第一章
第1話
【16/4/20】
少し開けられた出窓、そこから入り込む雨音は優しく室内を包み込む。
その部屋では少女が一人、ベッドの上で本を片手に寝転んでいる。
少女には雨降る夜の楽しみがあった。
それは趣味である読書をしながら、そのうちいずれ来る微睡みへとそのまま落ちていくこと。
いつからこうするようになったのだろうか、少女も覚えてはいなかった。
気づいた時にはこうしていた。
少女にとって夜とは『己を見つめ直してしまう時間』それは毎夜のことで、原因不明の行くあてのない不安が己の内側からこみ上げて来て、心には遠い日に感じた何者かの温もりを思い出す。そして自分自身がちっぽけな存在で無力だと悲しみに暮れることもあった。
そんな少女に趣味であった読書は好都合だったのかもしれない。
そこで語られた物語は現実から少女を引き離し、それに合わせて雨音は彼女に降り注ぐノイズを彼女の全身を包み込むようにして遮った。
そしてこの日も例に漏れず、少女が読書をしているとその時はやってきた。
読んでいた本をそっと胸元へと運び、そして瞼を下す。
這い寄る微睡みは意識だけを泥の中へと引きずり込むように、ゆっくりと意識を、そして体の感覚を誘い込んでいく。少女はそれに身を任せ、微睡みと共に沈み込んで行くだけでいい。
そしてあともう少しの、落ちる直前の事だった。
扉の鍵が開く音と共に、部屋の扉がゆっくりと開かれて何者かが部屋へと入ってきたのだ。
それに気がついた臆病な微睡みは、少女の体から離れるとどこかへと途端消えていってしまった。
遮られたことによる中途半端な覚醒は、少女の視界から思考までを霧で覆ったが、なんとか開かれた扉の方へと頭を向け、来訪者を探す。
「あれ、もしかしてスノー……寝てたか?」
何かを探るような名をささやく声。
その中性的な声の主を少女、スノーは知っている。いつも自分の面倒を見てくれているこの施設の大好きな人を。
その女性は未だ業務中なのか、白いブラウスに紺色のパンツというような普段スノーが見かける仕事着で現れた。
その装いに普段と違う所があるとするならば、いつもは束ねている、蜂蜜を溶かしたかのように鮮やかなブロンドをおろしている。
「悪かった、おやすみ……」
「待って、ヘリアス!」
ヘリアスと呼ばれた女性は、あっさりと背を向け始めたものだからスノーもたまらず声を掛けた。
「大丈夫だから……居て」
そしてその呼び声がスノー自身でも意図せず弱々しい声になってしまい、なんとも切望感を感じさせる声音になった。
それを聞いたヘリアスはとたん振り向き、その表情には優しいとは言えない微笑みの表情を浮かべている。
やれやれと嘆息をつきながらもニヤニヤとしながら、表情は隠さず廊下からトレーを持ってきたヘリアス。
スノーが横になるベッドの足元に腰を掛けるとトレーを膝においた。
身体を起こし、のっそりとした動作でヘリアスの横に並んだスノー。
「ナマケモノみたいだな」
「はいはい……で、それは?」
スノーの視線の先、トレーの上には二つのマグカップが置かれている。
「……ん? あぁ、今日はスノーと一緒にホットミルクを飲もうと思って入れてみた」
二つのマグカップからは湯気が立ち昇っていて、ヘリアスは自慢げにそれをスノーに差し出してくる。
ちゃっかりしている所というか、たまに垣間見せる優しさには可愛げがいつもあって、スノーにはソレが抗いがたい愛おしさを感じさせるものだった。
「やけどしないようにな」
そっと手渡されたマグカップからはじんわりと熱が伝わって来る、たちまちスノーの手のひらは熱を帯び始め、真っ白な手のひらは桃色になったいく。
「ふー、ふー……いただきます」
その温かさを感じつつもスノーはゆっくりと、心落ち着かせるような白さで満たされたソレを一口すすった。
途端、口いっぱいに広がった甘さはこれ至高と言わんばかりの味で、きっと幸せを味わうことができるならきっとこんな味がするのだろうと思うほど優しかった。
「うんうん。スノーがそんな顔して飲んでくれるってことは満足してくれたかな?」
「えっ、なんか阿呆みたいな顔してた?」
「ううん、いつもより可愛い顔してた」
「んぐぅ……」
その言葉に頬が上気する感覚があって、それを見てヘリアスは笑って『馬鹿にしてない』とはぐらかす。
スノーにとってはこのやり取りも日常の一部なのだが、やはりヘリアスには敵わないと思ってしまい、そしてその瞬間がどうしようもなく幸せに感じた。
そうして二人で並んで暫しマグカップを傾けているとある時、時計を確認したヘリアスは仕事だと言って立ち上がり扉に向かった。
「それを飲んだらおとなしく寝ることな。コップは明日朝食の時に食堂に持って来てくれれば良いから」
そう一言告げるとヘリアスは部屋のドアノブに手をかけた。
「わかった、ありがとヘリアス。おやすみなさい」
「ふふ、おやすみなさい」
スノーはその背中に返事を返すとマグカップに口をつける。
その縁はいつの間にか冷たくなっていた。
スノー一人だけが残る、閉ざされた部屋には雨音と静寂が帰ってくる。
この静寂はスノーにあの時の事を思い出させた。ここに来た当時の事を。
もうはっきりと母の顔は覚えていないが、自分がまだ三つの時。まだ親の愛情を感じていたい年頃の自分を連れてやってきたのはこのカンパニュラという施設だった。
機械的なやり取りを職員達と終えると母は自分をここにおいて消えてしまった。
来た当初は母に会いたいと泣きわめいたもので、見たことも話したこともない人と会う事が怖くて口を聞かず乱暴もした。当時の日常に安寧を感じる余裕などなく、目に映る全てのものを遠ざけて嫌悪した。
そういった感情は今よりも年端も行かぬスノー自身には漠然とし過ぎていて難解だった。
しかしそんな自分に当時、根気よく付き合ってくれる人がいた。
痛みという痛みを隠して、理解しようとしてくれた。本当に愛そうとしてくれていた。体を抱きしめてくれた。
在りし日の記憶と今を対比してもどうにもならないことを知っているつもりだが。だけれどもどうしようもなく考えてしまうのだ。
「幸せに慣れてもいいのかな……」
スノーの口からこぼれた的外れな独り言は反響もせずして消えてしまった。
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