檸檬の匂いは季節を運ぶ
リア
檸檬の匂いは季節を運ぶ
目の前にいる彼からほのかに香る、檸檬の香水のかおりが私の鼻をくすぐった。上品に香るこの匂いは、匂いフェチな訳ではない、むしろ匂いというものが嫌いな私が唯一大好きな匂いである。
二つのマグカップに入った
極度のカフェイン中毒の彼は、いつも珈琲を飲んでいる。家には必ずと言って良いほどに三種類常備されており、それがなくなったところを私は見たことがない。少しの砂糖とミルクを入れて、冷ましながら飲むその姿は、もう見慣れたものであった。
私も、自分の紅茶を啜る。口の中いっぱいにほろ苦さと特有の美味しさが広がった。彼と二人きり、静かな部屋の一室で二人一緒にくつろぐ。これほどに幸せな事はないであろう。
因みに、私と彼は付き合っているわけではない。たまに二人でゲーセンに行ってクレーンゲームや音ゲーをしたり、浴衣を着て夏祭りに行ったりする。けど、私達は付き合っていないし、それぞれ好きな人もいる。いつの間にかに、隣にいる。それが私達の関係であった。
彼が、ちらりと私の方を見る。だが、私が分厚い眼鏡越しに視線を合わせるとさっと逸らしてしまう。私は、そんな姿を見て優しく微笑み、席を立った。
一度部屋のはしっこでスリッパを脱ぎ、丁寧に揃えて棚に置く。彼はそんな私の存在にまるで気がついていないかのように、また珈琲を啜る。彼は、本当に人に興味がないのだと思う。私が何を話しても聞いているんだか聞いていないんだかよくわからない、曖昧な相槌をうつだけ。
その微睡んだ目に、自分がどう見えているかなんて分からない。だけど、私の側を離れないってことは嫌いってことじゃないんだよね? きっと、そうなんだよね?
私は、そんなことを考えつつも窓際にある宝物の所へ向かった。それは黒くて大きくてつやつやしていて、自分が大切にすれば大切にするほど期待に応えてくれるもの……グランドピアノである。
数年前に親に無理をいって買ってもらったこのピアノ。そのせいで数年間誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントを買ってもらえなくなったが後悔はしていない。
一本一本ピンっと張られている弦に、柔らかい木材。黒い見た目でも中はとても優しい色をしているのだ。それは真夜中と真昼のように対照的ではあるけど、音を鳴らせば奇麗に混じりあって夕暮れを作り出す。
屋根を全開に開けて、譜面台をあげ、蓋を開けた。優しい、象牙色の鍵盤が露になる。私は、異常がないことを確認すると、横にある棚から一冊の本を取りだし、譜面台に置く。そして、黒一色で染まった椅子を引いて座った。
もう一度、彼の方を見る。今度はバッチリと目があった。けど、視線を逸らそうとはしない。むしろ、そのままでいてほしいと願っているようにも見える。しかし、視線をもう一度ピアノの方に動かさないと弾けないため、やむ無く元に戻した。
膝の上に置いてあった右手を、ゆっくりと鍵盤の上に置き、ドとミとソの最も有名な三和音を押した。不純物が混じっていない純粋な音は共鳴しあい、高く響く。しかし、手を離すと先程のはっきりとした音は一瞬で消える。代わりに、微かな余韻だけが響いていた。
やがてその余韻も消え失せ、部屋には静寂が響く。緊張で固まる空気。だけど、それと同時に人の温もりのような安心感が部屋を包む。何だか、変な感じだ。
もう一度、手を鍵盤に置いた。今度は右手だけではなく、左手も。そして、一回深呼吸をして指を動かし始める。
弾く曲は、私の偏見ではあるが[雨]をイメージするような可憐で何処か儚い曲で、私のなかで一番好きな曲であった。
主旋律は左手で、ぽつりぽつりと雨音のような音。それは静かな水面を揺らす、空から降り注ぐ雨のようで、この曲の一番の特徴と言っても過言ではないだろう。右手は、邪魔しない程度に添える程度。
弱々しい音から、徐々に音を大きくダイナミックにしていく。この作業は、簡単なように見えてとても難しい。だが、何年も何年も積み重ねてきた私の音楽は、それをほとんど完璧な形で持っていった。
今度は、この曲のなかで最も難しいところ。左の方にある低い音から、右の方にある高い音に向かって一直線で駆け上がる。
少しだけ上の方で止まって、今度は駆け降りまた上がる。まるで、地上から空高くまで打ち上がる花火のように、音という火花を散らし儚さと華やかさを同時に演出する。私が、一番好きなところであった。
そういえば、私と彼が初めて出会った日もこんな雨の日だったなとふと思い出す。それは、とある公園でのお話。私が用もなく一人でふらついていると、急に雨が降り始めたのだ。
当然傘は持っておらず、近くにお店もなかったためやむ無く木の下に入った。いつまで続くのかな、とぼーっと空を眺めていたら突然、知らない人影が同じ木の下に入ってきた。
深く青いフードを被っていて、顔はよく見えない。しかし、少し茶色に染まった髪と横顔がちらっとだけみえた。その雰囲気は、話しかけたら蹴落とされてしまいそうなほどに強い威圧感が漂っている。
しかし、自然と怖いという感情は沸いてこなかった。むしろ……。そんな事を思いながらまたぼーっとしていると、隣からタオルが飛んできた。何事? とおもい彼の方を見た。すると、猫みたいに綺麗な瞳をした少年がこちらを覗いてポツリと言葉を呟いた。
「それ、あげる。返さなくて良いから、風邪引かないようにしてな」
「で、でも……」
「いいから」
「あ、ありがとう」
見かけに寄らず優しいんだなぁと思いつつ、そのタオルで体を拭いた。このまま帰ったら、風邪を引いてしまうところだっただろう。結局、すぐに雨は止んで私は彼に別れを告げた。
もう、出会うことはないと思っていた。けど、人間の人生とは面白いもので、中学校を卒業して進学した高校で、また彼の姿を見つけた。新しいクラスの、隣の席。本当に本当の偶然。高校一年生の時のお話だった。
いつの間にかに曲は、クライマックスの最終場面になる。また、一番難しいところと同じような旋律が繰り返される。私は、難なくそれを弾き、最後の音をならした。
ペダルを強く踏み込んでいるから音が残っている。だが、そのペダルを外すと、ゆっくり音は消えていった。
手を膝に置き、一度深呼吸をした。胸は高鳴り、頬は紅潮している。しかし、とても心地が良くて疲れや辛い気持ちなど微塵も沸いてこなかった。
だけど、これだけじゃ足りない。もっと、もっとたくさん音を奏でたい。そんな気持ちが主張を強めてくる。気が付けば、私はもう一度指をピアノに置いて、音を出し始めていた。
[エリーゼのために]、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが想いを寄せる女性のために作曲されたとされる曲だ。悲しげな曲調ではあるものの、艶やかで美しい音色。
それに、そんなに難しい曲でもないから弾き込む状態まで持っていくのに時間はかからなかった。
藍色のメロディーを、歌い上げる。直接私が声を出しているわけではないけれど、音楽と心が共鳴を起こして、自由に羽ばたく。そして、また心の中には過去の思い出がふつりと甦ってきた。
彼とは、あの日出会って以降なんやかんや仲良くなっていた。学校でお互いが暇なら一緒にお話しするし、お弁当だって一緒に食べた。私が、他に友達はいないのか? と訪ねると、必ずと言って良いほど「いない」という返答が帰ってきた。
すると今度は、彼が質問してくる。
「最近、好きな人とはどうなの?」
と。その言葉を聞いて、私の顔は耳まで赤くなった。彼はそんな私が面白いのか、からかってくる。因みに、この想いを伝えているのは彼しかいない。だって……
「面白いよね、ずっと生まれたときから一緒にいて、たくさん粗を知っているはずなのに、どうして
「私だって……分からないよ」
そう、私の想い人というのは双子の兄なのである。こんな歪んだ感情を誤ってクラスのお女子様にでも言ってしまえばさあ大変。瞬く間に噂が回って好奇の目に晒されることであろう。だけど、彼はどうせ友達と言える友達がいないだろうし、普段は何を考えているか分からないけど、決して人の嫌がることをする人間ではない。
信用しているからこそ、彼にだけは教えた。彼は、その事を理解しているんだかしていないんだか分からないけど、たまには親身になってお話を聞いてくれたりする。いつしか、この時間が一番大好きな時間になっていた。
「分からない、か。それは一番簡単な回答でもあって一番難しい解答だよね?」
「ん? どゆこと?」
「簡単なことさ。答えるのは簡単。だけど、どうしてそんな言葉が出てきたのかは本人にもわからない。そんな矛盾した考えのこと。まあ、恋なんてそんなものだろ。好きになるのに理由なんて必要ない」
全く表情を変えずに、淡々と話す彼。最初は不気味だと思っていたが案外なれてくればどうってこともない。
「ふーん……まあ、そんなことはどうでも良いとして、君は好きな人と最近どうなの?」
私は、仕返しのつもりで彼に訪ねた。彼の好きな人は、誰だかわからない。だけど、その人の話をするとき、いつも彼は楽しそうであることには代わりがなかった。私が、嫉妬の感情を作り出してしまうほどに。
と、ここで私は我に返る。私は、別に彼のことが好きな訳じゃない。ただの友達だ。なのに、どうして嫉妬なんかしてしまうんだ? バカらしい、実にバカらしい。友達が幸せならそれがいいはずなのに……なんで?
「まあ、ぼちぼちやってるよ。そんなに進捗はない」
「そりゃそうか……私よりも、人と話すのが苦手な君が好きな人と話せるわけがないか」
意地の悪い笑みを浮かべて彼に話しかけた。だけど、彼はそんなのを微塵も気にしている様子はなく、目すらも合わせずに話す。
「失礼な。僕だってちゃんと毎日日常会話くらいならしているよ」
「日常会話? 必要最低限の会話じゃなくて?」
「少なくとも、最低限以上は話してるよ」
ちょっとだけ頬が赤くなっているのを見て、内心ほくそ笑みながら私は別の会話を切り出した。こうして、いつも通りの昼食の時間は過ぎていく……だけど、何か苦しいのは一体何故であろう?
緩やかに終わりを迎えていく曲と共に、思い出の世界の私の意識はフェードアウトしていく。同時に、現実世界の私の意識が戻り、指のスピードを落とし、rit(だんだんゆっくり)をかけて、曲を終わらせた。
「だいぶ、上手くなったじゃん」
彼が後ろから、声を飛ばしてくる。私は、振り返らずに次の楽譜を準備していった。
「そりゃどーも、ずっと練習してたからね」
「でもこの曲とさっきの曲は本命のじゃないんでしょ?」
「そりゃね、だって小学生の時に弾いた曲だもん。四年生と五年生だったかな?」
習っていたピアノの教室の発表会で何十人かの前で弾いたあの日の記憶。まだ家にはグランドピアノがなくて、久々に触れるグランドに心を踊らせていたっけ? それとも、緊張でそれどころじゃなかったっけ?
「そんなん、どうでもいい。早く一番練習している曲を聞かせてよ」
「はいはい、わかった」
せっかちな彼の言葉が終わると同時に、目当ての曲を発見した。中学二年生の最後のコンクールで一番上の賞を取った思い出の曲で、名前は[モーツァルト ソナタ 第三楽章 終楽章 K570]。先程の二曲とはうって変わってとても楽しくて明るい曲である。
「この曲、君に聞かせたことあったっけ?」
純粋な疑問を彼にぶつけた。すると、素っ気ない態度で言葉が帰ってくる。
「多分ない、初見だと思う」
「そっか、じゃあ心して聞いてね」
「うん」
会話が途切れたのを確認すると一度目を瞑り深呼吸をして、先程の感覚とは違う明るい曲を弾くときのコンディションを整えた。暗い曲とは違って静かな美しさではなく、明るい太陽の下で咲く花のような‘可憐’さが重要となってくる。
きっと、数あるピアノの技能のなかでももっとも難しいと思われる。だって、静かで美しい音は練習すれば弾けるけど、明るい音で大きく、元気な音というのは力加減の割合が難しいのだ。
それに、この曲は四段落構成だ。最初のところで上手くピアノの世界に引き込まないといけない。最初が肝心である。
手を、鍵盤の上に再度おいた。位置を確認する。そして、息を吸って指で鍵盤を叩き始めた。スタッカートや、レガートなどの記号に気を付け、明るさとリズミカルな音を全面に引き出して、形の残らない
基本的に、一段落目は繰り返し。一回だけリズムが変わるけど転調はないし、そんなにまだ難しくない。一度変わったところから、最初とおなじリズムに戻っていく。そして、最初の物語は幕を閉じた。
次の物語は一段落のリズムを引き継ぎながらも、ちょっとだけ内容が変わって聞いている側も楽しめるような作りになっている。弾いている側は、一段落目と全く同じような繰り返しにならないように微妙な違いを出す。具体的に言えば、強弱の降り幅を大きくすることだ。最初は、大きな音と小さな音を大体同じ音とリズムで繰り返す。
その時に、はっきりとした違いをつけることにより聞いている側にも飽きないような作りになっている。ということで二段落も難なく突破した。問題は次である。
三段落目は、二段落目との繋がりを保つための橋渡しから始まる。最後に繋げるために少しだけ静かになる第三段落。比較的元気だった二段落目との間に違和感を残さないようにするためだ。
因みに、第三段落は個人的にはもっとも難しい。左手と、右手のリズムが連動したりおいかけっこをしたりひっちゃかめっちゃかで面倒くさいのだ。たまに、自分がどこを弾いているかわからなくなることだってある。
だけれども、ここで止まってはいけない。練習だったら良いかもしれないが、今は
大きなミスをすることなく、第四段落へと繋げられた。ここまでくれば、あともう少し。後は、丁寧に第一段落と同じリズムを繰り返して、丁寧に最後まで繋げるだけ。
終盤に差し掛かるにつれて、疲れていく指。あともうちょっと、あともうちょっとだから頑張って。右手の高音から、基準の音まで下がっていく。下がりきったら、一度大きな音を出して音を切る。そしてすぐに、小さな弱い音で右手の和音と左手の伴奏を弾く。
ここまでくれば、もう簡単。後は最後の数小節で音を大きくして……おしまいだ。
いつのまにかに、呼吸をすることを忘れていたのか、はっと苦しくなり息を吸う。一気に喉を空気が通り余計噎せる。すると、彼に対する想い……に近しい何かが胸から込み上げてきた。
急に、苦しくなる。何か、思い出したくもないような精神的な痛みが心を締め付ける。嫌だ、嫌だ、いやだ……けど、わからないといけない。
そうだ、双子の兄を愛しているというのは、半分嘘だ。私は兄の事を異性として好きなわけではない、ただ尊敬しているだけだ。
幼い頃に水に溺れ、絶望の淵に落とされた私を救ってくれた兄に恋心に似た感情を持ってしまうのは無理もない。
──私は彼のことが好きなのだろう。そんな気持ちがあるからだ。勉強をしていても、ピアノを弾いていても、何をしていても君の事を考えてしまう。やめたいと思ったところで、止めることはできない。
君がいつも身に纏っている檸檬の香りは、私に恋という名前の春を運んでくれた。だけど、君が違う人を好きなのは知っている。だから、私は何も望まない。
彼からの愛も、一緒に笑っていられる権利も。ベートーヴェンは、その人のためだけに曲を作ってまでも愛し、フラれた愚か者。だけど、一生叶うことのない望みを持ち続けて、乾いた笑みを溢し続ける私はもっと愚かなのだろう。
乾いた拍手が、部屋の中を駆け巡る。君は、上手だったよと一言声をかけてくれた。バレていないとでも思っているのか、心底軽蔑しきった目で。
檸檬の香りが、鼻の奥底を刺激した。花言葉は、誠実な愛。私には似ても似つかないその言葉が、心を刺激する。
私のこの恋は、報われない。そんなことはもうわかっている。だけど、くだらない期待を抱き続けてしまうのは、一体何故なのだろうか?
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