河野和夫
まるでつかの間の休息を祝福するかのように、今日も空は青くて風は穏やかで日の照りも弱い。年に二度とない絵に描いた様な好天だ。
取材でも着る事の減ったスーツを身にまといながら土曜日朝の乗車率90%ぐらいの電車に乗ってパーティ会場のホテルに向かう僕を、スマホを見ながらチラチラのぞく程度の低い連中が取り囲んでいた。
土曜日だから休みの人間も多いはずでありどこへ行こうが勝手だが、もう少し恥ずかしくない挙動を取ってくれ。見てるだけで目の毒だ。
「えーと目的の駅はどこだったっけ!」
電車の案内板を見ながら迷惑にならない程度の加減でわざとらしく声を上げてやったが、誰も反応しようとしない。いや正確に言えば席に座っていた親子連れが何だとばかりに釣られて僕及び案内板を見たが、肝心要のスマホの下僕共の耳には届いていないらしい。と言うか考えてみればイヤホンなんかしているから聞こえようもなかったのか、ああ僕とした事が少し頭に血が上ってしまったらしい。
「あの人たちなんでずっと下向いてるの?何かあったの?」
まあ僕の大声につられてこっちを向いてくれた女の子の言葉で少しは気持ちが晴れたが、それにしてもまあ、若い者どころか僕と同じような年代の連中までこんなふざけた事をやっているだなんて全く嘆かわしいにも程がある。
僕はこの時、学生時代から二十代一杯まで続けて人並みより少し上の技量を身に付ける程度の実力を得ていた英語の勉強をやり直したくなった。ああ、日本人って奴はいつからこんなに劣化しちまったんだろうか。こんな連中を相手にしていると僕までダメになりそうな気がする。今度の大仕事が終わったら本気で海外に出てってそこで骨を埋めた方がいいかもしれない。目先の事しか考えてないような坊っちゃん嬢ちゃんたちに付き合うのはもううんざりだ。
電車を降りてホテルへと足を運ぶと、真っ青だった空が微妙に灰色になっている。まるで僕の苛立ちを現すかのように空も青さを失っていた。
降水確率10%だって事もあり雨の心配はないが、この空と言い先ほどのスマホの下僕たちと言い雨でも降ってくれた方がかえってすっきりする。大雨が降り注ぎ、汚い連中をすべて押し流してしまえばいい。この国からすべての醜悪な物体が流れて消えれば、後に残るのは澄み切った大地のみ。
人間は小さくなって生きるしかなく、自分を騙る必要も手段もなくなる。できるだけ交通マナーに気を付けながらそんな事を考えて歩いていると、僕は会場のホテルにたどり着いた。
「招待状を」
「これです」
パーティ開始一時間前と言う事もあり、スタッフ以外客はほとんどいない。僕はスタッフに一昨日届いた招待状を差し出した。垣山浩二作曲家五十周年記念パーティと言う事もあり会場となる部屋は生半な結婚式場よりずっと広く、天井が高く、そして赤い。テーブルの数からすると招待客は千人はくだらないだろう。
「ああ板野さん」
「木下先生」
「相変わらずお早いですね」
この前木下先生のお宅におうかがいした時と同じように、所定の時間より早く目的地にたどり着いた僕に呼応するかのように、木下スーザン先生も会場に来ていた。
「せっかく招待を受けておいて遅刻だなんて失礼な事が出来る訳が…ああそれで今日は」
「私は正直な話、ただのファンですからね。歌手や作詞家の方ほど大きな顔はできませんよ。まあ私と似たような筋の方も何人かいますからご紹介しましょうか」
「ぜひお願いします」
ファン代表。何をもってすればそう名乗れるのかわからない地位。五十年と言う歳月の間に積み重ねて来た何百と言う楽曲のうち、どれをどれほど聞いていればなれるのかもわからないあいまいな存在。ファンと言う事で言えば三十年以上前からずっと垣山さんの曲を聴いている僕だってそうだ。そう言われる事に嫌悪感はないが戸惑いはあり、全くの部外者としてやって来たつもりだった僕が急激にパーティの一部として組み込まれて行くような気持になった。
まあ木下先生からの誘いを受けた時点でパーティの一部なのだろうが、なるべく未知の場所のつもりで飛び込もうとした身としては微妙に面白くない。
「ああ木下先生、お早いですね」
「脇坂さんおはようございます、お元気で何よりです。ああこちらが」
「私は板野和夫と言う元新聞記者で、今はフリージャーナリストです」
僕がそんな気持ちになっている中、脇坂安美と言う女性が木下先生に向けて歩み寄って来た。キャリア五十年以上、大女優と言ってもいい風格を全身から漂わせる存在。しかしそれでいて堅苦しさはなく、場を無駄に緊張させる事はしない。貫禄と言う物が正しい形で身に備わるとこうなると言うのだろうか、全く一つ間違えば悪趣味の烙印を押されそうな豪華な衣装やアクセサリーを着こなすセンスが実に素晴らしい。
僕がおぼつかない手で差し出した名刺を、嫌な顔一つせず受け取ってくれた。
「ありがとうね、名刺は頂いておくわ」
「ありがとうございます、それで脇坂さんは出演したドラマの主題歌を、いや寡聞にして存じ上げませんが以前レコードを」
「はあ?」
「いや、小学校時代のクラスメイトとか、初恋の方とか…」
僕の質問に対する脇坂さんの間の抜けた声が、僕の質問がその声と同じかそれ以上に間の抜けた物である事を証明してしまったようだ。しかしかと言って他に何のつながりがあるのかなかなか思いつかない。仕事の関係でないとなると一体何なのか、僕が必死になって絞り出した答えをぶつけると脇坂さんは木下先生の方を向いた後に首を傾げてしまった。
「板野さんってテレビゲームはおやりにならないんですか」
「全然」
「これは失礼いたしました」
名無しの権兵衛だった物が中立的な興味の対象に変わり、異物を見る目に変わり、そしてその異物を憐れむ目に変わった。この十数秒の間に脇坂さんの目がそこまで転変するのを、僕ははっきりと見てしまった。
「正直そんな物でも見ているぐらいなら本でも読んでいた方が有意義だと思いますけどね私としては。時間とお金を食い尽くして何も残りそうにないアリジゴクに」
「あらそう残念ですね、浮谷さんにも楽しんでいただければと思ったんですけど」
「ご期待に沿えず大変申し訳ありません」
それでも僕も五十歳の男だ、信条を今更変えるつもりはない。テレビゲームはあくまでも夏炉冬扇であり、なくても死ぬ物じゃない。楽しむ人間だけが楽しんでいればいい、そうでない者は見ているだけだ。それで何の問題もない。
「このパーティには私や木下さんのような垣山先生が作曲を務められたゲームのファンの方々も多くいらしてて、若い方々も多数ご招待なされていましてね」
「へぇ」
「木下先生も板野さんにおわかりいただきたくてお呼びになったのかもしれませんわね」
「うーん…まあこの先どれだけの役に立つかわからなくって」
ゲームって言うのは情報と訳が違う。なくても死ぬ物じゃない。
商売を円滑に行うための道具にはなりそうじゃないか?費用対効果って奴を考えるととても効率がいいとは思えない。確かに波乱万丈を極めた人生を送っているとは言え脇坂さんほどの人間がどうしてそんな非効率的行動に走ったのか、僕にはとんとわからない。まあ僕もほとんど読まない本を衝動買いしては売りに行くという行動を四半世紀以上繰り返しているから人の事は言えないのだろうが、それにしてもわからない。
「そういう業界の関係者の方もいらしてるんですか?」
「それはもうたくさん、垣山先生の曲を聞かれてゲームを始められ作り手になった方もたくさんいらっしゃいますからね」
「それは不勉強を詫びねばなりませんね」
僕がこの先そういう業界に関わる事があるのだろうか、フリージャーナリストと言っても限度って奴がある。
今度の地方議会の汚職についての調査は出版にまで持って行くつもりの大仕事だ、そういう人間とのつながりが役に立つとは思えない。小銭稼ぎとかには役に立つかもしれないがそれ以上の意味もあるまい。脇坂さんからの人脈に期待できないという現実を悟った僕が脇坂さんに軽く頭を下げて去ろうとすると、また別の人が脇坂さんに近づいて来た。
「ああ脇坂さんこんにちは。こちらは」
「木下先生のお知り合いのジャーナリストの方だそうでして」
僕と同じくらいの年の、僕と同じかそれ以上にスーツがこなれていない男性。それでいてどこか不思議な風格を醸し出している。前髪の方に交じっている白髪もかえって味を出す材料になっており、顔のしわと相まって正しく年輪となっている。
「私は河野和夫と言う者です」
「ああはい、板野和夫と申します」
僕はそんな彼の存在に気圧されて後出しの形で名刺を出してしまった。脇坂さんに近づいて来た時点でなんとなくそんな事かもとは思ったが案の定、河野和夫なる人物はゲーム関係とおぼしき会社の専務だった。
河野和夫さんと言う人が専務をやっている会社の名前はよく知らないが、ゲーム会社でなければ名刺によくわからないキャラクターを記したりしないだろう。あるいはアニメか漫画かもしれないが、いずれにせよ僕の志とはまるで縁がない業界だ。
「板野さんは元新聞記者でフリージャーナリストだそうですが、現在は」
「今は仕事がひと段落した所で、これから地方の汚職について調べようかと」
「大変ですね、お互い子どもたちの笑顔のために頑張りましょう」
河野さんは仕草の全てが自然であり、全身から文化人と言う気風を漂わせている。同じ世界に身を投じていたら無条件に尊敬してしまいそうだ。
「あの河野さん、河野さんのお仕事の方は順調で」
「まあねえ、まだ中間点ですけどね。真に面白くなるのはこれからの微調整が肝心で、私もいろいろやらなければならないですよ。それから別のプロジェクトも進めなければならないし」
「それは私も同じですよ、私の仕事もまとめ上げないことにはお金がびた一文入って来ないんで細かい仕事をやらなければならないですよ。まあ出版までこぎ着けられる程にはもって行きたい所存ですが」
一応、七月から小さな雑誌で連載はもらっている。だが当然ながらギャラは安い、まあ「東京にあふれる民」と言うタイトルで一極集中を極めた東京の現状を見ると言う重厚なテーマなので気に入ってはいるが、いかんせん注目度は推して知るべしである。正直な話、少しでも取材その他の伝手が欲しい。
「それは大変ですね、それで大変厚かましいですが本が出来上がった際にはぜひ一冊」
「いえいえ、今後もし協力していただける事があるのならばぜひ」
「それはねえ、私は腰抜けなもんであまり重要な情報は差し上げられませんでしょうけれどそれでもよろしければ」
腰抜けと言った河野さんの顔は笑っていた。関東で生まれ育った僕が目にする事などめったにない、どこか関西地方に行った時に見たような感触を持った笑みだ。
言葉や風景だけでなく、表情ひとつにも風土や育ちがにじみ出る。東京ではめったに目にしない関西らしい、東北でも北海道でも九州でもなく関西と言った感じの笑み。どう違うのかは理屈を立てて説明することはできないが、確かに関西の笑みであった。
「板野さんはお子さんは」
「いませんよ、結婚さえしてませんから。それよりはいい記事を書いて世の中を少しでもいい方向に導きたいと言うのが私の志で」
「ご立派ですねえ、私はマイホーム主義の小市民なんでね、必死こいて金稼いで二人の息子を大学高校に入れてカミさんともいろいろ寄り添って…そんな崇高な事を考えている暇なんかありませんからね」
「崇高だなんてそんな、河野さんも河野さんでご立派ですよ。私は世の中をうんぬんとか抜かしながら少子化問題に貢献する事さえできてないんですから」
「ハハハハ、まあ確かにねえ」
こんなくだらないジョークを笑ってくれるとは思わなかった、なんと懐の大きな人間なのだろう。
もし僕と同じか近い業界にいたらもっと尊敬できただろう。有能な人材って物はどうしても限られているが、それが夏炉冬扇の業界に入ってしまったのは誠に残念だ。
「河野さん、今からでも報道業界に来てくれませんか?それとも政治家でもいいですけど。いずれにせよあなたの力ならばこの日本を素晴らしい国にできますよ」
「私はずっとゲーム屋として過ごして来たので、死ぬまでゲーム屋ですよ。他の仕事は何をやっても合いませんよ多分。ですからお気持ちだけ頂戴しておきます」
「そうですか…」
往生際が悪いなと思わない訳ではない、だがこの時の僕はこれほどの人間を生きて行く上でなくても構わない物に携わらせておくのはもったいないと言う気持ちで一杯であり、諦め悪く自分の側の陣営に引き込もうとして盛大にため息を吐いた。
「お疲れですか」
「いえいえわがままを申してしまい失礼しました、すいませんね。最近、いやその、最近あんまりにも程度の低い、幼稚園さえ出ていないような人間がもうああだこうだと私に向かって駄々をこねて泣き喚くもんで、未婚のくせに子守りをやる羽目になって正直疲れちゃってて」
ああ、どうしてここまで人間と言うのは差がついてしまう物なのか。僕自身は自分が一流の人間などとは微塵も思っていないが、ツイッター上にあふれ返る実名では何にも言えない臆病者君たちが僕と同じ人間って言う生き物だとは思いたくない。
「私も思いますよ、子守りは大変だって。よく言われるんですよ、あなたの所の商品は子守りには最適ですねって」
「ゲームに子守りをやらせるなんて感心できませんけどね」
「そうですけどね、実際そういう風に使ってる人も多いんですよ。まあ商品である手前お金を払っていただければどう使おうがお客様の自由なんですけれどね、もちろん法の範囲内で。まあ哺乳瓶だって氷を詰めて頭に振り下ろせば凶器ですしね」
「まあ人間なんてそんなもんでしょうけど、どんなに大事にしていても自分にとって不都合が起きると即ポイ捨てですからね。実に便利ですよ、ゲームなんて人間が定められた事しかしない、要するに何をやっても決まったパターンの行動しかしないんだから反論してくる事なんかないんですよ。それが人間を始めとした生き物ならばガーガー言ってくるでしょうし世間的な反発って奴もありますから言えないんでしょうけどね」
教育の問題とか言うが、結局の所すべての人間を「正しく」教育する方法などない。結果的にどんなに優秀な人間に育った所で育てた側から見れば「間違った」人間になってしまったと言う事はままある。
一人の人間がいったいどれだけの要素で出来ていると言うのだろうか。両親やそのまた両親の遺伝子、生まれた地域、育って来た地域、触れて来た他者、かけられた金銭の多寡や使われ方、時代…その他いろいろな要素が加わって人間って奴は出来上がる。
「まあねえ、私はジャーナリスト板野和夫としてはっきり物を言い続けますよ。そうでなければ情報に価値なんてありませんからね」
「私も最近顔出しでスピーチする事が増えましてね、何せうちの社長もそういうのが好きですからね。イベントどころか単独でもやってますよ」
「最近の連中は本当困りますよ、惨めったらしく下らない仮面を付けなきゃまともに物も言えずにうじうじぐだぐだと、その癖自分の秘密が守られているとなればワーワーギャーギャーと好き勝手言い出してまあ、情けないって言うか恥ずかしいって言うか…ああ最近僕のツイッターに数匹ほどそういう類のダニがくっついてましてね」
「ブロックすればよろしいかと」
「そんな事しませんよ、だって最近彼らの独り相撲を見てるのがもうおかしくって仕方がなくって、気分が悪い時でも彼らを見るとすっきりするんです。それにもし、私まで彼らに構ってやらなくなったら本当のひとりぼっちになっちゃうじゃないですか、最後のライフラインを断ち切るほど私は冷酷なつもりはないですから。まあ無理でしょうけど彼らが大勢の人間の前で醜態をさらしている事に気付いて反省して立派な人間になってくれればいいと思ってますよ」
「ご立派な志ですね」
気が付けばパーティの開始まで二十分前となったためかかなり人が増えていたのに構う事なく、僕は目の前の河野和夫と言う人間だけに向けて舌を回し続けていた。
ここ三、四年の間、こんな話ができた人間は親しいメディア業界関係者にさえも一人もいなかった。
「いやーよかった、今日河野さんと出会えただけでも私はここに来た甲斐があったと言う物ですよ」
「それはそれは…ではそろそろ時間なので」
「はい!」
今日は実に素晴らしい日だ。
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