第33話

 静かに言われた言葉に、イリヤは慌てふためいた。

 真隣から、焦った声色が聞こえる。

 「ど、どうするんだよ……!」

 「うん……とりあえず、イリヤ君の友達も多分移動してるだろうから……大人しく捕まって、様子を見よう」

 「マジかよ……! わ、わかった……」

 そう、か細い声でイリヤが言ったと同時に、扉が軋んで開かれた。その瞬間、冷気と暗闇に慣れていた双眸に眩しい光が飛び込んで来て咄嗟に顔を背け手を翳す。

 が、状況を見極める為無意識に右目だけ薄く開き、様子を窺った。

 「起きてるなー」

 朝早いせいか、侵入者の声色は眠そうなそれだった。

 続いて靴音をさせながら、男が近づいてくる。一緒に来たもう一人の男は、嘶き声を上げている馬の側に立っているようだった。

 近づいて来ていた男が目の前に迫り、ついで腕を伸ばしてくる。ドルディノは静かに男の行動を見守り、己の腕を乱暴に掴んで引っ張っられても逆らわずに従った。

 「やけに静かだな。諦めたか?」

 男がそう言いながら馬車の荷台までドルディノを引っ張っていく。そして、荷台に垂らしてある、外部遮断の役目をしている白い天幕を空いている手で払いのけると、人が二、三人乗れるスペースが現れた。

 男は無言で、ドルディノの背中を強く押し荷台に押し入れる。押された反動で前のめりになり倒れそうになるが、手をついて体を支え凌いだ後、背後を振り向いた。

 「もたもたすんな!」

 ドルディノの双眸に映った男は鋭い目つきで睨んで来ていた。雰囲気も殺伐としたものへと変わっている。

 苛つきはじめているようだった。

 ――この男を怒らせると、イリヤ君が危ないな……。

 ドルディノは素早く荷台の中へ潜りこみ、低い天井に頭が当たらないよう腰を曲げて数歩進む。その度に、荷台が軽く揺れて軋んだ音を立てる。奥まで行くと、ドルディノはゆっくり腰を下した。途端、床に着けたお尻から冷たさが伝わって来て、体が震えそうになる。

 「静かにしてろよ」

 ドスの効いた男の声が聞こえ、ドルディノの視線が天幕の外へ向く。そこには一緒に来たであろうもう一人の男が立っており、こちらを睨んでいた。右手は腰に下げている剣の柄に添えられており、いつでも抜けるようにしてある。

 じっとしていると、足音と共に男がイリヤの細い腕を引っ張りながら姿を現した。荷台の方を見たイリヤと、二人の様子を見ていたドルディノの視線が合う。間髪入れず背中を押されたイリヤの体が前に傾いて転びそうになったがイリヤも荷台に手をついて転倒を免れる。そうしてイリヤも荷台に上がると、ドルディノが腰を下している奥の方へ進んで行った。

 二人が奥に座ったのを見届けると、柄に手をやっていた男が荷台へ上がり、天幕の側に腰を下す。

 「じゃあよろしくな」

 「ああ」

 短い男達の会話が途切れると同時に、二人を荷台まで連れて来た男が上がっていた天幕をバサッと音を立てて下した。

 その瞬間、僅かに明るかった荷台の中が薄暗くなった。

 そして数分後、馬の嘶きと共に、ガタンと馬車が揺れ、動き出した。

 荷台の壁に背を凭れかけさせ、馬の蹄の音と共に生じる揺れに身を任せながら、ドルディノは瞼を閉じる。

 ――何か、少しでも情報が掴めるといいけど……。

 少し、期待してしまう自分がいた。

 その時、ツン、と左腕が引っ張られる感触がした。視線を左隣りに座っているイリヤへ向けると、少年の指先が腕の裾を掴んでいることに気が付いた。

 そして、その手が震えていることも。

 ――そうか……怖いよね……。この子はまだ、ほんの子供なんだ……。安心させてあげたいけど……どうすればいいかな……。

 数秒悩んだ後、ドルディノは己の腕を引っ張っているイリヤの小さなその指先を自由に動かせる右手で包み込んだ。

 その温かさで気が付いたのか、イリヤが視線をドルディノに向けて来て、二人のそれが絡み合う。

 目が合ったドルディノは、イリヤに微笑んだ。だが、それを見たイリヤはさっと目を逸らした。

 イリヤが視線を逸らしたのも気にならず、ドルディノはイリヤの手を包んだそれに、力を込める。

 大丈夫だよ。僕が傍にいるから。

 そう、想いを込めて。

 

 

 イリヤの指先の震えは、いつの間にか止まっていた。



 馬の嘶きが聞こえ、ドルディノは伏せていた瞼を開けた。ほぼ同時にガタン、と音がすると共に馬車が揺れ、動きが止まる。

 ――もしかして、着いたのかな……。

 そう思っていると、ドルディノの左腕に掴まれた感触があり、視線を左隣りへ落とす。

 イリヤが、今度は腕を力を入れてしっかりと掴んでいた。

 指先は震えていないものの、顔が強張っており、荒い呼吸をしている。視線は真っ直ぐ正面へ向けられていた。

 ドルディノはそんなイリヤを心配そうに見つめたあと、安心させたくて、空いている右手で少年の小さい左肩をそっと掴んだ。

 すると、徐々に顔の強張りが緩んで来て、ドルディノは掴んでいた右手をそっと離すとそのまま優しく、とんとん、と叩く。

 突然バサッと音がしてドルディノは視線を正面に移した。と同時に今度はイリヤの両腕がドルディノの腰に力強く巻き付いてくる感触があったが、ドルディノは視線を少年には向けず、一緒に馬車に乗り込み天幕の側で腰を下してからずっと、自分達を監視していた男を見つめていた。

 いや、正確に言うと、その男の側に垂れ下がっている天幕の間から生えている、誰かの腕を、だった。

 天幕で遮られている為その正体は見えず、腕だけが生えている状態。

 まるで、お化けのようだった。

 イリヤがこれに怯えてドルディノに抱きついてくるのも無理はない。

 監視役の男がのっそりと動き、伸ばされている腕の手から何かを取る仕草をし、同時に腕が天幕から抜かれて見えなくなる。

 だが、突然腕が伸びて来た様子を直視し衝撃を受けたイリヤの、ドルディノに回された両腕からは力が抜けることはなく、きつく巻き付いているままだった。

 「よぉし。おら、デカい方。こっちへ来い」

 監視役の男が顎をしゃくってそう命令し、ドルディノはイリヤを一瞥する。

 腰に巻き付いたままの両腕が離れないと、移動が出来ないからだ。

 恐怖で固まり、正面を驚愕の眼差しで見つめ続けているイリヤの意識を自分へ向けるため、ドルディノは自由に動く右手で、今度は軽く力を込めてとんとん、と少年の左肩を叩く。すると、はっとしたようにイリヤの視線がドルディノの方へ向き、目が合ったドルディノは優しく微笑んだ。

 それに安心感が生まれたのか、それまで固く締め付けて来ていたイリヤの両腕から力が抜けた。ドルディノは優しく少年の両腕を外すと視線を正面へ向ける。

 そこへ、しびれを切らしたのか男の音量を抑えた声が飛んで来た。

 「おら! トロトロすんなや!」

 本当ならば怒鳴りつけているところであろう。

 どうして男が声を抑えるかは知らないが、これ以上刺激してしまうと自分はともかくイリヤの命に危険が及ぶ可能性が捨てきれなくなる。

 ドルディノは素早く腰を折った状態で立ち上がると、前屈みになったまま監視役の男の方へ向かった。

 男の手の平にはパッと見で、黒い布のようなものが握られていた。

 先刻、天幕の外から生えていた腕の手の平から取ったのは、これか、と思う。

 男に近寄りながらつい、黒い布のようなものの使い道を考える。

 ――これで、僕達を縛るのかな……。

 ある距離まで近づくと突然男の腕が伸びて来てドルディノの右肩を乱暴に掴み、無理矢理向きを変えさせられた。背中を向けさせられるとほぼ同時に、それまで鮮明だった目が暗闇に支配され、そこからこめかみを通り後頭部にかけてを、何かできつく締められるのを感じた。

 その正体を確かめたくて、調べるために反射的に右腕を上げて目元を覆っている物に触れようとするが、突然左腕を引っ張られたかと思うと右腕まで掴まれて、背後で両手の甲を合わせられ、両手首にもきつく締められる感触がした。

 身動きが取れないよう、場所が知れないよう、目と両腕の自由を奪ったようだ。それが終わると同時に体を勢いよく横に突き飛ばされ、ドサッ! と横転する。

 ジン、と僅かに叩きつけられた感覚が、体に残る。

 先行が自分でよかったなとドルディノは思った。

 これがイリヤなら、あの柔らかい肌では擦り傷ができてしまっていたかもしれない。

 「おら、坊主! 今度はおめぇだ」

 ドルディノを突き飛ばすことで苛つきを解消したのか、幾分男の声色が落ち着いているように聞こえた。

 この分なら手荒く扱われることもないだろう。

 そう思い、イリヤが男に従い歩いていく靴音を聞きながら、静かに溜め息を漏らす。

 イリヤと男の動く気配、衣擦れの音、そしてイリヤが漏らす僅かな声を耳にして、脳裏に今少年がされている状態を思い描く。

 数秒後、木が軋む音と馬車が揺れ、気配から監視役の男が動いたことを知った。そしてバサッと音がすると共に砂利を踏みしめるそれが聞こえ、続いて声が耳に届く。

 「よし。じゃあ行くか。お前ら黙って歩けよ。さもないと、後でひでぇめに遭わせるぜ」

 ――あ、この声……最初僕達を馬車に引っ張って行った人……。

 目が見えないため、音と気配で周囲を探るしかない。

 誰かが近づいてくる気配を感じた後で、後ろに回されている腕を掴まれた。そして気遣いもなくぐいぐいと引っ張られ、ドルディノは歩かざるを得なくなる。

 「あっ」

 「うっせぇ!」

 背後で、イリヤの僅かな声を遮るように男が音量を抑えた怒鳴り声を上げ、ドルディノの中で不安が生まれる。

 ――イリヤ君、大丈夫かな……。

 それからはイリヤの声が聞こえることはなく、男達に小突かれながらそれぞれ無言で歩き続けた。

 扉を開閉する音が聞こえ、そして歩き、扉が軋む音を耳が拾って階段を下り、また歩く。そして再度扉が開閉する音が聞こえると同時に、どん、と軽く背中を押された。躓きそうになりながらもなんとか凌いで、そのまま、まっすぐ歩いていく。

 どこまで真っ直ぐ歩くんだろう、と思っていると、体が何かにぶつかって思わず声を上げる。

 「わっ」

 ――な、なんだろう。硬い…………壁、かな?

 そんなことを考えていると背後から靴音が迫って来くる。

 ――イリヤ君、かな?

 気配を探るため、背後に神経を集中させていると、その何者かがドルディノの背中にどん、とぶつかって「わっ!」と声を上げた。その声色は確かにイリヤのもので、ドルディノは安堵の溜め息を漏らす。

 しかしその時、カチャ、という扉が開閉する物とは別の高い音を、耳が拾った。

 瞬間、ドルディノの中で警報が鳴る。

 思わず背後にいるであろうイリヤを庇う様に、男達が立っているであろう方向を向いて立ちはだかる。

 すると、どこからともなく、ヒューと口笛のような音が聞こえた。

 「俺達からガキを庇うってか。泣けるねぇ……! だが残念なことに品物には手出しできねぇルールがあるんでな」

 そう言うと、どちらか分からないが、男が靴を踏み鳴らしながら近づいてくる気配を感じた。ドルディノは動きたいのを我慢して、じっと立っていることにする。

 男の言葉からして、自分はともかく、会う前から『商品』として見なされていたイリヤが傷つけられることはない筈。

 そう思っての事だった。

 その推測は正しかったらしく、イリヤは無理矢理体を動かされたのか声を上げたものの、それ以上何も言わなかった。ドルディノの耳に聞こえたのは、ブチ、と何かが切れる音と衣擦れのそれだけだ。

 「暴れんなよ」

 そう一言言い残した声色は、馬車まで引っ張っていた男のもの。

 男はそう言うと靴音を響かせながら、二人から離れていく。

 そして、ガチャーン、と鉄がぶつかるような音が聞こえ、ドルディノは眉根を寄せる。再度躊躇することなく颯爽と離れていく靴音が聞こえ、最後に扉が開閉するそれを耳が拾い、静けさが横たわった。

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