第10話 彼の真意

 本当に、どこまでも慎ましい姉思いの妹だ。姉の心境を思い、胸を痛めているようにしか見えない。

 ノエルがいるので侯爵の弟が口を出すことはないけど、もしも私とアニエスと彼だけだったら、非難の目ぐらいは向けてきたかもしれない。

 傷心に至る原因がアニエスにあることすら忘れて。


 こぼれそうなため息をこらえ、今にも大粒の涙を流しそうなアニエスを見据える。

 何を言っても逆効果。そんなことはないと否定しても、強がっているだけだとか言われて終わる。


 これならまだ、表立って非難してくれたほうがありがたい。だけどアニエスはそうしない。

 いつだって、強がっているだけだから、素直になれないだけだから、と言って、こちらの言い分を封じ込める。


「……あなたのほうこそ、何か勘違いしているんじゃないですか?」


 淡々とした、揺らぐことのない声が横から聞こえた。

 見上げると、ノエルがいつもと同じ、変わらない眼差しをアニエスに向けている。


「僕と彼女はしっかりと話し合ったうえで、結婚を前提としたお付き合いをはじめました。心配には及びません」

「で、でも……姉は……だから、その……分不相応とは、思わないのですか?」

「まったくと言っていいほど思いませんね」


 きっぱりはっきりと告げるノエルに、アニエスが胸の前で両手を組む。懇願しているような仕草だが、爪が食い込みそうなほどこめられている力が、彼女の苛立ちを物語っている。


 本当に、いい加減にしてほしい。


 ドレスや髪飾りまでは許そう。

 学院の件も、百歩譲って許してもいい。


 だけど、私の将来の相手にまで干渉してきてほしくない。


「ねえ、アニエス。あなたが心配するようなことはないわ。だって私、この人のことが好きで告白したんだもの。気が触れたとか、そういうことでもなく、心の底からこの人がいいって、そう思ったのよ。だから、安心してちょうだい」


 微笑んで、妹を労わる姉を演じる。

 傍からみれば、美しい姉妹愛に見えなくもないだろう。互いの心のうちはともかくとして。


「ええ、そうですね。僕も数年前にミュラトール領を訪れてからずっと、彼女のことを慕っていました。ですが、彼女が塔に来たときにはすでに婚約者がいて諦めていたのですが……あなたのおかげで、こうして愛し合う恋人になれました。感謝していますよ」


 告白まがいの言葉と、感情を微塵も感じさせない態度。あいかわらずのちぐはぐさに、見ている人の頭を混乱させないかと心配になったけど、アニエスが下唇を噛んで悔しそうに体を震わせているので、大丈夫そうだ。


 ここまではっきりと言われたら、さすがにアニエスも引き下がるだろう。

 そう思って、ノエルの腕に手を添える。この場から立ち去るために。


「そんな――そんなはずが、ありません」


 引き際だということは、アニエスもわかっているはず。

 これ以上食い下がれば、周囲には無粋な妹として映る。慎ましい妹を演じてきたアニエスだからこそ、おとなしく引き下がると思っていた。


 だけど、どうしても認めることができなかったのだろう。悔しさで歪んだ顔は、絶対に引かないという固い意思を感じさせる。


「きっと、騙されているのよ。そうに決まっているわ。だって、だって、こんなのおかしいもの」


 顔を引きつらせながら唇を震わせて、そんなはずがないと呟くアニエスに、ノエルが小さく息を吐く。


「それ以上喋れば侮辱とみなします。魔術師を敵に回す覚悟はありますか?」


 そこでようやく、アニエスの言葉が止まった。

 魔術師を敵に回したい人はいない。一人敵に回せば、面白そうだからと他の魔術師も敵に回る。

 そうなれば、魔物の目撃情報があっても魔術師は派遣されず、甚大な被害を受ける覚悟で兵を動かし討伐するしかない。


 アニエスは自らの将来を伯爵夫人に定めた。伯爵領の平穏がかかっているとなれば、さすがに黙らざるを得なかったのだろう。


「……興が削がれてしまいましたね。当初の目的は達しましたし、帰りましょうか」


 差し出されたノエルの手を取る。縁談の申し込みが来ないように、という目的はたしかに達成された。

 アニエスが食い下がったことで、一連の流れも含めて広がっていくだろう。


「それではまた、ご縁があれば」


 それだけ言うと、振り返ることなくノエルは城を出た。私と一緒に。

 待たせていた馬車に乗ると、ガタンと大きく馬車が揺れ、走り出す。

 街道を走る車輪の音だけが車内に響く。私は視線を膝に落とし、ノエルは外を見ている。その間に、言葉はない。


 私が何も言えないのは、申し訳なく思ったから。

 お付き合いを承諾していなければ、アニエスが口を出してくることもなかった。


 こうなることを予想していなかったわけではない。今この時じゃなくても、いつかはぶつかるだろうと考えてはいた。

 だけどいざ目の当たりになると、申し訳なさが湧いた。アニエスの言動が予想を超えていたというのもあって、おかしなことに巻きこんだのだと、今さらながら自覚した。


「……ひとつ、聞きます」


 馬車の窓から視線を外すことなく、ノエルが静かな声で言う。


「あなたが元の婚約者に私怨を抱いていないことは聞きました。では……元の婚約者ではなく、妹には?」


 外に向いていた水色の瞳が私に向く。どこまでも静かな、湖のような瞳。その中にいる私は、溺れそうな苦しい顔をしている。


「……僕を選んだのに、あなたの妹は関係ありますか?」

「正直に言うと、あります」


 頷くと、ノエルはアニエスに向けたのと同じように小さく息を吐いた。


「他の誰もが認めてくれて、それでいてアニエスだけが納得できない人」


 魔術師本人でなくても、魔術師からの信頼厚い人であれば、両親は許してくれる。そう思っていた。


「そして私が手の届く範囲で、好ましいと思える人。……それが、あなたでした」

「なるほど。わかりました」


 静かな声に、揺らぐことのない瞳。いつもと同じはずなのに、息苦しくて、ドレスを握りしめる。

 呆れているのか、怒っているのか。ぴくりとも動かない表情からは読み取れない。

 何を考えているのかわからないということが、こんなにも恐ろしいものだとは知らなかった。


「事前に妹のことをお伝えしなかったのは、私の落ち度です。お付き合いの件は、撤回していただいても構いません」

「どうして撤回する必要が?」

「わずらわしくないと、嘘をつきました。いえ、厳密には嘘ではないのですが……訂正しなかったのですから、契約不履行と判断されてもしかたないと、思っています」


 ノエルはたしかに、わずらわしいことがないのは魅力だと言っていた。

 加点となった部分が本当は存在しないとわかったのだから、降りると言われてもしかたない。

 腹をくくり、ノエルの最後通告を待つ。


「……そういえば、そんなこともありましたね」


 だけど返ってきたのは、肯定でも否定でもなかった。


 こちらを真っ直ぐに見据える水色の瞳。

 先ほどまで感じていた息苦しさはいつの間にか消えている。それは、彼の目の奥に、何故か力強い意思を感じたからかもしれない。


「先ほども言いましたが、僕があなたとのお付き合いを受け入れたのは、運よくこの手に転がり込んできたからに過ぎません」

「先ほど、というのは……?」

「以前からあなたを慕っていたという話ですよ」


 そういえば、そんなことをアニエスに言っていた。

 古代魚の討伐がミュラトール領で行われたという話から発想を得ただけの、口からでまかせだと思っていた。

 だけどもしもあれが真実なら、おかしな点がある。ノエルは昨日、古代魚をどこで討伐したのか覚えていなかった。


「……どこで討伐したか、意識していなかったと言ってませんでしたか?」

「僕が意識したのはあなたでしたから。あなたがいる場所に古代魚がいたから討伐しただけです」

「え、ええと……それは、つまり……?」

「慕っている相手に危険が及ぶ可能性があったから排除しただけだということです」


 はっきりきっぱりと言い切られ、思わずたじろぐ。

 いやだって、そんな素振りはいっさいなかった。そもそも、最初に提案した時は保留されたし、その後も本気かどうか確認され――


 ああ、そうか。本気かどうかわからなかったから、保留したのか。

 ノエルは本当に嫌なら、わざわざ保留したりしない。即座に棄却する。そんな人だ。


 今さらながらにあの時の言動の意図がわかり、頭を抱えそうになる。

 だけど、抱えることはできなかった。膝の上に置いていた手を、ノエルに握られたから。


「ようやく手に入れたのですから、わずらわしいことでもなんでも、あなたに付属しているのなら歓迎します」


 対面に座るノエルが、前のめりに私の顔を覗きこむ。水面はしんと静まりかえり、声にも抑揚はない。

 あいかわらずのノエルの顔が、そこにある。


「僕はあなたの提案を受け入れましたし、今さら撤回するつもりもありません。だからあなたも、僕がつけた条件を遵守してください。真意はどうあれ、愛ある恋人を演じ続けていただきます」


 言動と表情の熱量に差がありすぎて、「え、あ、はい」ととぼけた答えを返してしまった。

 だけどそれでも、ノエルはひとつ頷くと手を離し、元の位置に戻った。


 多分、満足のいく回答だったのだろう。表情が変わらなさすぎて、よくわからないけど。

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