第2話 虫を捕りに来ました

 歩くのが遅い人を苛立ちながら追い越すたび、私の心を覆う皮膜のようなものがペリペリと剥がれていく音がした。背中を見ながら歩くのも背中を見られながら歩くのも、急かされているようでどうにも落ち着かない。


 わはは、と人の波を泳いでいた小さい頃の私は一体どこへいったんだろう。ペリペリと鳴る自分の足音に嫌気がさして、滑るみたいに歩くようになってからというもの、私は周りからマイペースだなんて称号を付けられるようになってしまった。


 今日だって私が自動販売機でジュースを買っていたら「急にいなくなって探したよー」と言われて、振り返るとクラスメイト数人が私を待っていた。体育の帰りに一度話しただけなのに、どうして私が探される羽目になるんだろう。くっついたら離れられない、磁石のようなもの? しかし私は、その磁石たちの名前を知らない。


 教室に戻ると使っていないストーブの前に集まって、一人がスマホを掲げるとそれに向かって踊り出す。私にもカメラを向けられて、いえーいってピースすると、その映像がインターネットの海へと放り出される。


「猫が出ると反応多いんだよねー」

「へー」

「アカウント作ったらいいのに」

「あー、じゃあ作ろっかな」


 磁石に言われるがまま、インターネットに繋がるアカウントを登録する。アイコンの画像はデフォルトで、名前は「た」にした。「あ」にしようと思ったら指が滑ったのだ。スマホを替えてから指が端っこまで届かない。進歩に貢献しようとする人間は前ばかり見ているから困る。たまには自分の手元や足下にも目を向けてほしいものだ。


 家に帰っている途中、スマホに通知が届いた。新しい動画が投稿されたみたいだ。磁石たちをフォローしているから、逐一教えてくれるらしい。


 私が動画にコメントをすると、何故か投稿主の磁石たちからではなく、知らない人から「猫さんですか?」と個別のコメントが来て、めんどくさくてすぐにスマホをポケットにしまった。


「あ、猫だ」


 声がして振り返ると、子供が民家の駐車場を指さしている。指先を追うと、車の日陰でゼリーみたいに溶けている猫がいた。気持ちよさそうにあくびまでしちゃって。


 私も猫を飼っているけど、うちの猫はあんな風に幸せそうな顔はしない。いつだってふてくされて、飼われているくせに、人間を見るとなんか用かよ、みたいな顔をする可愛くも面白くもない奴だ。


 家に帰ると、そんな仏頂面が玄関に置かれている猫用トイレの中でひっくり返っていた。こいつはどうやら、トイレをベッドだと思っているらしい。じゃあトイレはどこにしているんだろう、とは考えないほうが良さそうだ。こいつの責任は全て私の母が負うことになっている。


「ただいまー」

「おかえり猫。悪いんだけど、犬の餌買ってきてもらっていい? 昨日ので最後だったの忘れてたのよ」

「えー」

「焼きプリン買ってきていいから」


 昨日、私がぐっちゃぐちゃの焼きプリンを冷蔵庫にしまっていると、母はその年で転んだのかとケラケラと私を笑った。そのことを突かれてむっとする。ただ。私もプリンはなるべくぐちゃぐちゃでないほうがいい。カラメルのかかっていないプリンは、なんだか茶碗蒸しを食っている気分になるから嫌なのだ。


「しょうがないな」

「ありがとうあたしの愛する娘」


 妙に滑らかな動作の投げキッスをスクールバッグで撃ち返して、トイレでひっくり返る犬に「今買ってきてやるからな」と言うと、犬は「ぶにゃ」とちっとも可愛くない返事をして目を瞑った。犬なんて名前をしているのだから、せめてワンとでも泣いてみたらどうだデブ猫。


 この猫に犬という名前を付けたのは私の母だ。普通に頭がおかしいんじゃないかと思う。


 猫も好きだけど犬も好きだから、という理由で名前を付けたらしいが、なら最初から犬を飼えばよかったのにとも思う。けど、そうしたら犬が猫になるのか? それは困る。我が家に猫は二人もいらない。


 そんな母と同じ血が私の体にも流れているのかと思うと、時々恐ろしくなる。私もそこらを飛んでいる鳥を指差して、猿とでも呼ぶ日が来るのだろうか。


「道路には気をつけてよ。猫はぼけっとしてるから」


 母の心配もしょうがないといえばしょうがないのかもしれない。私は移動によく自転車を使うんだけど、これまでに五回も車に轢かれている。別にぼけっとしてるわけじゃない。ただ、車が迫ってくると「うわー車だ」って驚いて、気付くと吹っ飛ばされているのだ。


 幸いこれまで大きな怪我はなかったけど、自転車はきっちり毎回ひしゃげてしまう。錆びないしパンクもしないっていう五万円くらいの自転車を買ってもらったその日に車に捧げてしまったときは、さすがに申し訳なかった。


 家を出てホームセンターへと向かう。自転車は没収されてしまったので、ピタピタとサイズの合わないビーチサンダルを履いて歩いていた。


 だけどすぐ首筋に汗が滲んで、公園の木陰で休憩することにした。ベンチに座って、空を見上げる。


 ホームセンター、遠いな。

 

「にゃーん」


 鳴いてみた。


「え、なにしてるの」


 青空に浮かぶ太陽の横に、ぬっと人の顔が現れた。


 うわっ、なんだ。


 私はそのまま後ろの倒れ込みそうになって、脚をばたつかせた。もう少しで犬と同じポーズをとってしまうところだった。犬、というか、うちのデブ猫。


 体勢を戻した私は、後ろから私の顔を覗き込んできた無礼な奴にご挨拶をしてやることにした。


「こんにちわ魚さん、昨日ぶりだね」

「ねえ今のなんだったの?」

「あ、久しぶり魚さん」

「鳴いてた?」

「あれ、魚さんじゃん。こんなところでどうしたの?」

「わたしは虫採りー」


 よし、勝った。


「なんか採れた?」


 魚さんが首からぶらさげている虫かごには虫が入っているようには見えなかった。というか、え? 魚さんの行動に疑問を感じている私がおかしいのか? この女はこの公園で一人で虫採りしてたのか? という疑問がどこからも飛んでこない。


 そりゃそうか。この公園には魚さん以外に、私しかいない。


「採れなかったー。いると思ったんだけど、カミキリムシ」

「ミミズなら掘れば出てくるんじゃない」

「浪漫がないよ」

「あ、そう」


 虫ならなんでも良いというわけではないらしい。


 というか、なんか当たり前のように話してるな私たち。昨日の一件で、仲の良い友達にでもなってしまったか。


 魚さんは虫穫り網をひっさげたまま、私の隣に座った。


 昨日は夜中でよく見えなかったけど、魚さんの髪は一本一本が繊維のように細かく入り乱れている。掃除の時間、ロッカーの中でいつも最後まで残っているくたびれた箒の毛を思い出す。


 私の視線に気付いたのか、魚さんが遠慮がちに俯いて上目遣いになる。


「隣いいですか?」

「別にいいよ」

「猫さんはどうしてここへ? ここへ来たいと思った理由は?」


 それは今私が何より魚さんに聞きたかったことなんだけど、まさか先手を取られるとは思っていなかった。


「猫の餌を買いに行くところなんだけど、ちょっと疲れたから休憩してるの」

「猫飼ってるの?」

「うん。デブ猫だけどね」

「いいなー」

「魚さんは猫好きなの?」

「うん、猫は好き」


 魚さんはそう言いながら、虫穫り網をぶんぶんと振っている。うちの猫も捕まえる気なのだろうか。


「虫の次に好き」


 ぷ~ん、と。どこからか羽音が聞こえた。魚の腹みたいに白い魚さんの腕に、大きめの蚊が一匹止まっていた。


 魚さんはノールックで、思い切りその蚊をはたき落としていた。


「虫大好き」


 人間大好きとかいいながら銃を乱射するサイコパスキャラみたいなことをするんじゃないよ。


「猫さんは写真を撮るのが一番好き?」

「え、なんでさ」

「教室でよく友達とスマホでなんか撮ってるでしょ?」

「あー」


 正確には写真ではなく動画だし、もっと正確に言うと私はただ画面に入り込んでいるハプニング幽霊みたいなもので、自主的に被写体になっているわけじゃない。


 それに好きかどうかで言われたら、好きではないと思う。インターネットの海に放流された私の動画を自分で見たことはあるけれど、親戚と集まって見るホームビデオみたいな妙な恥ずかしさがあって自分から進んで見たいものではなかった。


「わたしも混ぜてもらえるかな」

「え、魚さんが?」


 驚いた。魚さんもそういうのに興味があるのか。


「だって、なんだか青春みたいでしょ?」


 そんな真顔で、キラキラしたことを言わないで欲しい。後ろにスピーカーでも置いてあるんじゃないかと疑ってしまうじゃないか。


 魚さんの表情筋は、いつも主の好奇心に置いて行かれていて、なんだか不憫に思えてしまう。


「まあ、言えば入れてくれるとは思うよ」


 磁石たちはいつだって自分たちと同じ磁力を持つ存在を探し求めている。魚さんは反発するような強い力は持っていないので、磁石たちにすれば魚さんが混ざってくれるのは嬉しいことだろう。


「でもやめたほうがいいかもね」

「あれ、どうして?」

「青春かって言われると、違うと思うから」


 ジリジリと照る太陽が、私たちの影を徐々に動かしていく。私が右に傾けば、魚さんも傾く。自分の意思ではないはずなのに、私たちの体にくっついて離れない影は常に意思の外で動いている。


 影は黒い、これだけ無数に存在するのだから、ちょっとくらい紫とか緑とかあればいいのに。面白くもなければ、色を持つこともしないその隊列は、黒板に殴り書きされた文字のようだった。


「そっかー、じゃあやめとくね」


 魚さんは勢いよく立ち上がって、虫穫り網を振りながら茂みに向かっていく。動きがいちいち処理落ちした動画みたいだ。カクカクと、緩急を知らない。


 それでも、ブラウスとスカートに虫穫り網と虫カゴをひっさげて青空の下を歩く魚さんは、フルハイビジョンテレビが映し出す映像のように鮮やかで、軽やかだった。


「バイバイ、猫さん」


 この公園にはもう飽きたのか、魚さんは柵を越え、線路の上に立って私に手を振っていた。


「ばいばーい」


 ハードボイルドみたいなカッコいい去り方は、きっと私たち二人の間には存在しない。


 顔をあげると、太陽が眩しくて魚さんの姿が見えない。影は動き、ここもじきに木陰ではなくなる。


 立ち上がって、ホームセンターを目指して歩き始めた。


 よっ、ほっ、と。影を踏んづける。影以外の場所に落ちたらピラニアに食われるってことにしよう。ピラニアって人食うのか? 知らないけど、サメはなんか、落ちなくてもこっちまで飛んできそうだから、ピラニアくらいのピチピチした奴が丁度良い。そう思うと、魚っていろんな種類がいるんだな。


 太陽を避けるように、ピラニアから逃げるように、私は飛び跳ねる。


「あ、猫さんだ」


 子供の声が聞こえる。どこかで、また猫が溶けているのだろうか。 


 夏は暑いからなぁ。


「よ、ほっ」


 そうだ。今日は焼きプリンじゃなくてゼリーにしよう。冷蔵庫のぐちゃぐちゃになった焼きプリンは、あのデブ猫にでも食わせればいい。


 ぷるんとしたゼリー越しに見た世界は、今日の気分的に、きっとぶどう色に染まることだろう。

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