魚は猫で釣る。

野水はた

第1話 鯉に落ちました


 恋に落ちるんじゃなくて恋のほうが落ちてこい。そう思った頃にはすでに私の頭上から鯉が落ちてきていた。


 うわ、夢だ。と手を伸ばすと私の腕の中で鯉がこれでもかというくらいに暴れ回る。ピチピチと跳ね回る鯉は作り物ではない、しっかりと生きている命の活力を存分に発揮して私をじっと見つめている。そしてあったけぇ。うわ、夢じゃない。


 おじいちゃんちの池で泳いでる四十年ほど生きている大きな鯉と、私の腕の中で跳ねている鯉はほとんど同じ大きさだった。


 表情のない顔からはいったいこいつが何を求めてどこへ行きたいのかさっぱり検討もつかない。考えている間に何度も尾ひれで頬をビンタされた。


 コンビニで焼きプリンを買った帰り道で、なんで私はこんな水中生物に叩かれているのだろう。夜食は罪とよく称されるが、まさか罰せられるとは思っていなかった。これは、なんだ。鯉の刑とでも呼ぶのか? 字が違ったらロマンチックだったかもしれない。


「あ、いた」


 塀を跨いで飛び降りてきた女に、私はまた面食らうことになる。


 上は学校の制服、下は赤いジャージの変なファッションの女。これ以上私はキャッチするつもりはなかったのですぐさま避けた。


「な、なんだ急に」


 暴れ回る鯉を落とさないよう必死に抱きながら、飛び降りてきた女の動向を伺う。着地したまま動かない。よく見ると脚を押さえていた。大丈夫か? と声をかけようとすると、その女はバネに弾かれたかのように立ち上がる。


 勢いで、長く、黒い髪が舞い上がる。夜闇に溶け込む黒は、一つのグラデーションになって、プリンにかかったカラメルを思い出させる。あ、と地面に目をやると、私の買ってきたプリンが無惨にもひっくり返っていた。


 この女が鯉の持ち主であるなら賠償請求してやろうと、睨み付けてやる。


「あれ、猫さん?」


 しかし、なんてことだ。その顔は見知った顔どころか、私のクラスメイトだった。


「夜分遅くにどうも」


 魚さんは教室でいるときと変わらない、はんぺんみたいなまっさらな表情で会釈した。まん丸の目は作り物のようにピクリとも動かない。東洋人のような高い鼻の下には、色の薄い唇が付いていて、こうして私に話しかけている間もずっと開きっぱなしになっている。


 この鯉みたいだなって腕の中を見ると、すっかり元気をなくした鯉がじっと虚空を眺めていた。本当に、魚類というものは何を考えているのか見当も付かない。


「これ、魚さんの?」

「違うよ」

「ええ」


 鯉が落ちてきた方向から同じように降ってきた女が、この鯉と無関係だなんてことあるか? 


「初鯉だねぇ」


 笑っているような声色なのに、魚さんの表情は変わらない。魚は痛覚がないらしいから、包丁で切られているときも同じ顔をしているけど、魚さんはどうなのだろうか。包丁を入れるつもりはないけど、切り込むくらいはしたっていいはずだ。


「盗んできた?」


 こんな大きい鯉、やっぱり池の中でしか見たことない。この辺には川もないし、そもそも鯉っていう生き物がどこに生息しているのかも私は知らない。ベッドに横たわって鯉の生息地をスマホで調べるような女子高生ではないのだった。


「返して来なよ、怒られるよ」


 今すぐにでも、遠くから「コラー!」と声が聞こえてきそうで、私はそわそわしていた。私まで怒られようものなら、これほどのとばっちりはない。


「猫さんも来てほしい」


 魚さんはコールセンターの電子案内みたいな声を出す。鉄の筒をぶっ叩いたほうがもうちょっと抑揚のある音が生まれそうだ。


 魚さんが再び塀を登り始めたので、私は鯉とコンビニ袋を持ったまま後に続いた。私が塀の向こうに着地すると、魚さんがうわー、と拍手してくれた。パチパチ。腕の中の鯉もそれに続くようにピチピチ。連れ去られた身分のくせになんてのんきな。


 乾いた草木のにおいがする竹林を抜けると大きな平屋が見えてくる。門をくぐるとすぐ近くに池があって、同じような大きさの鯉が優雅に泳いでいた。


 私は鯉を池に放り投げ、早足で踵を返した。すぐに窓が開く音がして、後から魚さんの足音が付いてくる。もうここには近づかないでおこうと決めた。


 鯉を置いてきた代わりに、魚さんの手には黒い塊が握られていた。水が滴って、魚さんが絞り終わると、それがスカートだということに気付く。


「なんで鯉を盗んだりするのさ」


 私のシャツもすっかり濡れてしまっていた。魚特有の生臭さがすっかり染みこんでしまっている。もうとっくに、焼きプリンなんて気分じゃない。


「猫さんは鯉したことある?」

「したよ、たった今」


 降ってきた鯉を抱くことを、鯉するという。それは古くから伝わる日本人の伝統なのである。そういうことにでもしないと、事態が収束しそうになかった。


「鯉って青春かな」


 濡れたスカートを履いた魚さんが、その作り物のような顔で私を見つめる。


「猫さんは青春持ってる?」

「青春って持つ物なの? するものでしょ」

「どうすればすれるの?」


 すれるってなんだ。


「青春とは、アンバランスで稚拙な感情と滑稽で無責任な行動によって生まれる自己中心的な後悔の総称である」

「なにそれ、誰の言葉?」

「ニーチェ」


 へー。


 昔の人ってことと、日本人じゃないことくらいの情報しかない。言葉を作る人? 言葉くらい、私でも作れる。早く生まれた人は得だな。


「いい言葉だね」


 さっさと家に帰って服を洗濯カゴにぶち込みたかった。もう一度お風呂に入れば気分はまた鯉から焼きプリンに変わってくれるかもしれない。


「猫さん、猫さん」


 何も言わずに私が歩き始めると、魚さんが地面を跳ねるような足取りで付いてくる。


「嘘だよー」


 冗談ならもっと面白可笑しく言ってほしいものだ。そんな無表情と抑揚のない声で言われたって笑えるものも笑えないし、そもそも何に対しての嘘なのかも曖昧だ。私にとって、コンビニからのこの帰り道で起きた全てのことが嘘であってほしかった。


「猫さんバイバイ」


 家は逆方向らしく、魚さんは立ち止まって私に手を振っていた。


「あばよ」


 手を軽く挙げて、ハードボイルドに去ってみる。今のはちょっとかっこよかったんじゃないだろうか。振り返って魚さんの反応を見ようとしたが、すでに魚さんの姿はなかった。


 帰るのはや・・・・・・。


 あれだけ話したのに、一つの疑問も解消されなかった。もやもやとした気持ちのまま、私は家を目指す。


 その日の帰り道は、やけに短かった気がする。

 

 

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