第20話
数秒してから、状況を飲み込もうと、頭がようやく働き出す。
最初に頭に浮かんだのは、疑問。
――え……? 今の、誰の声……?
やけに近くで聞こえた。
でも。
今、自分の傍にいるのは、たった一人だけ。
まるで、機械仕掛けのような動きで、ゆっくりと、正面に向いていたリアンの顔が肩越しに背後へ向けられる。
見開かれたその双眸に映ったのは、やはり少年の顔だった。
真剣な表情で、一心にリアンを見つめていた。
瞬きする時間すら惜しいとでもいうように。
母の事だけで埋めつくされていた思考が、今度は何者かに囁かれた声の事だけになる。
短い、永遠とも思えるような数秒の後、リアンは何かを言おうとして口を開けたが、言葉が出て来ず、そのまま閉口させた。
声の主は、少年じゃない筈だ。
だって、この子は喋れない。
じゃあ、誰?
困惑していると、リアンの見ている前で少年の口がゆっくりと開かれた。
「行かないで。早く逃げて!」
飛び出してきた言葉と同時に聞こえた、幼い声色。
聞こえたものが信じられなくて。
リアンは、少年を茫然と見つめた。
「しゃ、べった……」
「気づかれる前に、早く! 君だけでも……!」
極力大きな声を出さないように抑制られた言葉。
切羽詰まったその声と言葉が、リアンの頭の中に浸透し、己の置かれていた状況を思い出させる。
はっと我に返ったその瞬間、それまでリアンを見つめていた少年が顔を上げ、視線を正面に向けた。
今やありありと、少年の顔に焦りが浮かんでいた。
嫌な予感を感じたと同時に、砂利を踏みしめる音と、重たそうな音が耳に届く。
決して、無視できない音。
リアンはそろりと、背後を振り向いた。
すると、その目に、重たそうな大きな服を着込み、片手に何センチもあろうかという刃物を握り、下卑た笑いを響かせながら近づいてきている大勢の男達が映った。
それを見た瞬間、貴重な時間を無駄にしてしまったことに、ようやく気付いた。
しかし、後の祭りだ。
――ど、どうしよう……!
無意識に体が震え始める。
血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
――こ、怖い……!
心臓が、口から飛び出そうな程飛び跳ねているのを感じた。手先が震え、汗が背中を流れる。
――いや……お、おかあさ……!
母を思い浮かべ、これから先どうなるか分からない恐怖で、目をぎゅっと閉じる。
すると、側で足音が聞こえた。
思わず目を開けると、そこには背中があった。
少年の。
庇われている。
「あ……」
リアンの口から、か細い声が漏れた。
「逃げて」
はっきりと、もう一度告げて来た少年の言葉に答えたのは。
「はっはっはっはぁ! 面白いこと言う坊やだぜ!」
「おいおい聞いたかぁ~? 逃げるんだってよ! 俺らから!」
「ひゃーはっはっはっは! 笑かしてくれる!」
「俺らがそんなに腑抜けに見えるってのかよぉ~? ひっでぇなぁ~」
「無理無理!」
「坊ちゃんや~そういうこと言ってっと、ひんむいちゃうぞぉ~?」
次から次へと男達が喋り、腹を抱えて馬鹿笑いをする。
端から見ればバカバカしく呆れる光景だが、リアンには恐怖を煽るものでしかなかった。
無意識に手が伸びて、目前で護るように立っている、小さいが逞しく見える背中の裾を、ぎゅっと掴んだ。その指先は、僅かに震えている。
その、僅かに後ろに引っ張られた感触が、少年に力を与えた。
頼られている気がして。
そんな状況ではないのだが、少年は心が温かくなるのを感じた。
自身の中の保護欲が膨れ上がり、背中に庇っている人を護らなければ、という気持ちで一杯になる。
「へっへっへぇ~」
「おいおい見ろよセンザ! この坊や、俺達とやる気だぜぇ?」
「ぷはははははっ俺達も落ちたものだなぁ~。なぁ?」
そう言って、センザと呼ばれた男は左隣の男の肩に腕を回し相槌を求める。
「ああ」
下卑た笑いを顔に浮かべたまま短く返事を返した男は下した左手に握っているままの刀剣を、腰に携えている半身の鞘へ、カチャンと音をさせて戻すと、空いた両手を胸の前で組んだ。
そして、続けて口を開く。
「ほんじゃまぁ、とっとと終わらせようか!」
その男の一声で、リアンと少年を捕獲しようとしていた残りの男達が喜々とした声を上げると同時に腕を振るい上げ一斉に襲い掛かって来た。少年はリアンを巻き込まないよう咄嗟に前に走り出し男達へ立ち向かって行きながら、目を走らせた。
捕獲の合図の一言を放った当人は、にや笑いをしながらその場を動かず、他の者の動きを見守っているようだ。
残る敵は五人。
大分距離が空いた奥の方では、男達の上げた声が聞こえたのかこちらの方に皆の視線が集まっているようだった。捕まったこの村の人達も、絶望を浮かべた表情で見ている。
ほんの一瞬でそれを把握した少年は素早く視線を戻し、目の前に迫っている男達に集中する。三人の男達が前に出て、残りの二人はやや遅れて後ろに並んでいた。少年を捕まえるのに男五人もいらないということなのだろう。
目と鼻の先まで距離を縮めた三人の真ん中が、勢いの削がれている拳を突き出してくる。
子供だと思いバカにしていることは明らかだった。
突き出された男の腕に素早く右手の甲を当て、滑らしてやり過ごし、それによって一気に縮んでいく男との距離を冷静に見つめる。
まさかこんな子供が拳を避けれると思ってもみなかったのだろう。余裕だった男の顔が、自身が襲いかかった時の勢いを殺せないまま一気に、鋭い目を細め冷静に自分を見つめてくる少年との距離が縮んでいくことに気が付いた途端、驚愕に変わる。
そして次の瞬間には、男の開いた口から唾が飛び出して宙を舞い、前のめりになった直後、男の恰幅のいい体がゆっくりと飛んで背中を強かに地面に打ち付けて倒れこみ、砂煙を舞わせた。
男が白目をむいて仰向けに倒れ、その足元に立っていた少年は、拳を作って直角に曲げていた右腕をゆっくりと下し、驚愕の表情を浮かべ立ち尽くしている残りの男達の様子を窺う。
左端を陣取って襲いかかってきていた男が一番最初に我に返り、「てんめぇ……!」と叫びながら腕を振り上げ全速力で再度襲い掛かってくる。その男の声で遅ればせながら我に返った、右端を陣取っていた男は左端の男の後を追い、後ろに控えていた男達は鞘に収めていた刀剣をどちらからともなく抜いて胸の前で構えた。
すべての状況を見て取った少年は斜めに伸びて来た左端の男の逞しい腕を素早く身を屈ませて避ける。と、遅れて斜め方向から追撃してきた右端の男と殴りかかった勢いのままで通り過ぎていく左端の男の体が並んだ瞬間、左端の男の体を全力で真横に押した。
突然のことに対処できなかった左端の男は右端の男に勢いよくぶつかり、叫び声を上げながら地面に共倒れになる。
倒れた瞬間に後頭部でも打ち付けたのか、左端の男の下敷きになった右端の男は身動き一つせず、仰向けに倒れ込んだままだ。左端の男は「いってぇ……」と声を上げながら顔を顰め、打った個所なのか後頭部を手の平で押さえながらゆっくりと上半身を起こす。
それを黙って見ていた少年だったが後ろに控えていた残る二人の男達が、刀剣を振り上げ一斉に跳びかかって来て、意識をそちらに向けることを余儀なくされた。
剣が、風を切り裂いて勢いよく二方向から振り下ろされてくる。
しかしその真ん中は狭いながらもがら空きだった。
子供の自分なら通れる。
少年は前のめりに身を屈めると同時に、大きく左足を踏み出し、持ち前の瞬発力で二人の間を一瞬で駆け抜け素早く回転し、左側の男の広い背中に勢いよく蹴りを入れて転ばせた。
ドサっと重たい音が響くと同時に砂煙が舞い、男の口から呻き声が漏れた。右側の男は斬った筈の少年が消えた事に驚愕し仲間が大地に伏せた姿を見ると慌てて背後を振り返った。
そして次の瞬間、男は別の意味で驚愕し、次に顔に余裕の笑みを浮かべる。
男の双眸には、少年が、ずっと静観していた男に両腕を捉えられて背中に回され、逃げようともがいている姿が映っていたのだ。
「へ、へへ……」
冷や汗をかいていた男だったが、左の人差し指で鼻をすすり、にやつきながら何気ない風を装う。そして右手に握りしめていた剣を腰の鞘に収めると足早に少年を捉えた男の元へ近寄り、肩をポン、と叩いた。
「よくやった!」
だが、次の瞬間。
「ぐはあっ!」
ドガッ! と鈍い音と共に男の体が宙に舞った。
大地に強かに背中を打ち付けた男は、後頭部を強打し、苦痛の声を漏らす。その手は、みぞおちに当てられていた。
男に蹴られたのだ。
少年の手首を握りしめている男はチッと舌打ちをし、「バカが」と呟く。
「ノロマが。俺に触るんじゃねぇ。アホが移るだろうが」
吐き捨てるようにそう言い、男の視線がどうにか抜けようとしてもがいている少年へ向けられ、次にぶるぶる体を震わせ顔色を真っ青にしたリアンへ移る。
ふん、と男は鼻で嗤った。
「逃げて! 早く!」
自分は逃げられないと悟った少年がリアンに向かって叫び、驚いたリアンが体を大きく震わせた。
逃げたかった。
でも、足が鉛のように重く、動かない。
それに、怖かった。
一人で逃げるのが。
リアンは、恐怖から目をぎゅっと瞑り、頭を振る。
それを見た少年が息を呑み、静かになった場には、それがよく響いて聞こえた。
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