第31話
少年のくすんだ灰色の髪が、どうしてもあの子を思い出せ姿を重ねてしまう。
会いたいけど、会えない。
そんな苦しい想いがこもった溜め息が、無意識に漏れ出した。
軽く頭を振ることで気持ちを追い払ったドルディノは、改めて少年に視線を向けた。
俯きがちになっている少年に、声を掛ける。
「……さて……これからどうしようか……」
その声に少年は顔を上げ、ドルディノを見つめた。
ドルディノは身を隠している壁から身を乗り出し、例の建物へ視線を向ける。
――あれが、奴隷商と関係があるとして考えて……。この子は、あそこで捕まっていたという話だから……一旦子供らをあそこに集めておいて、迎えに来るか、運ばれるかする手筈……なのかな。
過去の経験を元にそんなことを考える。視線を例の建物に向けたままでドルディノは、口を開いた。
「ねぇ」
「え、あ、何?」
「うん……君さ、奴隷にされるって話を聞いて逃げたって言ってたよね。その時、いつ頃迎えに来るとか……移動するとか、そういうこと、聞かなかった?」
「えっ……うーん……」
側で少年が唸り声を上げた。数秒程見守っていたが、それ以上答えが返って来ない気がして、ドルディノは少年から視線を上げて建物を見つめる。
人の声が聞こえたのだ。
店の扉に飾ってあるのか、カラン、と綺麗な音がすると同時に戸が開いて、中年男女の一組が出て来た。「美味しかったわー」と女性が男性に笑顔で話している声を耳が拾う。
――あの人達に、話を訊いてみるのもいいかな……。
そんなことを考えていたドルディノだったが、二人はこちらには来ず、違う方向へと歩いて行ってしまい、少し落胆する。
――うーん……本当に、普通の料亭にしか、見えないんだけど……上手く隠してる、のかな……。
ドルディノは、ちらり、と少年を一瞥した。未だうんうん唸りながら思い出そうとしている彼を見下ろして、心を決める。
――行ってみるしかないかな。
「ね、君」
「え?」
考え込んでいた少年はドルディノの声に顔を上げる。二人の視線が絡み合うと、ドルディノは微笑んだ。
「ちょっとあの中見てくるから、君、宿に戻っててくれる?」
ちょっと隣の芝生を見に行ってくる、と言わんばかりの軽さに、少年は驚愕する。
「ちょ、ちょっとあんた本気なの!?」
頭大丈夫? と言葉が続きそうな勢いだった。
ドルディノは少年の瞳を見て、しっかり頷いた。
「うん。それで、宿だけど……危ないし一旦一緒に戻ってから」
そう言ってドルディノが少年の肩に触れると、驚きに見張っていた彼の目つきが変わった。
睨んでくる少年に、今度はドルディノは目を丸くする番だった。
「おれは行かねぇぜ! ここにいる!」
「あ、危ないよ! ここに一人でいるなんて……」
「一人でぬくぬくとしていられるかよっ!」
必死で言い募る少年に、ドルディノは口を噤んだ。
――気持ちも、解るけど……でもやっぱり、残してなんて…………。
思案げにしているドルディノを見た少年は、あと一押しとばかりに言葉を続ける。
「ここから動かねぇから! それならいいだろ!?」
少年の真剣な表情に、やがてドルディノは諦めの溜め息を漏らした。
――てこでも動きそうにないし……仕方ないかなぁ……。
「……ん……。……わかった。でも、絶対……動いたら、駄目だからね? もしもの時は、僕の名前叫んで」
前半で満面の笑みを浮かべていた少年が、後半はむすっとしたものになった。そして、ついには視線を逸らし、俯きがちに地面を見つめ始める。
「……おれ……あんたの名前、しらねぇもん」
「あ……ごめん、名乗ってなかったね」
そう言って、ドルディノは苦笑しながらポリポリと右人差し指で頬を掻いた。
「僕はドルディノ。君は?」
「……おれは、イリヤ」
「じゃあ……イリヤ君。ここから動かないでね。さっきも言ったけど、危なくなったら僕の名前叫んで。……必ず、助けるから」
イリヤは顔を上げ、ドルディノを見つめた。
微笑みながらも強い意志を感じさせるその真摯な態度に、イリヤは改めてドルディノを信用し、静かに頷いた。
「分かった。あ……、……ドルディノ……も、無事で」
あんた、と言おうとしたが、少し恥ずかしげに視線を逸らして言葉を言い直すイリヤに、くす、と笑う。
「ありがとう。……じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう告げて背中を向けたドルディノは、建物へ向けて駆け出した。
扉を開けると、カランと涼やかな音が迎える。途端、熱気と酒、美味しそうな匂いと、何かよくわからない、一風変わったそれが漂って来て、ドルディノは目を細めた。
――なんだ……? この、僅かに香る……。一体、どこから……。
店内は、奴隷商人達が裏取引をしているとは思えない程、普通の料亭に見えた。美味しそうな料理をつつきながら、冷たい酒を酌み交わす男達、あつあつの湯気がたった料理を両手に持って運んでいる女性、その彼女たちを呼びつける新たな客。目に映るものは、どんな店でも見る風景だ。
ただ、気になるのは、僅かに香るこの匂いだけ。
甘く、それでいてまとわりついてくるような……。
ドルディノは、思わず息を止めた。
店内の様子を窺っていると、店の奥のカウンターの前に立って背中を向けていた女性が、ふいにドルディノの方を向いた。
視線が合うと、女性がお尻を振りながら近寄って来て、少し身を乗り出しながらドルディノの顔を覗き込む。
真っ赤な唇が印象的だった。
ふっくらした、艶やかな唇で言葉を紡ぐ。
「あら、若いお客さんねぇ……見ない顔だわぁ。……一人?」
「……はい」
そう答えると、女性はきゃらきゃらと笑った。
「やぁねぇ! すっごいカタイ声……」
そう言って、ふいに人差し指を伸ばしてくる。
唇と同様に真っ赤な爪先が胸元に触れそうになった時、ドルディノは僅かに体を反らせ、接触を避けた。
わざと避けた事を知っているのか知らないのか、女性は触れようとしていた指先をぴたりと止め、笑みを崩さないままでドルディノを数秒見つめた後、更に口角を上げ――……身を引いた。
「じゃ、お客さんはあちらの空いているお席へどうぞ」
彼女が指さした先には確かに空いている席があった。
店の一番奥の、右端。木製の、小さい一人用のテーブルと、椅子が置いてある。
ドルディノは軽く会釈をしてから女性の真横を通り過ぎ、真っ直ぐに向かう。椅子の背凭れに手を掛けたところで立ち止まり、素早く店内を見渡した。
やはり不審な所は見当たらない。
席を指さした女性も、今は他の接客にあたり、カウンター内にいる筋肉質な男は、酒を頼まれては出し、忙しなく動いている。
――これと言って変わったことは……。あの香り、くらいかな……。一応、もう少し探るか……。
手に掛けた椅子を引くと、木製の床がギギギ、と音を立てた。構わず腰を下し、テーブルの上に両手を置く。
年代ものだろうか。あちこち傷つき、痛んで、でこぼこしている。
テーブルに指先を走らせていると、ふいに耳が音を拾った。
コツン、コツンと真っ直ぐこちらへ近づいてきている靴音。
気づかぬ振りをしていると、足音は側でやみ、視線を落としているテーブルの上に赤い爪先が伸びてきて、ドルディノの指先の近くで止まる。
ドルディノは顔を上げて、側に来た人を見た。
そこにいたのは、この席を指示した女性。
「ご注文は?」
真っ赤に染まっている唇が笑みを象り、艶やかな光を帯びている。
「……飲み物、ありますか?」
何故か、ここの料理を口にする気になれない。
「そうねぇ……お酒は、もちろん飲まないでしょうから……パルカ水でもいかが? お兄さんには丁度良さそう」
その言葉から、多少揶揄を感じ取り、目を細める。
「……ではそれで」
硬い声でそう答えると、女性は無言で側を離れていった。
途端、ドルディノの口から溜め息が漏れる。
――なんだか、ここは……性に合わない……。
無意識にもう一度溜め息を漏らしたドルディノだったが、気を取り直してそっと瞼を伏せた。全神経を研ぎ澄ませ、耳に集中させる。
普段は、邪魔で制御しているこの能力も、こういう時には役に立つ。
聴く力を解放したが、しかし耳が拾う音は先刻までと変わらない。食器の重なる音や何かが煮えているそれ、客と店の者の声……。
けれど、その時。
ある声を耳が拾って、目を見開いたドルディノは素早く立ち上がった。
ドルディノは、焦っていた。
だが、冷静を装え、と頭の中で声が響く。
状況確認のため周囲に視線を走らせ、店の者が数名こちらを見ている事に気が付いた。
突然客が席を立てば、誰でも見るだろう。
逸る心を抑えながらドルディノは、頼んだパルカ水の代金をテーブルの上に置くと、ゆっくりとした足取りで、今まで腰を下していた席から離れた。それに気が付いた店の女性がお尻を振りながら寄って来て、ドルディノの前で行く手を阻むように立ち止まる。
ドルディノは冷静を装いながら、静かに見つめた。
「あら、お客さん……もうお帰り?」
店内に足を踏み入れた際、席に案内した女性とは別人の者がそう声を掛けて来て、ドルディノは微笑んだ。
「はい。急用を思い出したので。……では、失礼します」
余裕ぶった足取りで出入口に向かい、片腕を伸ばして扉を開ける。途端、キィ……と木が軋む音がすると同時に、上の方でカラン、と涼やかな音が鳴った。
扉を開けた瞬間から、ドルディノは耳を澄ませていた。その双眸は、先刻店に入る前、イリヤと別れた場所に向けられていた。
だが、そこには「待っている」と約束を交わした筈の、少年の姿はない。
代わりに。
ドルディノの耳には、イリヤが、彼の名を叫んでいる声がはっきりと聞こえていた。その声色と、乱雑な、砂利を踏みしめる足音。切羽詰まった言葉。伝わってくる雰囲気。
懸念していたことが、現実に起こってしまった。
恐らくイリヤは、奴隷商に関係がある者達に捕まってしまったのだ。
店の扉の前に立っていたドルディノは、そっと歩き出した。
必死に逃げようとあがいている、イリヤの声色を頼りに。
「オラ! ここに入っておけ!」
体躯のいい男がそう言い捨てると同時に、暗い、小屋の様な中へ、イリヤの背中を勢いよく押した。
ドン! と押されたイリヤの体は軽く前方へ投げ出され、地面に叩きつけられる。
「ぐっ!」
砂利の上を体が滑り、砂で汚れると共に子供の柔肌を傷つける。痛みが体を走り、イリヤは顔を顰めた。
悔しくて、泣きたくて、不安で。
土の上で拳を握りしめる。
そうして耐えていると、背後に立っているであろう男が吐き捨てるように言った。
「ちっ……! ったく、てめぇのせいでえらい目に遭ったんだぜ……! 憂さ晴らししてぇのは山々だが、商品に手を出すと俺がやべぇから我慢してやるんだ……有難く思いな!!」
「……っ」
文句の一つでも言いたかった。
だが、その後で起こるかもしれない事を考えると、口が開かない。
そんな勇気がない。
心の中で自分自身に悪態をつき、イリヤは脳裏にドルディノの姿を思い浮かべる。
――助けに来てくれるって、言ってたのに……!
そう、思った時だった。
「なっ、なんだ貴様!」
背後から突然、驚愕した男の声が聞こえて、イリヤは軽く目を見開いた。そして、肩越しにゆっくりと後ろを振り返る。
そうしてその瞳に映った光景に、更に目を瞠った。
自分を捕まえた男の背中。
その先に、ドルディノが立っていた。
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