第3話

 灰色の瞳と目が合った瞬間リアンは恐怖で慄いた。先刻まで輝いていた瞳は恐れによって見開かれ、興奮で血色の良かった顔色は青白くなり、頭の中は目の前の生物から逃げることで支配される。

 「あ……ぅっ……」

 声にならないそれが囁きにも近い掠れ声がリアンの口から漏れた。

 逃げようと思うが震えている足は自由に動かず、柔らかい砂に食い込んだ靴が数センチ程の僅かな跡を残すだけ。恐怖で引いた腰にも力が入らない。

 そして、リアンの青い瞳にとうとう涙が滲み始める。それはゆっくりと頬を伝って流れ、土に吸い込まれていった。

 ――こ、怖い怖い怖い怖いよお母さん! お母さん助けて……!!

 ぎゅ、と力強く両目を瞑って無意識に胸の前で握っていた両手の拳に力を入れる。小さい体がさらに丸まって、小刻みに震えていた。

 そのまま逃げることも出来ず、時が一秒、十秒と過ぎてゆく。

 そして三十秒が経ったとき、リアンは恐怖で震えながらも頭のどこかで違和感を感じていた。


 なぜ、自分はまだ襲われていないのだろうか。


 意を決して恐る恐る、両目を少しずつ、ゆっくりと開いてゆく。

 そしてその双眸に映った生き物は、やはり先程と同様に威嚇を続けていた。


 けれど、それだけだった。


 唸り声を上げて、牙を向け今にも襲い掛かると言わんばかりの姿をしているけれど。

 それだけ。

 ――あ、あれ……?お、おそ……って、こな、い……?

 茫然とした様子でリアンは瞬きを繰り返しながら、目の前の生き物の様子を見る。

 ――か、かまれると……思ったのに……。

 リアンは不思議に思い、じっとそれを見つめた。

 すると、意外なことに気づく。

 その生物のお尻から伸びている、黒々とした長い尻尾が僅かに震えていたのだ。

 それを見て、リアンはハッと息を吞んだ。

 ――こ、この子も……一緒……?この子も……もしかして、私と一緒で……怖がってるの……?

 そう思った途端緊張で強張っていた体から力が抜け落ちた。いつの間にか上がっていた肩が下がり、震えも次第に収まっていく。恐怖で歪んでいた顔も、戸惑いは残るものの、落ち着きを取り戻した。

 リアンは黒い生き物から視線をはずさず、後ろに引いていた体を背筋を伸ばしながらゆっくり戻すと、一旦そこで動くのを止めて様子を窺う。

 その生き物は警戒心を解かずに、唸り声をあげて威嚇していた。

 リアンはゆっくりと、口を開いた。

 「あ、あの……ね……」

 リアンの言葉が途切れると、その生き物の唸り声と海の波音で辺りが包まれる。リアンはそっと目を閉じて波の音を聴き、深く深呼吸をした。

 それで幾分か落ち着きを取り戻したリアンは伏せていた瞼を開けて、灰色の瞳を見つめると柔らかい微笑みを向ける。

 「何も……しないからね……大丈夫だよ」

 そう囁くように言うが、黒い生き物は威嚇して唸っているままだ。

 ――これじゃあ、この子が疲れちゃう……どうしよう……。

 無意識に口元に軽く握った手を当てて困ったような表情を向けながら逡巡する。

 ――そうだ!

 思いついた瞬間リアンの表情がパッと明るくなり、その小さい手の平を目の前の生き物に向けると、唸り声が激しくなったのにも関わらず辛抱強く声を掛ける。

 「ごめんね、大丈夫、何もしないから……ちょっと動くだけだよ。近づかないから、怖がらないで……」

 そう言うと視線を黒い生き物から逸らし、己の足元へ落とす。

 動くにしても、足が機能してくれなければ動きようもない。

 黒い生き物を驚かさないようにゆっくりと左足を動かしてみると、先刻までいうことを利かなかったのが嘘みたいに軽く動いた。

 ――よかった、元通りに動く。

 安堵して微笑み、軽く溜め息を漏らした。

 そして視線を再度正面に向けて様子を窺うと、途端それは唸り声を酷く上げだす。

 それにも負けじとリアンは安心させるように微笑みだけを向けると、今度は右足に視線を向けてこちらも動けるか確認した。

 両方動くことが分かるとほっと一息ついてから、また視線を黒い生き物に戻す。

 そしてまた、手の平をそれに向けると話し掛けた。

 「ごめんね、ちょっと立ち上がるけど……あなたを攻撃したりするためじゃないから……大丈夫だからね」

 出来るだけ無害なのだと言葉で優しく伝え、リアンは手の平を足元の砂へ付けると、重心を移動させながらゆっくりと立ち上がる。腕に痛みが走り顔を顰めたが、気にしない。

 その間も唸り声が止むことはなかった。

 完全に立ち上がったリアンは数歩後ろへ下がり、砂にお尻を付けて両膝を立てて座り込み空いた両手を脚に回して手を組んで体を安定させた。その瞬間裂かれた腕が再度痛み顔を顰めたが、視線を正面に向けると灰色の瞳に微笑みかける。

 そして数秒後、ずっと唸っていたそれは、ようやくリアンが攻撃してこない事を理解してくれたのか警戒して見つめてくるものの威嚇するのを止め、牙も引っ込めて体を起こしたままお尻だけつけて座った。

 そんな生き物とじっと見つめ合っていたが、落ち着きを完全に取り戻したリアンの頭の中が次第に回転し始める。

 ――この子って、なんの動物なんだろう……見たことないなぁ。お母さんからも聞いたことないしなぁ……村の誰か、知ってるかな? 名前とかあるのかなぁ。

 落ち着きを取り戻すと今度は好奇心が頭をもたげた。

 「ねぇ、君この森に住んでるの?」

 リアンはもともと動物が大好きで森に入っては遊びまわっていた。しかしそのように過ごしていたリアンであっても、目の前にいる動物は今まで一度も見たことがなく、仲良くなりたい衝動がうずうずとこみ上げてくるのだ。

 知りたい、仲良くなりたい、触りたい、遊びたい。

 そんな思いで頭の中が溢れかえっている。

 もっと近くに行きたいが、今はこれが限界なのは、幼いリアンでもよく分かっていた。だからそれ以上はもう近づかない。

 けれどそのかわり、話しかけるのだ。

 少しでも仲良くなりたい為に。

 「一人で遊びに来たの? お父さんやお母さんは近くにいないのかな?」

 言葉も返さず鳴きもしないその黒い生き物に一方的に微笑みながら話しかけ見つめ合っていると、突然リアンのお腹がきゅう、と悲鳴を上げた。

 その音で驚いたのか素早く黒い生き物が飛ぶように立ち上がり、リアンを再度威嚇する。それを見てリアンは恥ずかしそうに頬を赤く染め、「ごめんごめん」と謝った。

 「お腹がすいたんだ。……そう言えば、もうこんな時間なんだね」

 今まで黒い生き物から外さなかった視線をそっと空へ向ける。

 その双眸に、青から茜色に染まった空が映った。リアンの短い銀色の髪が、僅かに茜色に染まってゆく。

 数秒眺めていたがリアンは視線を黒い生き物の方へ戻すと目が合い、にっこり笑う。

 お腹の鳴く音が聞こえた際には唸り声をあげていた黒い生き物は、いつの間にか静かにリアンを見つめていたのだ。

 「それじゃあ私、家に帰るね。あとでまた来るよ」

 そう言いながらリアンはゆっくりとした動作で立ち上がると視線を黒い生き物に向け、微笑みながら手を振った。

 「またあとでね!」

 そうしてリアンはもう一度来ると一方的な約束をし、家に向かって歩き出したのだった。

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