いつか、その匂いが消えるまで
生きるのに疲れてしまったとき、私はいつも一人で旅に出ることにしている。日が昇る前のまだ暗い時間に起きて、始発列車に乗って自分の知らない土地へ旅立つのだ。
目的地など存在しない、ただ自分が思うままに進んでいくだけだ。知らない列車を乗り継いで、名前も知らない駅に降りる……そうやって、何かを探して無意味な旅に出るのは私の良くない癖かもしれない。
その日の夕方に、私が降り立った場所はとある温泉街であった。いや、温泉街と呼ぶには少し規模が小さすぎるかもしれないが……それでも、まばらに浴衣を着た人たちが歩いている事は事実であった。
空気に混じって微かに漂う硫黄の香りが鼻腔を刺激した。普段の生活ではあまり嗅ぐことのないその匂いは、人によっては苦手に思うかもしれない。けれど、私は非日常を感じられるから好きだった。
雪がちらちらと舞い、薄く石畳の上に積もる。後ろを振り返ると、私の歩いてきた道がうっすらと残っていた。その跡は遠くなれば遠くなるほどに薄くなっていく。上からまた降ってくる新しい雪が消していくからだ。
人生だって同じだ。ついさっき起こったことなどははっきりと覚えていられるのに、時間がたてばたつほどにその記憶は薄れていく。所詮、過ぎ去ってしまえばすべてが過去なのだ。忘れてしまえば、それはなかったことと同じになる。
私には、どうしても忘れたいことがあった。思い出すだけで辛い、けれど一生忘れることのできない思い出が。
その人はいつも檸檬の匂いをまとわせていた。学生時代は気が付けば隣にいたのに、ふと振り返ってみるともう手の届かないほど遠い場所に行ってしまった人。唯一の友人で、憎たらしくて、優しくて、好きになれないけれど好きだった、そんな人との思い出。
私はもう長い間その人と連絡を取っていない。大学に入って別々の道を進み、最初は頻繁にとっていた連絡も徐々に徐々に減って、気が付けばもう話すことなんてなくなっていた。別に、悲しくもなんともない。私たちの関係はいつもそうだった。
それでも檸檬の香りを嗅ぐと、時々その人のことを思い出してしまう。その人の声、姿、態度、表情、そのすべてを。
そう、叶うことのなかった愚かな恋心を抱えて、私は大人になった。報われないことを理解して、くだらない期待を捨てて、止まりそうになりながらも私は前に進んでいるのだ。
街に影が落ちていく、夕焼けと夜が重なっていたはずの空はどんどん黒く染まっていく。それと同時に、星々が輝きを取り戻し始める。私の知らない、この街の当たり前の夜がやってきたのだ。
ふと空を見上げてみると、ふいに一つ光が走った。
——もう一度彼に会えますように
自分が考えるよりも先に、そんな願いを口にしてしまった。ああ、私はまだ彼のことを諦めきれていないのだろうか。まだ、叶わない願いを持ち続けるというのだろうか。
そうだ、私はいつだってその存在を忘れることができなかったじゃないか。何をしていても、やっぱりその影が頭に浮かんでしまうのだ。
その想いを言葉にして伝えることができたのなら、〝好き〟だって言えたらどれほどまでによかったのだろうか。彼が、私を見ていなかったことは知っている。彼が当時他に好きな人がいたことだって知っている。
けれど、今こんなに後悔するくらいなら一言だけ……あの時に伝えておけばよかったのに。
でももう、後悔したってもう遅い。過ぎ去ってしまえばすべてが過去なのだ。願っても、時計の針が逆に動くことなんてない。そんなこと、もうわかっているはずなのに……やっぱり、私は愚か者なのかもしれない。
檸檬の匂いは季節を運ぶ リア @Lialice_
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