天ノ月恋



 草花の匂いが風にさらわれて、遠くへ遠くへと運ばれていく。それは夜闇を走り抜ける猫のように素早く消えていき、空には隅から隅まで星が散らばっている。それはダイアモンドに当てた光のようにチリジリに分散していて、空を彩っている。


 周りには、誰もいない。ただ聞こえるのは虫の歌声と風の音のみ。これほどまでに心地よい空間が、他に存在するだろうか? 少なくとも俺の知っているなかでは一番落ち着ける空間だと思う。


 何処までも続く草原に寝転んで、目をつぶった。目の前に広がるのは、人の心を蝕む暗闇。だけど、それと同時に君の笑顔が見え、聞き慣れたあのピアノの音が響いた気がする。


 美しいという言葉だけでは表現しきれないほどに、素晴らしいあの演奏。音楽が嫌いな俺が、唯一好きなあの音。物静かで、それでいて激しくて、時には伴奏として、時には主役として、いつだってその音楽を紡ぎあげてきた彼女の演奏。聞くたびにぐっと心臓を掴まれて愛しさが込み上げてくる、あの演奏……。


 急に心臓の辺りが痛くなって、はっと目を開ける。すぐに飛び込んでくるのは、星空。それは先程と何も変わらないもので、安心感すら覚えてくる。


 俺はそんな星空から一回目を離し、一度近くに置いてあったスマホに手を伸ばし、パスワードaim evol I と打ち込んだ。ロック画面が解除されて、適当にネットで拾った画像のホーム画面に出る。


 そのままアルバムを選択し、二次元の海を掻き分けてある一つのファイルを開き、一つの動画を再生した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作った、[月光]。


 簡単な旋律から始まってどんどん難しくなっていくと、彼女が笑いながら弾いていていた曲。初めて、彼女の演奏を聞いたときの曲である。


 あのときは、圧倒的な実力と聞いたこともないような複雑な音にかなり驚かされたっけな。今となってはいい思い出だ。


 彼女の演奏は、心に響く何かを持っている。それを本人は自覚していないようだけど、俺は彼女の演奏に何度救われたか分からなかった。


 俺は、中学生時代不登校だった。原因は、周りと価値観が合わずにいじめられていたこと。何度も物を壊されて、上履きに画鋲を入れられたこともあった。それが嫌で、ボク・・の人生のすべてを否定したい気持ちになって、何もかもをかなぐり捨てて部屋に引きこもった。


 今になって考えると、かなり自暴自棄になっていたのかもしれない。否、そうしないと気持ちが保てなかったのだ。


 とにかく、もう社会復帰不可能なほどに落ちぶれたボクはどうでもよくなっていた。自分の人生なんて、周りが決める不条理な価値。もう、何も要らない、望まないから。だから、もう俺に触れないで。


 いっそのこと存在ごと消えてしまえばいいのに……そう思ったことが何度もある。だけど、そのたびに彼女の笑顔がチラッと浮かんだのだ。


 雨降る公園の、木の下でちょっと会話しただけの女の子。ただそれだけなのに、どうしても気になってしまうのだ。


「それ、あげる。返さなくて良いから、風邪引かないようにしてな」


「で、でも……」


「いいから」


「あ、ありがとう」


 すぐに消えてしまいそうな儚い笑顔で笑う、彼女。なぜかそのシーンが心に残ってしまったのだ。


 ──きっと、恋をしてしまったのだと思う。そうじゃないと、この気持ちは証明ができない。


 やがて俺は、中学校を卒業して高校生になった。不登校だったけど勉強は出来たからそこそこの高校に入れたのだ。中学生の自分のようにはならない、そう心に決めて入った教室で面白いことが起こった。


 隣に、あのこがいたのだ。初めてあった日と変わらないあの笑顔で微笑む、あのこが。


 その瞬間、俺はいるかもわからない神様に感謝をした。だって、もう会えないと思っていた君に出会えたんだから。


 俺はとにかくその日から彼女によく話しかけるようになった。学校の話、休日の話、本当なら聞きたくない恋の話も……


 色々なことを話した。彼女の友人関係、愛する人の名前だって聞いた。だけど、そのたびに心は凍ってしまったかのように冷たい笑顔しか浮かべられなくなった。


 冷たい笑顔で微笑んで、どうして双子の兄好きになってはいけない人を好きになってしまったのだと虚空に問う君に言う。


「分からない、か。それは一番簡単な回答でもあって一番難しい解答だよね?


「簡単なことさ。答えるのは簡単。だけど、どうしてそんな言葉が出てきたのかは本人にもわからない。そんな矛盾した考えのこと。まあ、恋なんてそんなものだろ。好きになるのに理由なんて必要ない


 そんな自分でも吐きそうになってしまうほどご都合主義でつまらない言葉。だけど、彼女は納得したらしく俺の方を見てニヤリと色々なことを尋ねてくる……


 そんな、何でもない日を一つ一つ振り替えると、どうしても心に黒色のインクが染み込んできて、辛い気持ちという雨が降ってくる。


 月の光月光に照らされて、彼女……いや、自分自身につき続けている嘘に心を傷つけられてる俺は、愚か者以外なにでもないであろう。


 彼女の事を、愛している。その事実は揺るがないものだ。だけど、彼女に嫌われるのが怖くて俺は何もできていない。‘ただの友達’というレッテルを彼女に張り付けて、この心に嘘を付いている。


 空に、一つの流星が走った。


──願わくば、この嘘に終末を


 心のなかでそう願う。フラれてもいいから、彼女に想いを伝えたい。嘘でもいいから、彼女に好きだと言われたい。


 だけど、そんなことが出来ないって分かってる。だって俺は大嘘つきだから。いつも自分自身や本当は尊敬しているはずの彼女に軽蔑した目を向ける。


 強い風が吹き、草花の匂いがより一層香った。君が好きといってくれた檸檬香水の匂いも、同時に香る。


 ああ、俺は本当に君のことを愛しているのだろう。君の事を思うと、心がとても苦しくなるよ。


 だけど、この気持ちは伝わらない。伝えて困らせる気もない。この恋は、実らない。そんなこと分かってるのに、心を取り巻くこの感情は一体何?

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