第10話

 リアンは視線をクロに戻し、声を掛けた。

 「クロちゃん。あの子は私の友達だから大丈夫。怖がらなくていいよ」

 その声に反応し、クロは視線をリアンへ落とす。

 そして突然、リアンの見ている前でクロの体が宙へ浮いたと思ったら落下してきた。

 それに驚いたのはリアンの方で、心臓が跳ねあがり、怪我をさせるまいと焦って両手をクロへ差し出す。

 「わわわわわ!」

 しかしクロは、重たい音を響かせ砂埃をたてながら真横に難なく着地して、焦って落ち着きを無くしたままのリアンと視線を合わせた。

 落ちついた灰色の双眸をと目が合ったリアンは、安堵の溜め息を漏らすと同時に心が落ち着いていくのを感じ、微笑む。

 「びっくりしたよーもう!」

 すると、言葉を理解しているのかしていないのか、クロの長い尻尾が宙をかいて砂の上にパタリと落とされる。それを見たリアンはまた笑った。

 だが、次の瞬間クロの丸かった目が細められ、視線がリアンから外れて海の方へ向けられる。その視線の先を追うようにリアンも同じ方向へ向ければ、そこにはこちらに向かっている途中のロディがいた。

 首元にまでかかっている長めの銀色の毛先が、受ける風によってさらりと流れるように揺れ、ロディの勝気でつり目の青色の瞳は、しっかりリアンとクロを捉えている。

 ――警戒、しているのかな。

 ロディの動きを見守っているクロの横顔を見ながらそんなことを考え、リアンは口を開いた。

 「クロちゃん、心配しなくて大丈夫だからね。……ロディ」

 ロディの名前を呼びながら、リアンはクロの真横を通って歩いてくる友達の方へ向かう。クロは静かにそれを見守っていた。


 「リアン」

 ロディが名を呼んで数秒後、お互いに向かって歩いていた二人は手が届く距離まで近づくと、どちらからともなく足を止めた。

 ロディの腕がリアンの左肩から右肩へ回され、その重さで一瞬リアンの腰が曲がり体が沈む。リアンの左手が自然に右肩に垂れているロディの右手に伸び、掴んだ。

 リアンが顔を上げ、視線がロディと絡まる。

 ロディは、リアンと目が合うと、にっ、と笑った。

 「あれが、リアンの友達ってやつ?」

 そう言うと顔を上げ視線をリアンから背後のクロへ向ける。リアンはロディの右手を掴んだまま、体の向きを変えてクロと向き合うような形にした。

 「うん、そうだよ」

 「へぇー、かっこいいな! 黒くて、体はがっちりしてるけど艶めいてて、凛々しい。つかあれなんの動物?」

 問われ、リアンも答えに詰まる。

 解らないので答えようがない。

 「うーん……名前とかは、知らない……」

 ふぅん、と呟いたロディは、リアンの肩に回していた腕を外し、解放した。ロディの視線はずっとクロへ注がれている。

 目を細めてじっとクロを見つめるロディの横顔を、リアンは黙って見つめていると、ロディが口を開いた。

 「翼あるみたいだけど、飛べんの?」

 訊かれ、リアンの視線が自然にクロへと向かう。

 「え、見たことないからわかんない」

 「ふぅん。ところでさ、その紙袋さっきからいい匂いするんだけど、何?」

 訊かれて、体に電流が走ったかのように我に返る。

 「あ! そうだ、ご飯!」

 「ご飯?」

 ロディの問いには答えず、リアンは小走りでクロの元へ行くと、手が届く距離で立ち止まり紙袋を開けた。途端に小麦のいい香りがリアンの鼻孔をくすぐる。

 「クロちゃん、ごめんね遅くなっちゃった」

 言いながら慌てて紙袋からパンを取り出すと、その口を折って封をし、顔を上げてクロを見る。

 それから少し離れた所に立っているロディに目線を投げ、ロディが僅かに微笑んだまま見守っているのを確認する。再度視線をパンへ落としたリアンはいつものようにそれを千切って、欠片をクロの口元に伸ばした。すると間を置かずクロの口から伸びた赤い舌がパンを絡め取り、口の中へと運んでいった。

 幾度かそのやり取りをした後、パンを全て千切り終えたリアンは両手でパンのくずを払うと、視線をクロへ向けた。

 青色の双眸と灰色のそれが絡み合う。

 数秒の後、クロの顔がそっとリアンの方へ近づいて来て、ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離で動きが止まった。

 初めてのその行為に、リアンは嬉しさで心臓が高鳴るのを感じ、歓喜で心が打ち震えた。

 花が綻ぶような笑顔を湛え、頬を僅かに赤く染めたリアンは、伸ばされたクロの顔に触れてもいいか迷い、緊張からゴクリと唾を飲み下す。

 そして、嫌なら顔を逸らせるほどの、時間の余裕を持たせながらゆっくりと手を伸ばし――……クロの鼻筋に、指先が僅かに触れた。

 初めて触れたその肌は、思っていたより骨ばっていて固く、ごつごつしていたが、陽光に照らされて艶やかに光を帯びている。

 鼻筋に沿って壊れ物を扱うかのように優しく上下に指先を滑らし始めると、今まで気付かなかった、クロの扇状に生えている長く綺麗な睫毛が僅かに震え、ゆっくりと閉じられていく。

 それを見て、リアンは感動のあまり、目尻に涙が滲み始めるのを感じていた。

 ――こんなに……こんなに、あなたは私を信頼してくれるようになったんだね。だったら私は、あなたのその気持ちを裏切るようなことはしないと、心から誓うよ。……ありがとう……。名前も、種族も、知らない子……。

 「あなたは、本当に……なんていう動物なのかな。とっても知りたいよ……」

 右手でクロの鼻筋を優しく撫でながら、紙袋を握りしめた左手の人差し指で、僅かに目尻に滲んだ涙をそっと拭う。

 ロディは、そんなリアンと一匹の動物の触れ合いを、温かみのこもった優しい目で静かに見守っていた。



 そうしてロディ、リアン、クロの順で浜辺に座り昼食を皆で摂った後、午後まで海を眺めていたがふとロディがリアンに話し掛けた。

 「そういえば、クロちゃんだっけ? その子がここにいること、他には誰か知ってるの?」

 その問いに、リアンは海の波打つ音を聴きながら、答える。

 「ううん……ロディが初めてだよ」

 「そっか。……ロネが知ったら悔しがるな」

 その言葉を聞いて、リアンは視線をロディに向けた。

 「え?」

 すると、視線が合ったロディはニヤッとからかうような笑みを浮かべる。

 「気が付いてるだろ。ロネ、リアンのこと好きじゃん」

 言われて、リアンの心臓がドックンと強く跳ねた。緊張で顔が強張り、体が固くなる。

 「……好き、って……さ、私たちは……」

 言葉に詰まるリアンを見て、ロディは視線をリアンから逸らし、海を見つめた。

 「分かってるよ言わなくても。未分化だからな、どっちに転がるかわからないし。将来どうなるかわかんないけど、親愛の情は永久に変わらないと思うぞ。……家族だから、なんとなくわかるんだ」

 「そっか……私は一人っ子だから、わかんないや……」

 そう呟くように言うとリアンも視線を正面へ向け、サファイア色に輝く海を暫くその双眸に映していた。



 それから数時間後、リアンはクロに夜にまた来るねと約束をしてから、ロディと共にクロに別れを告げた。暗くなる前に森を抜けてそれぞれの家に帰途し、夕食を食べ終わり、さて寝ようかという段階に入った時、静まっていたリアンの家の室内に荒々しいノック音が響いた。

 びっくりして飛び起きるように立ち上がった母親とリアンが扉の前まで行くと再度焦ったようなノックがされて、木製の扉が震えた。

 「どちら様?」

 それでも母親は平静を努めた声を出し、遠回りに名乗りを上げよ、と伝えると、扉の外からくぐもっている大きな声が聞こえた。

 それはまるで、叫んでいるかのようだった。

 「夜分遅くにすみません! ロディです! リアンいますか!?」

 その言葉を聞いて目を瞬いたリアンと隣に立っている我が子へ向けた、目を白黒させている母親の視線が絡み合う。

 そして正面に視線を戻した母親が今度は躊躇することなく玄関の扉を開けると、まるで転がり込むようにロディが入って来るや否や、視線を素早く家の中に走らせたかと思うと、母親の傍に立っているリアンを見つけては飛びつくようにその肩を勢いよく掴んで、口早に言った。

 「ロネ来なかったか!?」

 「え、ええ!?」

 突然突拍子もないことを訊かれて、リアンは勢いよく頭を振った後慌てて答える。

 「来てないよ! どうしたの!?」

 「くっそ、どこに行ったんだあのバカ……!」

 そう吐き捨てるように言った後身を翻して出ていこうとするロディの腕を掴み引き留めると、リアンは真剣な表情で慌てながら口を開いた。

 「どういうこと!? 居なくなったの!?」

 その言葉にロディは再度リアンへ目線を合わせると、苦虫を噛み潰したような顔をして、重々しく頷いた。

 「あいつ……ちょっと、ボクと口喧嘩したあと、家を飛び出していったんだ!」

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