第25話
重要な事柄が書かれた紙を何十枚も束にした、かさ張って重い書類を両手で胸に抱え、広く長い廊下を一人歩いている男がいた。靴音が静かな廊下にカツン、カツンと小気味よく響いて聞こえる。
その男は中肉中背で背が高く、靴音を踏み鳴らして歩く度に、首元で束ねられ腰の辺りまで伸びて揺れている黄金色の髪が、さらりと流れた。
目指すのは歩いている廊下の先にある、一枚の扉。
彼はそこまで辿り着くといつものように手を伸ばして扉を開けようとし……その手は何にも触れることなく空を掻いた。
扉は、軋んだ音を立てて勝手に開いたのだ。
しかし、彼には驚いた様子など全くなかった。
まるで、そうなるのが分かっていたように。
彼は胸に抱いている書類の束を抱えなおした後、一歩足を踏み出してその部屋の中へと入って行った。すると、背後で今度は勝手に扉が閉まったが、彼は振り向くこともせず真っ直ぐ進む。そうして進んだ先にあるひときわ大きい机の上に、ドサッと重たそうな音を立てて十センチ以上はあろうかという書類の束を置いた後、おもむろにそれの一番上を手の平でバン! と叩いた。
きりっと眉毛を上げて、通ってきたばかりの、背後にある扉を睨む。
正確にいうならば、そこに立っているであろう人物……を、だった。
扉を開閉したのも彼がやったこと。
「それで」
開口一番そう言った金髪の男は、扉の傍に立っている物腰の柔らかそうな、けれども同時に筋肉質な体躯を兼ね備えている、黒髪で灰色の瞳を持った男に話し掛けた。
「彼は?」
静まり返った執務室にその声はよく響いた。
ここは、竜族達が住まう町の奥まったところにある、王城の一室。
そして彼らは、この部屋の主である竜族の王子、ドルディノのお目付け役でもあった。
金髪の男、シードは眉根を釣り上げたまま、じっと黒髪の男を睨む。
シードは今朝起きたあと武術訓練を行い、その汗を軽く水で流してから必要書類に目を通し、またそれらの訂正等をしてからまとめあげ、王子に目を通してもらおうと今運んで来たばかりであった。
その苦労が、水の泡になりそうな予感を、彼はひしひしと感じていたのである。
それまで黙っていた黒髪の男は、ゆっくりと口を開いた。
「いやぁ~……いないみたい?」
その言葉でシードの脳裏で何かの切れる音がした。
「そんなの見てれば解ります! 王子は何処へ行ったんですか! あなたは何をしてたんですか!?」
「はははっ、まぁそんなキリキリするなって~。……血管切れるよ?」
ぶちぶち、と更に脳裏で音が聞こえた。
叫びだしたい衝動を、彼は、奥歯を噛みしめ握りしめている拳に更に力を入れることで、耐える。
限界ぎりぎりでなんとか保っているシードのことを知ってか知らないでか、柔らかな物腰でゆっくりとシードの傍に近寄っていった黒髪の男はにこっと軽快に笑った。
「実はさ~、俺も知らねーんだわー」
黒髪の男が漏らした言葉が、シードの脳裏で反響する。
数秒しっかり経ってから、シードは呟くように言った。
「……は?」
知らない。
知らないと言った。
お目付け役である筈のこの男は、確かに今、知らないと、言った。
シードの体が、徐々に怒りで震えだす。
爆発しそうなその怒りを流石に雰囲気で察知できている筈なのに、黒髪の男はまるで気が付いてないかのように笑った。
「いや~だってさ~俺が来た時には既にいなかったんだもん~」
その言葉を聞いて、シードの思考は一度止まった。
爆発寸前だった怒りもどこかへ一気に吹き飛ぶ。
「…………は?」
頭が真っ白になったシードは、その言葉しか返せなかった。
黒髪の男は組んだ両手を後頭部に回し、続けて言う。
「いや~実はさ~……」
そこで言葉を切って、シードの様子を窺うように数秒見た後、にぱっと笑う。
「昨夜からいねーんだわ」
新たな爆弾発言を落とされ、シードは黙り込んだ。
短髪の男から言われた言葉が脳裏の中を駆け巡り、それを理解するために数秒を要する。
そしてとうとうその言葉が身に染みた時。
「早く言えよこのバカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
雲一つない青空の下、幼馴染である黒髪の男マルクスに対して、限界まで発せられたシードの怒号がどこまでも轟いだ。
♢
海を連想させる、深いサファイア色の瞳。
その瞳が柔らかな光を湛え、自分に微笑みかけていた。
その目尻には、ほんの少しだけ、滲むものがあった。
綺麗な、涙が。
彼は、微笑んだ。
多分、目の前の、少年とも少女とも言える綺麗な顔立ちの子には、自分が微笑んでいても分からないだろう。判別できないだろう。
でも、それでもいい。
けれど、どうにかして今の気持ちを伝えたい。
そう、心から思った。
そして彼は、目の前の子供に、顔を突き出した。
一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに花が綻ぶような笑顔に打って変わり、頬を赤く染めてゆっくりと小さい手を伸ばしてきた。
その指先が優しく、自分の顔を撫でてくれて。
あまりの心地よさに、そっと瞼を伏せた。
そして、ふっと突然指の感触が消えた。
驚いた彼は伏せていた瞼を開き周囲を見渡そうとした。その次の瞬間、彼は目を見開いた。
自分は暗闇の中にいたのだ。
たった、一人きりで。
突如として消えた、温かいぬくもり。
彼は、それを探す為に自身の五感を頼りに駆け出した。
小さな音も敏感に感じ取る耳、遠くでも鮮明に視える目、些細な匂いから判別できる鼻、ほんの少しの変化も感じ取れる舌、僅かな変化でも解る感触。
それらを総動員させながら、彼は人間より数倍も丈夫な脚で、数倍も速く駆け抜けてその姿を捜す。
そうして数秒が経った時、背後から何かの音が聞こえた。
彼は足を止め急いで振り返った。
すると驚愕に目を見開く。
そこは、もう暗闇ではなかった。
燦々と照らす太陽。優しい風に吹かれて葉擦れの音を立てさせながら揺れる、エメラルド色に輝く木の葉。そして、小さな波音。
目を凝らし、耳を澄ませて鼻を利かせ、全ての変化を感じ取ろうと集中し。
そうして視えたものは。
よく知った小さい子供の、倒れている姿。
それを見た瞬間、彼は叫び声を上げた。
♢
「リアンーーーーーーーー!」
見開いた目に飛び込んで来たのは元は白かった筈の、あちらこちらに染みが出来てくすんだ天井と、宙に伸ばしている自身の手だった。宙を掻いたその手を下すと共に、左手をベッドについて体を起こし、胸までかかっていた薄い布を、ぐっと握る。
――久しぶりに、見た……あの子の、姿。
悲惨な状況を見てしまったおかげで、心臓がまだバクバク鳴っていた。
俯いて、溜め息をそっと漏らす。
――夢、そう……夢なんだ……。……あんなの……。だからどうか、夢で終わりますように……。
捜したくて会いたくて、思わず城を飛び出してきたのが三日前の事。
元気だったら、いいのだが。
元気な姿で、会いたい。
いいや、贅沢は言わない。姿を見られるだけでもいい。
それだけでも。
ドルディノは思わず天井を見上げた。その影響で、癖っ毛のある黒い髪がさらりと流れた。
「叶うかな……」
数秒そうして眺めていたが、ドルディノは顔を軽く振ると再度溜め息を漏らした。
「いや、……見つけるんだ。恩人を」
そして彼は、宿屋から出るためにベッドから立ち上がった。
「どうもーっ」
宿屋の扉を開けると亭主の声が背後から響くと同時に、カラン、と大き目の鈴が鈍く重たそうな音が立ち、扉が閉じた。外に出た瞬間、緩やかな風と陽光に迎えられ、その眩しさに素早く光を遮るために手の甲を額の前に出す。
ドルディノの顔に、小さい影が差した。
――天気のいい日だなぁ……。
ほんの数秒眺めた後、ドルディノは腕を下すと同時に見上げていた顔を正面へ向けた。
――さて、これからまず、どうしようか……。
衝動に任せ飛び出して来てみたものの、特に考えも浮かばない。
――奴隷……。商人か、盗賊か……そういう関係のところに潜り込めれば、何かが掴める……?
ゆっくりとした足取りで歩き出し、軒並みをじっと見つめながら、考えを巡らす。周囲では露店が並び、客を呼び込もうと店の者達があちらこちらで声を張り上げているが、その言葉はドルディノの頭の中には全く入ってこない。
――裏世界……でも、どうやって入り込めば……。ああ、城を出たのは失敗だったかな……。
今更ながらに自分の短絡思考を憎たらしく思う。
「はぁ……」
歩いていた足を止め、右の手の平で俯いた顔を覆った。
「けど、今戻ったら……」
脳裏に怒り爆発のシードと、それを笑いながら静かに見守っているマルクスの姿が過り、ぶるぶると頭を振った。
「冗談じゃない……」
そう、低く呟いたとき。
腰に、軽い衝撃を受けて驚きに目を見開いた。何があったのかと素早く振り返り、その目に飛び込んで来たのは。
銀。
ドックン、と心臓が強く跳ねた。そして連続的に続く鼓動。
――いや。
違う。
銀ではなかった。
それは、くすんだ灰色の、髪。
――びっくり、した……。
未だに、心臓はバクバク鳴っていた。そうして手に汗が滲んでいることに気が付き、ぐっと握りしめる。
――落ち着け……この子は、違う。
自分にそう言い聞かせながら、数秒その子供を観察する。
そうしていると突然顔を上げた子供の目と視線がぶつかった。
そして、ドルディノは目を見開いた。
――この子、どうしてこんなに怯えた顔を……?
眉根を寄せ、恐怖に支配され今にも泣き叫んでしまいそうな顔をしている。
いや、叫んでないのが不思議なくらいだった。
「君……どうし」
「あそこだー! あそこにいるぞっ! 捕まえろ!」
自分の言葉を遮るように男の声が聞こえ、ドルディノは顔を上げて子供から視線を逸らした。数十メートル先から、人混みに紛れて数人の男達が荒ぶった声を上げながらこちらに向かって来ていたのだ。
素早く視線を腰に抱きついたままになっている子供に落とすと、僅かに体が震えていることに気が付く。
――追いかけられて……?
再度素早く顔を上げ、男達を見る。
だんだん距離が縮んで来ていた。
――このままじゃ……。
ドルディノは子供の震える肩に手をやり、その瞬間大きく震えたその背中をポンポンと優しく叩いたあと、まだ小さい手を素早く掴む。
「走って」
そう言って駆け出した。
しかし、走り出したものの子供の腰は引けていて、若干強制していることは否めなかった。
それでもドルディノは子供の速度に合わせながらも足を止めずに軒並みに向かって走り続た。いくつか通り過ぎた後暗い路地を見つけ、一瞬背後を振り返り男達が自分を指さしながら追いかけて来ていることを確認すると視線を戻し、子供の手を握りしめたまま暗がりに滑り込むように身を隠す。
そして、耳を澄ませた。
――追って来てるな……。
乱雑な足音が、ドルディノの耳にはしっかり聞こえていた。
引っ張って連れて来た子供に視線を落とすと、前屈みになって大きく肩で息を吸っている姿が目に映り罪悪感が湧いてくる。
――ちょっと速かったかな……。
だが、近づいてくる足音は止まらない。男達の罵り声も徐々に大きくなっていっている。
もう、あまり時間がない。
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