第19話

 心臓が、緊張と恐れで、ドックンドックンと跳ねていた。その振動が、無意識に胸に置かれた手に伝わり、僅かに震える。

 湧いた唾を飲み下し、リアンは永遠とも思える数秒間、少年の反応を待った。

 一瞬きょとんとした様子を見せていた少年はリアンの言葉の意味を理解すると、慌てて両手を顔の前で左右に激しく動かしながら同時に頭を振りだした。癖っ毛のある、初めて出会った時より少し伸びた漆黒の、艶かな髪が宙で踊る。

 懸命に否定しようとするその姿を見て、ほっとした。だがその半面、まだ納得できていない自分がいた。

 だって、こうもタイミングよくあの大勢の人間達の目を逃れ、丘の上に逃げおおせることが果たして出来るものか?

 リアンの脳裏に、少年の必死の形相が浮かんだ。

 ぐいぐい腕を引っ張られて連れて来られた。リアンがいくら声をかけても足を止めなかった。まるで、時間がないとでもいうように。

 じっと自分を見つめるリアンの双眸に、訝しげな感情が含まれているのを読み取ったのか、少年は苦しそうな表情をしている。

 その様子を見て、リアンは何かを振り切るように頭を振った。

 この少年のことを今怪しんでいても仕方がない。

 それに彼は、命の恩人でもあるのだ。恩人に対して疑うのは、あまりにも無礼ではないだろうか。それに直接彼がなにかをしたのを見たわけでもないのだから。

 そして今は、そんなことを考えている時ではない。

 リアンの視線が少年から逸らされ、眼下の浜辺に向けられる。

 次の瞬間、リアンの目が驚愕で大きく見開かれた。

 大勢いた人間達が、いつの間にか少数人数になっていたのだ。

 ――どうして……? 戻った……? いいや、そんな訳ない……そんなに早く帰るなら、来た意味もないし……。でも、じゃあどこへ……。

 そこまで考えていた時、ふとある事が頭に浮かび、はっと息を呑む。

 ――まさか……?

 リアンの視線が、ゆっくりと村へ続く方向へ向けられた。

 ――まさか……!

 衝動に突き動かされ、リアンの体が向きを変える。

 村に続く方向へと。

 足を一歩踏み出そうとした途端何かに引っ張られて、ガクンと体が後ろに傾いた。素早く振り向くと、少年の灰色の瞳と視線がぶつかり合う。

 彼は、どこか焦ったような顔をしていた。そして何かを言いたげに口をパクパクさせているが、そこから言葉が紡がれることはない。何かを必死に伝えようとしている少年の姿がリアンに軽い衝撃を与えたが、それまでだった。

 自分だって、こんなところで悠著に構えている暇はないのだ。

 「ごめん、放して!」

 突き放すように言ったと同時に腕を掴んでいる少年の手を払いのける。あまり力を入れていなかったのか、あっけなく外れて腕が自由になり、すぐさま身を翻して坂になっている森の中を全力で駆け下り始めた。

 背後から少年が後を追って来ている足音がリアンの耳に届いていたが、足を止めることはせず村へ戻るためにひたすら走り続けた。

 


 永遠とも思えた短い時間を駆け抜け村へと徐々に近づいていた時、リアンの耳が何かの声を拾った。初めは森に住んでいるであろう動物の鳴き声かと思い、気に留めずに走っていたが、やがてその声は村との距離が縮まっていくたびに大きくなっていっていることに気が付いた。

 それが解った途端、リアンの心の中に不安が巣食った。

 なにか、とんでもないことが起こっていそうな気がし、戦慄が走る。

 嫌な汗が背中を走り、心臓が大きく跳ねた。

 生唾が湧いて、ゴクリと飲み下す。

 走っていたはずのリアンの足はいつの間にか速度を落とし、歩いているのとほぼ同じになっていた。その隙を見逃さなかった少年の腕が背後から伸びてきてリアンの腕を掴み、ぐいっと引っ張られて向き合わせられる。

 少年の灰色の双眸と目を合わせたリアンの瞳は、揺れていた。落ち着かなげに目を泳がし、気もそぞろだ。

 村が気になって仕方がないが、先に進むのは躊躇しているのだ。

 しかしそれも仕方のないことだった。村まであと数メートルといった所まで来ているのだが、目的である方向から、喧騒が響いて聞こえてきていたのだ。

 

 鉄がぶつかり合っているような高い悲鳴のような音。

 そうかと思えば何か重たいものが倒れたような音。

 村人と思われる人達の、助けを叫び、子供の名前を呼び、泣き叫ぶ声。

 殴られたか斬られたのか、悲惨なものを想像させる断末魔のような悲鳴。

 

 そしてそれらとは正反対の、腹から出しているような野太い雄叫び、がなり声、歓声、何かを囃し立てているようなものまでと、多岐にわたっている。


 離れていても伝わってくる禍々しい雰囲気と予感は、まだ十過ぎたばかりのリアンの足を止めるに十分なものだった。

 過分すぎるほど。


 少年は苦しそうな表情をしていた。何かを耐えているような。

 そしてぐっと唇を噛みしめたと思ったら、掴んでいるリアンの腕を引っ張って村に背を向け、歩き出す。この場から一刻も早く去りたいが、派手な音を立てて見つかるのを恐れているのだろう。最初はゆっくり、そして徐々に速度を上げていく。

 村で起きている得体のしれない恐怖に頭が真っ白になり思考を奪われたリアンは、少年に引っ張られるまま、一歩、また一歩と足を動かしていた。

 だが、その時。

 風に乗って新たに聞こえて来た声で、リアンの足が止まった。

 それにより、今度は少年が背後に引っ張れる格好となって足を止めざるを得なくなった。

 素早く振り返った少年の、灰色の双眸に映ったリアンは、俯いていた。

 表情が解らない。

 少年は空いているもう片方の手をリアンに伸ばし、その細い肩に触れようとした。

 が、それは叶わなかった。

 リアンは踵を返し、全速力で走り出していた。

 

 俯いていたのを見て、油断したのだ。

 それが災いし、またもやリアンの腕が少年の手から放れてしまった。


 少年は先行くリアンの小さい背中を、全速力で追い掛けた。


 リアンの奪われた思考を戻したのは、よく聞き覚えのある声だった。

 最愛の、母。

 物心つく時には父の姿などなく、女手ひとつで今まで育ててくれた、優しくも厳しくもある、母。

 その母のか細い声を、確かにリアンの耳は拾ったのだ。

 それは、先刻まで体中を支配していた恐怖を忘れさせるのに十分な効果を持っていた。

 頭の中は母の事で埋め尽くされ、他の事は考えられなくなっていた。

 ――お母さん、お母さん……! 待ってて! 今から行くから……!

 あの優しい母が苦しんでいるのなら。助けを求めているのなら。助けたい。

 その一心で森を駆け抜け。

 とうとう、リアンの足が村の中へ、一歩踏み出した。

 

 そして、目を見開いた。

 

 所々赤く染められている大地と、側に倒れている男達。

 血だまりになっているところさえ、ある。

 抵抗したのだろうか、何かを引き摺ったような跡や、乱闘が起きたのか、そこらへんに足跡がごちゃごちゃについていた。よく見ると服の切れ端まで落ちており、その衣は砂で汚れ皴が寄り、踏みつけられたのか足跡や、赤いものがついていた。

 「なん……なの……? どうして……?」

 混乱する頭を、片手で覆う。

 直視したくない、現実。

 しかし、夢ではない。

 だって、心臓は壊れるのではないかと思う程、暴れまわっているのだから。

 手は震え、足は竦みまるで鉛が入っているかのように重く、動かない。

 リアンが立ち尽くしていたその数秒間で追いついた少年は、小さく細い肩を掴んでそれ以上進めないようにすると、大きく足を一歩踏み出し、隣りに並んだ。しかし俯いているリアンの表情は読めず、顔を覗き込む。

 覗き込んできた少年と視線が合うと、リアンは俯いていた顔をゆっくり上げた。その影響で自然に目線が遠くに行き、新たな景色をその双眸に映しだす。

 その瞬間、リアンの目が再度見開かれた。

 衝動に突き動かされ、無意識に足が一歩前に出る。

 しかし肩を後ろに引かれると同時に、暖かさを覚えた。そして、圧迫感も。

 無意識にそれが何なのかを、頭が考える寸前。


 

 「行かないでっ……! 行っちゃだめ……!」

 

 

 見知らぬ声が、耳元で聞こえて。

 

 

 リアンの思考が停止した。

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