不幸の手紙
鈴ノ木 鈴ノ子
ふこうのてがみ
疲れ切っている、悩みがある、苦しいことがある。
そんなものみんな同じだよ、と世間の人も異口同音に言うのだが、果たしてそうだろうか?と私は自問自答を繰り返している。
それは間違ったことではないかと思うのだ。
この国には「平等」という名の病気が蔓延しているように思う。
皆が仲良く、皆が平和に暮らせる国、差別なく平等なく過ごせる国を目指そう。そういうコンセプトはよく分かるし、それは最もな意見ではないだろうか、と私も同意する。
だが、その言葉を使うときにふと違和感を覚えるのだ。
皆んな一緒だから頑張ろう、みんな耐えてきたから頑張ろう、皆んな・・・みんな・・・みんな・・・。
目指すべき目標に対して、この言葉を使うのならそれは良いことだろう。
だが、しかし、挫折しかかっている人間に対して、いや、もしくは環境やその他で自己の能力を超えていて本人がケアや、救いの手を、助けを乞うている時に、投げかけるべき言葉ではないと思うのだ。
これを言う上司というのは、もはや、上司ではない。解決的指導をすることのできない能力ない者である。
なぜそんな事をいうかと言えば、私自身の経験則から学んだことであるのだ。
私はそれで人を殺めてしまっている。
それは直接的な殺人ではない、間接的に殺人に加担したに等しい。
同期入社であった大学からの友人と仕事の相談と愚痴をお互いに飲んで言い合っているときだ、ふと、「苦しい」と漏らした。その「苦しい」の一言は今思えば、心の底から漏れいでた苦しいであっただろうと思う。
だが、私は大学からの親しい友人にも関わらず、その言葉に対して「俺だって、みんなだって苦しいぜ」と言ったのだ。いや、当たり前のことを当たり前に返しただけじゃないか、と言えるのかもしれないが、その時の私には思いやりと読み取るという能力が欠如していたのだ。
「だよなぁ」
と言って赤ら顔で疲れた笑みを見せた彼と飲み別れた後、数日間、音信不通となり、そして梅雨の時期の雨の降り頻る雑木林で縊死しているところを発見された。
『疲れた。すまない』
友人の携帯には一言そう書かれているのみであったそうだ。
慌てて通夜に駆けつけると柩の蓋は固く閉じられていて、友人の妹が私を含む集まった大学の同窓生達に、とても死に顔としては見せれるものではないと告げたとき、その死がいかに酷いものであったを実感した。
人は時として『短く、端的に』[語る]
その言葉がどのタイミングで発せられるかは分からない。
友人だからこそ、気をつけるべきだ。
親友なら、尚のこと気をつけるべきだ。
家族なら、もっと気をつけるべきだ。
安易に話を聞き流すべきではない。
その話を簡単に済ませてしまったなら最後、その先には悩む日々が待ち受けるだろう。
どんな内容であっても、気をつけろ、その言葉のどこか1つに、死神が姿を見せているのだ。
みんな平等という、『差別』に気をつけろ。
そうしなければ、あなたの未来は、辛く、苦しく、やり切れない、未来に繋がってゆくだろう。
これはみんな平等になるという素晴らしい未来を語りながらの、その先の未来へ向ける「不幸の手紙」である。
不幸の手紙 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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