第7話
ものの数分でパンをたいらげた黒い生き物は、鉤爪が生えている短く黒い前足の甲で口元を拭った。その動作を見たリアンは、愛しさがこみ上げるのと同時に人間臭さを感じ、つい笑いをこぼす。
――まるで人間みたいだなぁ。
食事を終えた黒い生き物は、灰色の双眸を正面にいるリアンに向け、見つめてくる。それに気付いたリアンはゆっくりとした動作で立ち上がると、ハンカチの元へ歩きだした。が、二、三歩進めたところで足を止め、ハンカチの側に座ったまま身動きしない黒い生き物を、見つめた。
これ以上距離を縮めてもいいものか、迷ったのだ。
無意識に唇に指先を寄せ、灰色の双眸を見つめながら暫く逡巡する。
――いいや。この子だって昨日は食べたあとに私が近づいたら後ろに下がったんだし、きっと自分で決めて、そうしたければそうする筈。
心の中で思ったことに自分で納得したリアンは軽く頷いた。けれども怖がらせないようにゆっくりと、一歩一歩距離を縮めていく。
ハンカチまであと二歩、という距離まで近づいたとき、黒い生き物は後ろへ下がり始め、リアンが足を止めると同時にピタリと静止した。
――あと、二歩が心の距離かぁ……。
そんなことを考えながら、リアンはハンカチを拾うと軽くはたき砂を払い落として、砂と接した面を内側にし丁寧に折りたたむと、ポケットの中へ仕舞いこんだ。
顔を上げるとリアンの動きを観察していたと思われる灰色の双眸と目が合い、リアンは苦笑する。
「そんなに警戒しなくても、何もしないよ」
それだけ言い残すとリアンは黒い生き物に背を向け、陽光で煌めいている海に視線をやった。水面は時折眩しいほどの光でキラキラと輝き、それによってリアンは反射的に目を細める。
リアンは砂の上に両膝を立てたまま座ると、両腕を脚に回して崩れないように組み、目を閉じて耳を澄ます。
暫くそのさざ波の音を聴いていたあと、リアンは砂浜に仰向けに寝転がった。
軽く風が吹いてリアンの短い銀の髪を揺らし、毛先が肌を優しく撫でる。
暖かい日差しと波音に包まれながら、いつしかリアンは目を閉じて意識を手放していた。
それから数時間後、目が覚めたリアンは寝ていた己に驚き、焦った。
「えっ!? 今何時!?」
慌てて周囲をきょろきょろ見渡した後空を眺めて茜色に染まってないことを確認し、安堵の溜め息を漏らす。
「あ、あの子は……」
脳裏に黒い生き物の姿が浮かんで再度視線を走らせると、二メートルくらい離れた右隣に伏せていた。
見たことがあるその姿に、一番最初に出会った時のことが思い浮かぶ。
――もしかして、寝てるのかな……。
「寝てるなら、起こすの悪いし……暫く待っておこうかな……」
体ごと黒い生き物に向けると先刻と同様に座り、顎を両膝の間に乗せ、黒いお腹が小さく上下にゆっくりと動いている様子を見つめる。寝息は波の音でかき消され、リアンの耳には届いてこない。
数分見つめていたリアンだったが、観察しているうちに好奇心で胸が疼き、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
そっと組んでいた手を解き、今までしたことがないくらい慎重に、ゆっくりとした動作で砂に両手と両膝を付けたリアンは、黒い生き物が起きていないか確かめた後、地を這ってその距離を少しずつ縮めていく。けれどその目は黒い生き物に向けたまま、逸らさない。
――昨日は気づかなかったけど……硬い皮と思ったけど、これは……殻のような……?
寝ている黒い生き物の背筋を、首元から尻尾までをまじまじと見つめる。
――よく見たら、小さい皮翼みたいなのが生えてるし……空飛べるのかな? ……お母さんから教えてもらった伝承の歌も、皮翼のこと言ってたなぁ……。
「……気高く強く色鮮やかの、皮翼で空を舞い遊ぶ……」
ぽそりと、小さい囁き声がリアンの唇から漏れた時、瞼を閉じていた筈の黒い生き物の灰色の瞳が突然開かれて、リアンを射抜いた。
「わぁ!」
それに驚いたリアンは後ろに仰け反りその弾みで尻餅をつく。さーっと全身から血の気が引いていくのが分かった。
――ま、まずい! また怒られちゃう!
先日の引っかかれた恐怖が瞬時に脳裏を駆け抜け咄嗟に両腕で顔を庇う。来る痛みに備えていたがしかし、数秒経っても何も起きない。不思議に思ったリアンは固く閉じていた瞼を、そっと開いた。
黒い生き物は同じ態勢をとったまま動かず、ただ灰色の瞳でじっと見つめてきている。
それが分かり、今度は罪悪感がリアンを襲った。
――昨日されたからって、今もされるなんて思いこんで構えて……ひどいことしちゃった……。
両肩を落としたリアンは構えていた腕を下し、胸元の服の裾を右手で掴む。
「ごめんね……昨日引っかかれたからって……。傷つけちゃってないかな……? 本当にごめんね」
縮こまるようにしてそう言うリアン見つめていた黒い生き物は、伏せていた体を起こすと地に付けていた尻尾を軽く振り上げ、パタリと地面に落とした。それを見てリアンは目を瞬かせる。
「……もしかして……気にしなくて、いいって……言ってるの?」
まるで言葉が解っているかのように、もう一度尻尾を振り上げて地に落とした黒い生き物。
その瞬間、初めて心を開いてくれたように感じたリアンは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
それは、萎れていた花がぱっと咲き乱れるように、明るく美しく映った。
その言葉には何も応えてもらえなかったが、もう気にならなかった。
「あ、そうだ。お昼も食べよう? 一緒に持ってきてるんだ」
高揚した気分でご飯を持ってきたことを思い出しそう声を掛けたが、紙袋を抱いていない自分に気づき、周囲に視線を走らせる。
「えっと……」
左右、正面には見つからず、背後を振り返って見ると、砂の上に放ってある紙袋を見つけて立ち上がる。両膝に着いた砂がパラパラと地に還り、リアンはついでに膝頭に付いたままの残りの砂をパンパンと手で払い落とした。それから一歩足を踏み出して紙袋を手にすると、また黒い生き物の方へ体ごと向いて、じっと見つめているその灰色の瞳に笑い掛けた。
「お昼ご飯」
そう呟くように言った後、また一歩踏み出し元の位置に戻ると、紙袋を砂の上に置いてから海へ歩を進める。
靴が濡れない程度まで近づくと、砂で汚れた手の平を水につけて軽く洗い流し、ポケットに仕舞ったハンカチを取り出して汚れていない面で水分を拭き取った。
そして再度紙袋を置いた所まで歩いていくと手に取り、折りたたんだ口を開けて中身を覗く。
長方形に伸びているパンの中央に切り込みが入っており、その中に野菜と卵で作ったジャムが挟まれているものが二本入っていた。
「あれ……? 二本ある……」
――まさか気が付いてるわけじゃないし……両方私用でいれたのかな……。
「まぁ、どっちでもいいか」
そう呟くと紙袋からパンを取り出し、そのままかぶりと噛り付いて咀嚼した。ついで、持っているパンを一旦紙袋の中へ戻すと真新しいほうを取り出して、ジャムが垂れないよう気を付けながら手で千切ると、それと黒い生き物を見比べながら逡巡する。そして、不安ながらも千切ったパンのかけらを持っている手を、そっと差し出した。
――食べてくれるかなぁ……。ちょっと突然すぎたかな……。
まだ咀嚼しているせいで喋れなかったのだが、黒い生き物はいわんとすることを読み取ったのか、ややゆっくりとした動作で顔をパンへ近づけると、口を開いてかぷり、と噛んだ。それを見たリアンはほっとして、口は動かしながらも微笑み、欠片を掴んでいた指先をそっと離す。黒い生き物は器用にパンを奥へ移動させて咀嚼し始め、その間に自分もまた噛り付きパンを食べ、黒い生き物用のパンをまた千切っては差しだしを繰り返し、一人と一匹は昼食を食べ終えたのだった。
お腹が膨れると気持ちが満たされ、自然に笑顔になる。
リアンは微笑みながら黒い生き物に話し掛けていたが、数時間後、そっと立ち上がった。
「さて、そろそろ帰ろうかな」
そして黒い生き物を見下ろしてから、ふと気づいた。
――いつの間にか、距離が一メートルくらいまでに縮んでる。さっきも引っかかれなかったし……。
仲良くなるのに時間がかかると思っていたが、早すぎるくらいだ。
――変なの。でも、こういうものなのかな。よく知らない子だし……。言葉も通じるような気がするし。
「うーん」
唸りながら首を傾げるが、考えていても答えは出ない。
――ま、いいか。
再度黒い生き物に微笑むと、口を開いた。
「じゃあ、私一度帰るね。また夜に来るから」
ばいばい、と言いながら軽く手を振ると、リアンは背を向けて歩き出した。
その後を、黒い生き物は数メートル間を空けて、ついていった。
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