第6話
翌朝、リアンは朝食を済ませると台所で食器を洗っている母親の足元へ行くと、顔を見上げて話し掛けた。
「お母さん。森にいってきていい?」
「んー?」
母親は手を止めて我が子を見下ろすと、優しく微笑む。
「何か用事でもあるの?」
その言葉を聞いた瞬間、リアンの心臓が緊張でドクンと跳ねる。
「え、ええと」
――うわぁーなんて答えよう……!
内心慌てふためきながらも表に出さないように努め、言葉を探す。そしてゴクリと溜まった唾を飲み下してから口を開いた。
「も、森の中にどんな薬草が生えているのかなーとか、食べ物になるのないかなーとか、……探してたら楽かなと思って……!」
「ふぅん?」
にこにこしながら見下ろしてくる母親を見つめている間にも、体が緊張で強張り手に汗を握る。
――ば、ばれてる、のかなぁ……。
心臓が、いまにも胸から飛び出そうな程暴れており、音が漏れないかと冷や冷やする。
「いいわよ、気を付けていってらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、リアンの表情がぱっと明るくなった。
「いいの!?」
「うん。お昼はどうする? 森で食べる?」
「あっ……」
母親の言葉で、脳裏にあの黒い生き物の姿が浮かんだ。
どこから来たのかもわからない、仲間からはぐれたのか、独りでいる子。
――独りで食べるのも味気ないし……お昼にもう一度行くよりはいいかな……。
唇に無意識に添えていた指を下して、リアンは母親を見上げると微笑んで頷いた。
「うん!」
「そう。じゃあ、もう少し待っててくれる? 簡単に食べれる物を用意するから」
「はーい!」
嬉しそうに跳ねるように台所から出ていくリアンを見て、自然に笑顔になる。
「あんなに喜んじゃって……新しいお友達でも出来たかな?」
そう小さく呟きながら、母親は中断していた皿洗いを再開した。
「はい、じゃあこれね」
家の玄関の前に、親子は立っていた。
閉められた扉を背にした母親は、昼食を入れた紙袋を正面に立っている我が子へ差し、リアンはそれを笑顔で受け取る。
「うん! お母さんありがとう!」
くす、と笑い声を漏らした母親は笑顔で正面に立っている小さい頭を優しく撫でた。
「うん。気を付けていってらっしゃい。暗くなる前には戻ってくるのよ?」
「うん! 行ってきます!」
元気よく声を上げて、数秒も惜しいというようにリアンは母親に背を向けて駆け出す。
小さくなっていくその背中が見えなくなるまで、母親は小さく手を振りながらずっと見守った。
膝まで伸びている草の中を、笑顔でリアンは駆け抜ける。
木々の香りを含んだ心地よい風と暖かい日差し、そして時折聞こえてくる鳥の囀りはリアンの心を弾ませる。
「今日もあの場所にいるかなぁ! いればいいなぁ」
葉擦れの音を響かせながら森の中を駆けだして数十分後、リアンは例の場所に着いて足を止めた。
「昨日の夜はここでパンを食べてたけど」
そう独り言ちながら、周囲に視線を巡らせて黒い生き物を探してみる。が、姿はない。
すると視線が自然に岩壁に挟まれた小道へ向けられた。
「今日はあっちかな?」
母親から預かった紙袋を胸に両手で抱えながらゆっくりとした足取りで歩いていく。
優しく吹く風が、潮の香りを運んでくる中、リアンは小道を抜けて浜辺へと足を踏み出した。
柔らかい砂が、サク、と音を立ててリアンの靴を軽く沈ませ、暖かな日差しの中、涼やかな風が通り抜けていく。
飛沫を上げながら浜へあがっては、砂を削り引いていく穏やかなさざ波の音と、鼻孔をくすぐる潮の香り。
その、あまりの心地よさに無意識に耳を澄ませ、瞳を閉じ、自然が奏でるメロディーを聴いていた。
――ああ……、なんて気持ちいいんだろう……。
自然に背筋がまっすぐ伸び、深く深呼吸をする。
そうして時の流れも忘れて浸っていると、不意に耳が葉擦れの音を拾った。
瞼を開けて岸の方へ視線をやる。と、なんとそこには探していた黒い生き物が座っており、リアンをじっと見つめていたのだ。
驚きつつも会えた嬉しさに、リアンは自然に笑顔になっていた。
「おはよう。よく眠れた?」
答えがないことは解っていたが、それでもリアンは話しかけた。
止めていた足を、黒い生き物の方へゆっくりと一歩ずつ踏み出していく。サクサクと砂が乾いた音を立てる。
「今日はね、朝ご飯とお昼ご飯ももってきたんだ。朝は食べて来たけど、お昼はまだだから一緒に食べようと思って」
近づいてくるリアンから視線を外さない黒い生き物はしかし、逃げることもしない。
リアンは近づきながら、脳裏で昨晩パンを地面に置いて離れた際の距離を頭に描く。
――このくらい、だったかなぁ……。
黒い生き物が座っているところから三メートルくらいあけた所で、リアンは足を止め、微笑みかけた。
「ええとね、朝ご飯、昨日と一緒なんだけど……」
そう言いながら、リアンは持っていた紙袋を開いた。
森に入ったところですぐ、自分の朝食の一部だったパンをこの中へ仕舞っていたのだ。
リアンはその場にしゃがむと紙袋の中へ手を入れ、中から桃色に染まったハンカチを取り出した。それを膝の上に開いて乗せ、その上にとっておいたパンを乗置いてから、湿気が入らないように紙袋の口を丁寧に折りたたむ。ついで取り出したパンを昨晩と同様に小さく千切ってから、落とさないよう慎重に、地面へ運ぶと、そっと置いた。
そしてそれらの動作をじっと見守っていた黒い生き物へ顔を向けると、縦に瞳孔が入った灰色の双眸と目が合う。
何故か焦りを覚えつつ、リアンは害がないことを伝えようと無意識に両手の平を黒い生き物へ向け左右に振りながら言った。
「分かるかな? これ、昨日の夜君が食べたのと同じものだよ。あ、でも今日は生地の中に甘い実が混ざってあるから、昨日よりは美味しい、かも……? と、とりあえず食べてみてよ」
そう言うと、その場から動かずにパンが乗ったハンカチだけを優しく生き物の方へ数センチ移動させてから立ち上がり、体と視線は生き物へ向けたまま数歩後ろに下がって、再度しゃがみこむ。
そして微笑みを黒い生き物へ向けると静かに動向を見守った。
黒い生き物はリアンが下がっても数十秒の間静かに座っていたが、やがてゆっくり歩き出しパンの前まで移動した後、リアンをじっと見つめた。
その姿を見て昨夜の事が脳裏を過り、リアンの口からふっ、と笑い声が漏れる。
黒い生き物はその姿を数秒見つめた後、今度は躊躇することなく赤い舌を伸ばして器用に欠片を掬い取ると、暫く口の中で転がしていたようだったが、ついには飲み下し、間をあけることなく立て続けにお腹を満たし始めていった。
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