白の刺繍が入った本 一節 花
熱砂の光と温度に嫌気がさす。ゆらゆらとする視界はこの場からどう逃れようかという思考すら鈍らせてくる。
何も無い川の傍に腰かけただ途方に暮れるエルツは、ため息をつき雲一つない空を仰いだ。
「まじどこだよここ……」
経緯は少し前にさかのぼる。自称店主の非常に怪しい風貌の人物に本を押し付けられた。なんとかしろとその場にいた妹に助けを求めたが、それも虚しく本から光が溢れた途端、自分はここにいたのだ。
突如転送されたのかは不明だが、明らかに現実的な事ではない。
しかし、白昼夢にしては現実味がありすぎる。
自身の頬をつねってみれば痛いし、空から降り注ぐ太陽の光と熱で吹き出る汗も決して幻覚などでは無かった。
「あっつぅ……」
妹と同じ暑さへの反応を示すもなすすべはない。やはり途方に暮れていると背後から凛とした少女の声がかけられた。
「あの……そこの殿方、どうさらたのかしら」
驚いた。
純粋に驚愕してしまい、振り向くことも口を開くこともできなかった。
硬直していると不安げに背後に立つ少女の声は続いて飛んでくる。
「あの……」
「もしかして、死んでる?」
「死んでねぇよ」
突拍子もない不吉発言に怒りをあらわにしてしまう。
突っ込む言葉と同時に振り返ればそこには人形のように端正な顔立ち、スラっと細長い手足、白いワンピースに赤い花々が散りばめられた輝くほどの美少女がいた。
普通の男だったら言葉につまるほどの美貌だ。
だが、エルツはそれくらいでは怯むことはない。
「誰だよあんた……」
「まぁ!人に名前を聞くならまず自分からではないの?」
すかさず反論する少女は深紅の瞳を訝し気に細める。黒髪は三つ編みされており赤いメッシュが時々視界に入ってきた。
「はいはい……俺はエルツ。あんたは?」
「私はムムターズ・マハル。フッラム皇子の奥さんです!」
胸を張り、ふふんと笑顔を浮かべるムムターズに再度ため息をつく。
呆れなのか失望なのかはたまたまだ途方に暮れているのか。どうしようもない、エルツはただただ頭を抱えた。
「貴方ここでどうしたの?おさかな釣り?」
「この状況の人間が魚釣ってるように見えてるなら終わってるなお前」
「はい!今日の公務は終わらせました!」
「何言ってんだ」
怒涛の天然乱舞に頭痛がし始める。会話がかみ合ってるようで噛み合わないこの少女はただの馬鹿なのか本物の天然なのか。
しかし、今はそのことなどどうでもよい。
ここがどこなのか、なぜここにいるのか、どうやったら戻れるのか、考えなければ対策しなければならないことは多々ある。
「ここ……どこだよ」
「ヤーナム川の近くよ」
そうだけど、そうではない返答が帰ってきた。だが、川の名称自体は耳にしたことがある。
おそらくここはインド。ムムターズ・マハルという名前はタージ・マハルという霊廟に埋葬されていた人物名だったはずだ。
なぜ彼女が生きてここで話しているのかは不明で疑問が湧くがもちろん解決には至らない。
「……ムガル帝国か」
「えぇ、そうよ?」
少女の肯定から一つの疑惑と推理を思いつく。
もしかしてここは本の中なのだろうか、という推理だ。
非現実極まりなく、理解し難く度し難い。だが、現実は小説よりも奇なり。
「今は起きるわけがないという仮定はなしにしないとな……」
エルツの独白に少女は首を傾げるが、自分の世界に入り込んだエルツに少女の声は届かない。
あれこれと少女がアプローチを仕掛けてみるもエルツは動じなかった。頬をつねられてもまとめたツインテールをぐるぐる回されても、いないいないばぁをしても、彼は動じなかった。
「もう!へんてこりんな人ね!」
きょうび聞かない文句を口にしていると、ふとエルツは顔をあげて少女に向き直る。
「なぁ、お前。」
「あら、なぁに?」
エルツは口を開く。ギラギラと照らされる太陽光、揺らめく熱砂の陽炎。目の前には白冠の少女。
「涼しいところに連れてってくれ。」
エルツの身体は熱中症目前に到達していた。
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