第8話

 「ただいまー!」

 元気のよい声を張り上げながら自宅の扉を開けると、美味しそうな匂いがリアンの鼻孔をくすぐり、同時に台所に立って鍋をかきまわしている母親と視線が合った。

 「お帰り、リアン」

 手を止めぬままそう声を掛けてくる母親の所へ、リアンは早歩きで近づいて行くと腰に抱き着く。その温かさ、柔らかさ、を感じながら母親の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、心が幸せに満たされる。

 「あらあら、どうしたの? 何かあったの?」

 上から声が落ちて来て、リアンは顔を見上げずそのままの格好で答えた。

 「ううん、何でもないよ」

 ――ちょっとだけ甘えたくなっただけだもん。

 一層、母親の腰に回している腕に力を込めて、ぎゅっと抱きしめた。


 夜になり、母親が床について寝息を立てはじめてから、リアンは昨夜と同様カンテラと取っておいたパンを包んだハンカチを持って家の外へ出た。辺りは暗く、カンテラの柔らかい光と、これまでの間に自然と体が覚えていた感覚を頼りに歩いていく。

 足音が普段より大きく聞こえる中をゆっくりと歩き、森の入り口に差し掛かった時、突然正面の草が葉擦れの音を響かせながら揺れ動いた。

 驚愕して叫びそうになった瞬間、反射的に空いている左手で口元を覆い、声が漏れないように防ぐが、心臓がドックンドックンと大きく打っているため周囲に聞こえてばれることを不安に思い、無意識に体が縮こまる。

 素早く視線を走らせ、近所にある人達が家から出てこない事を確認し、安堵してから視線を正面に戻すと、溜め息を漏らした。

 ――あー、びっくりした……。手に汗が出ちゃった……。

 カンテラの柔らかい光で左手の平を見ながら、軽く握っては開いてを繰り返す。そして何が居るのかを確認するために、カンテラを正面の草むらに掲げた。橙色の柔らかい光がぼんやりと草むらを照らすと同時に葉擦れの音が響き、左右に揺れ動く葉の間からぬっと何かが頭を出して、リアンはまた叫びそうになるのを堪えねばならなかった。

 暗闇の中柔らかい橙色の光に照らされてソレの双眸が金色の輝きを放ち、リアンは一瞬恐怖に支配され飛ぶように一歩後ろへ下がる。後ろに引いたことで光が差す範囲からソレが外れ、金色に光っていた双眸も正常のものへと変わり、恐ろしさ故に歪ませていたリアンの表情も、打って変わって驚愕のそれになった。

 「クロちゃん!」

 驚きのあまりつい叫んだが、すぐ我に返る。

 ――あっ、しまった!

 慌てて左手で口元を覆い、忙しなく周囲に視線を走らせ、起きた者がいないかを確認する。先刻とは違う意味で心臓がドックンドックンと強く打ち始め、背中に嫌な汗が流れて血の気が引くのを感じていた。

 数秒、そのままの状態で不安に過ごしていたが、誰も外に出てこないと分かり口元を覆っていた左手を外して胸に添え、いつの間にか力が入っていた両肩から力を抜くと共に溜め息を漏らす。そうして一息ついた所で、リアンは正面に先刻と同様に立っているソレと向き合う。

 そこにいたのは、今からまさに会いに行こうとしていた、あの黒い生き物だった。色が黒いので咄嗟につい黒ちゃんと呼んでしまったが。

 ――まぁ黒いしクロちゃんでいいか。

 そんなことを考えながら、灰色の瞳と視線を合わせると微笑む。

 「ごめんね、ここじゃちょっとあれだから、森の方に少し入ろう?」

 小声で囁くように言うと、左手でおいでおいで、とジェスチャーをしながら森の中へと足を踏み入れる。数歩歩いて後ろを振り返ると、クロもしっかりついてきていて安堵の溜め息を漏らし、ついで嬉しさに顔を綻ばせた。

 ――なんだか、すっごく気を許してくれてるみたいで嬉しいなぁ……。

 「大丈夫? 枝とか葉っぱで足切らないように、気を付けてね?」

 そう声を掛けたあとで改めて気が付けば、クロはリアンより頭が一個分低いくらいの高さはある。

 「あ、そうか。体固そうだから傷も……大丈夫かな? ……あとで確かめないと」

 立ち止まって一人呟いている間中クロから視線を注がれていたことに遅ればせながら気が付いたリアンは、誤魔化すように苦笑をする。

 「もうちょっと歩こうかー」

 そう言って歩き出したリアンの後を、ゆっくりとクロが追う。

 何かの鳴き声と砂や枝を踏む乾いた音と葉擦れのそれが僅かに響く暗闇の中、カンテラが放つ柔らかい光を頼りに歩を進める。そして数メートル進んだ所でリアンは足を止め、同時に後ろに居たクロも動くのを止める。

 リアンは振り返るとクロの灰色の双眸を見つめながら口を開いた。

 「ちょっと、体切れてないか見たいから、そのまま座っててくれるかな?」

 数秒待ってみるがクロが身じろぎすらしないので、それを了承と取ったリアンはカンテラを持ったままゆっくりとクロの体を診て回る。

 殻のようなものがあって体が頑丈なのか、傷などは見えない。だが尻尾の付け根に葉っぱが一枚からまっており、リアンは側にしゃがんだ。

 「葉っぱが体についてるから、それを取るね」

 驚かせまいと説明してからそっと手を伸ばし、付け根の葉を取り除いた後立ち上がり、クロの正面に戻ると再度クロと視線を合わせた。そして、「ちょっと待ってね」と言いながらカンテラを地面に置くともっていたハンカチを開いてパンを出し、小さく千切ったものをクロに差し出す。

 「今日のパンはカミンとリョクの実を使って作ってあるから、甘酸っぱくておいしいよ」

 差し出されたパンのカケラを見つめるだけのクロの様子に気づき、リアンは差し出していた腕を少し引っ込める。

 「あ、ごめんね。つい調子に乗っちゃって……」

 すると、クロの尻尾が宙をかいた後、ぱたりと地面に落ちる。

 言っていることがよくわからなくて、リアンは目を瞬いた。

 「えっ、と……いいの、かな?」

 半信半疑のまま、ひっこめつつあった腕をまた伸ばし、クロの口元までパンを持って行くと、赤い舌がしゅるりと伸びて来てパンを絡め取り、クロの口の中へと消えていく。

 数秒、もぐもぐと口を動かしていたクロだったが、食べ終わるとまた口を開けた。

 それを見て、再度リアンは目を瞬く。

 ――これは……、口の中へ放り込め、ってことなの……かな。

 軽く首を傾げたリアンだったが、とりあえずパンを千切って開いたままのクロの口の中へ入れたあと、さっと腕を引いた。

 リアンの腕が引っ込むのを確認するかのように間をあけた後、口の中へ入ったパンを咀嚼するクロを見て、ほっとし、微笑む。

 ――あ、入れてよかったんだ。

 そうして、クロが口を開けてはその中へリアンが千切ったパンを入れてゆき、持ってきたパンが無くなるとハンカチを丁寧に畳んでポケットに仕舞う。そして顔を上げてクロと視線を合わせた。

 「少なくてごめんね。今日はこれで終わり。また明日の朝に来るからね。そういえば、どうしてあそこにいたの? 今は夜だったからいいけど、朝はいつもの所にいなくちゃ、他の人に見つかっちゃうかも……」

 そう呟くように言うとクロはゆっくりと四本足で歩き出し、リアンの前に出ると振り返って長い尻尾を振って地面に垂らした。

 落ち着いた灰色の瞳を見つめていたリアンは、ゆっくりと微笑む。

 「――分かってくれたんだね。また明日ね。ゆっくり休むんだよ」

 左手で軽く手を振ると、それを合図とするかのようにクロは正面を向いて再度歩き出す。

 その姿が視界から消えるまで見守った後で、リアンも自宅へ戻ったのだった。

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