人魚のナイフを呑み込んで

@hisoku

第1話

貴方の筆先になりたいとずっと思っていた。


黄昏の、目が眩む様なアルコール度数の高い光と貴方しかいない教室。ダンダンと筆とキャンパスの衝突音に私だけ聞こえる鼓音がトントンと混ざり合っている。

チラリと横を向いた。横で絵を描く貴方を盗み見た。朱色した夕日の優しい手を、大きな大きなキャンパスで遮った、まるでモーゼのように光を遮り光の抱擁を受けた彼の横顔彼に構成されゆるものたちー。


世界の中の日本の小さな教室から差す、優しい優しい、陽だまりの中の子猫のお腹みたいな光に祝福されたこの極彩、これが、これこそが私の一番好きでやまない瞬間だったと、盗み見ながらに思ったのです。



「空。チョコレェトいらない?」


まだ空が明るい放課後、開けっぱなしにしていた部室のドアからトントンと軽い足取りを弾ませて、長い細い髪の少女が、空にへばりつく様にして片手を掲げる。

少女の小さな白い手には沢山のこびり付いた油絵具と銀紙に包まれたチョコがコロコロ滞在していた。


「………ありがと。」


空はお礼を言って小さなチョコを受け取った。小さな甘い魔女の食べ物。口に入れると彼女の幸せを溶かした甘さは胃にシワシワと染みる。


横で恵は一緒に買ってきただろうアップルティーの紙パックをストローを咥えながら音を立てずに無音で飲んだ。


「ねぇ、これ何描いてるの。」


色とりどりの歪な水玉模様の手が、空の下書きだけのキャンパスをピッと指差す。

ペンキで白く塗られた木製のキャンパスには科学者の頭の中みたいな、とっ散らかっている様に見えてもきっと何処か規則性が、リズムがあるのだろうという占い師とか天文学的な、何かそういったもので埋め尽くされていた。


「人魚姫。」


こともなげに、ポテトチップスを無意識でつまむ様にポト、と空が言った。


やっぱこいつ、ヤバイなと恵は思った。

このごった返した絵が人魚姫?何処が尾鰭なのか、何なのか。

空という人間はそういう人だった。

何を考えているか分からない、紡ぐ言葉も感性もニュアンスも人とは違う。見た目は普通。


ほーんとか、ふーんとかそういう曖昧な相槌が二人きりの教室に響く。


「え、ていうか、何。空って童話好きなんだ?」


キラキラした砂糖菓子の宝箱の様な、夢いっぱい希望100%のファンタジー。

恵は血と汗と涙が浮かぶ様なアクションいっぱいのヒーローものが好きだった。

大きな剣とか盾とかで悪役を勧善懲悪。甘いチョコレートの様な恋愛要素を織り交ぜながら紡がれる絶対的英雄が好きなのだ。


「好き。あぁ、でも違う違う。絵本の童話じゃなくて原本が好き。」


穏やかで、鴨が優雅に泳ぐ湖畔のようなおとぎ話ではなく、ドロドロでぐちゃぐちゃの、夢も希望も砕かれ捨てられ嗤われるような童話の初版。空はその中の気持ち悪い程の人間らしさが好きだった。

勧善懲悪?そんなもの!善は悪に変わり多くを占めた悪が一人のか弱い花を焼く。そこにヒーローはおらず、間違えたその他大勢に落ちたキャラクターが虚無に見つめる。全く救いのない御伽噺が何故か如何しても好きなのだ。


「童話の原本って、確か……。」


えー、という二度目の間伸びした相槌が打たれた後にサイズの合っていないスリッパの足音が聞こえた。


「はよー、っす。」


「はよ。」


低い掠れた音が通った。

若干、少しだけダルそうに左手に筆とかパンティングナイフとかを纏めてグヮシと持ち窓と対面の机にまとめてバラバラ置いた。

もう既に下書きは終えて、色彩を付けている彼、優作はフゥと息を残して廊下の、自分一回分くらい大きいキャンパスを取りにまたペタペタと歩いて行った。


空がチラリと見た、水を打ったように静まり返っていた恵の顔は少し強張っていた。


「あー、私も描かないと。」


「……大丈夫?」


「うん。」


パッともたれ掛かっていた机から離れて、教室の隅っこに置いてある小さなノートを取りに行く。真ん中の机に座って開けるとそこには優作のスケッチ7割下書きが2割落書きが1割ー。

バン、と閉めて反対の方向から描き始める。

カリカリカリと受験時隣の奴を焦らせ蹴落とすように神経質な音がウスウス響いた。

窓に映ったその様子を空は人魚と思しき線の塊の下、無数の鋭利な酷く美しいナイフを描き崩しながら無表情で見つめていた。


「恭介は?」


「うん?あぁ、今日休むって。」


美術部のムードメーカー基良い意味で空気の絶妙に読めない如月恭介。軽音部と掛け持ちの彼はドラムを狂った様に叩きながら意外と一番繊細に静かなピアノが聞こえてきそうな幾何学的な風景画を描く。


恭介ーっと間伸びして言いながらアンティークなナイフを黄緑、紫、赤に彩った。

特に紫の色に空はこだわった。人魚の象徴、アイデンティティである海の青とダークでゴシックな血の赤が混ざり合った色である紫、一際大きく不気味な形をしたナイフのフジツボ柄の装飾の下地に、この紫を塗った。


黙々と作業を何かに憑かれたようにしていると空のすぐ後ろでカタンと音がした。


「ねぇ、私帰るね。」


ちょっと、集中力がもたなくてさ、と言った恵の顔は少し疲れているように影がかかっていた。


「うん、チョコありがとね、また明日。」


「ハハッ。あ、そうまだあるんだけど食べてよ。私食べきれないし、、優作君も、良かったら食べて。」


「え、あぁ、うん。」


「……チョコレィト、嫌い?」


「いや、好き。」


良かったと言って土壁がほろほろ砕ける様に笑った恵が少し軽い足取りで鈴の付いたストラップ付きの鞄を鳴らし帰っていった。


ふぅ、と溜息が空の耳に届く。

「チョコ、いらんの?」


「うん、いい。」


「ねぇ、どうすんの。」


「さぁー、俺は描くだけ。」


腕をぐっとやって伸びをした彼、笑うと猫みたいに目がくしゃくしゃになる彼。


そんな優作に恵みが告白し、振られて空に泣きついたのはつい先日の話。


彼の話し方が好きだった、雨の日のツバメみたいな声が好きだった、何より話して楽しかったと言ってワンワン泣いていた恵を思い出す。放課後の誰もいなくなった教室でよしよし頭を撫でて、あぁ、あの時も確かチョコを、私が渡したんだっけと空は思った。


エンエンなく恵みを見てソッと微笑んだ。

あぁ、良かったと胸を撫で下ろした。

涙が出そうな程、吐きそうな程自分のドロドロしい感情を理解して、この絵を描こうと決めた。


真珠の化身の様に美しい人魚姫。何もかもを投げ捨て自分の持ち物を全部海に投げ捨て、美しかった声も失い、足をナイフで刺す様な痛みに耐え忍びながら恋を愛を王子を求めたのに、無情にもスルリと横から掠め取られたバッドエンドの物語。焼かれながら人魚は何を思ったのだろう。血の涙が落ちる程の悲しみか、儘ならない事への嘆きか…後悔はしたのだろうか。


恋を黙認することと、ナイフで刺されるような足の痛みはどちらの方が苦しいのか。


空を見ると既に恋する乙女のほっぺの様に赤らんでいた。

黒い烏が鳴く、運動部の声が聞こえる、空がチラリと横を盗み見る。


同じ抽象画を描く優作の絵は点画のように筆をドンドンと叩きつける様に色をつけていく。何を描いているか自分でも分からないと言っていた彼だけの絵は緑を基調としていて人魚の鱗の様に神秘的であった。


世界中の音を傍目に、優作の描く絵の音が、空の鼓動と振動するかのように溶け合う夕方の放課後、黄昏の時間。


私はナイフの痛みを味わえないと空は思った。綺麗なものに囲まれた、色彩に祝福されたかの様なコントラストなワンシーン。


告白したら壊れるんだろうなぁと思った。

壊したいとは思わなかった。


「ねぇ、さっきから何?」


クシャッと子猫みたいに笑う優作の顔半分に漏れた夕日の手が当たる。

クラクラするくらいにこの瞬間が、空は如何しようも無く好きなのだ。


「綺麗だなって、絵。」


朗らかに笑った彼を見て、あーぁ、人魚姫にはなれないなと、一生秘密にするんだなぁと思ってー綺麗な綺麗な真珠の涙で象られた紫のナイフを完成させた。










































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