる中、地面にできた大きな染みを見て、私はずっとドキドキしていた。


 結局あれ以降は花火は一本ずつ使うようになったから、あの電球みたいな光は見ることができていない。


 生徒指導室から帰ってきた先生が、いつものように号令をかけて、いつもと同じ時間に授業が始まる。教科書を開いて、ノートを開いて、筆箱の腹を掻っ捌く。


 その日はあまり眠気を感じず、外に落ちていた空き缶の転がり様を、私はぼーっと眺めていた。

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